しっとび伊吹

ジャンル:スポーツ / テーマ:ジョギング・ランニング / カテゴリ:走の記:日常編 [2017年04月30日 01時30分]
アノ山へ「登り初め」の時季がきた…2009年より「かっとばない」・「かってに」・「きっとび」・「ふっとび」・「あっとび」・「すっとび」・「やっとび」・「かいとび」と続いて、そして、9年連続で春の伊吹山に…私は帰ってきた!
 
2017年4月29日
伊吹山登山
 
 しっとび伊吹 (1) しっとび伊吹 (2) しっとび伊吹 (3)
伊吹薬草の里文化センターの駐車場から曇り空の下の伊吹山を見上げながら、スタート! 山頂までの往路は‘かっとび’コースで。三之宮神社(0合目)から林道ルートでスロージョグ。一合目を約40分で通過。登頂だけが精一杯の目標なので、ここからは一歩も走らないと誓う(笑)。疎らに響くウグイスの囀りを聴きながらハアハアと進んで、三合目へ。
 
 しっとび伊吹 (4) しっとび伊吹 (5) しっとび伊吹 (6)
天気予報の問題か、ゴールデンウィーク期間の初日というのに登山者は少ない。曇天だから暑くはないし、ガスも出ないし風も弱い。絶好の登山日和なんだがなぁ…Shit! 私の足と心肺だけが不良だ。五合目を約1時間30分で通過。七合目を約1時間50分で通過。八合目過ぎは昨年までよりも一段と崩落が進み、ところどころ見慣れない岩が転がっている。
 
 しっとび伊吹 (7) しっとび伊吹 (8) しっとび伊吹 (9)
山頂部の手前の尾根筋に残雪、ザクザクとミニ雪渓を踏み進む。山頂に約2時間17分で到着…Shit! 休憩なしで登ってこの遅さ。まぁ、目標は達した。山頂売店「えびすや」へ今年初の「ただいま~」、温かいお茶をいただく。そして生ビールも飲む。さらにラムも飲んで、タバコ吸って、オヤジさん(松井純典氏)やケンちゃんとほろ酔い談議。
 
 しっとび伊吹 (10) しっとび伊吹 (11) しっとび伊吹 (12)
一等三角点の標石を踏んで、四囲の遠望を眺めてから、下山開始。下りの復路は‘登山道’コースで。酔い覚まして戻るだけが精一杯の目標なので、一歩も走らないと誓う(笑)。さっきは一瞬晴れたが、雲行きが怪しくなってきた。代搔きで水入れの田が並ぶ眼下の景色を見ながら進むと、ポツリポツリと雨が降り出して、雷鳴が響き始めた。
 
 しっとび伊吹 (13) しっとび伊吹 (14) しっとび伊吹 (15)
一合目上のトイレで小用を済ませた頃には、空は黒い雲に覆われて、突風吹きつけるドシャ降り。林の中の登山道は日が暮れたように暗くなり、私の足運びもおぼつかない。時々に稲妻で明るくなるのは歓迎。三之宮神社(0合目)まで下ると、突風で折れた生木の枝が鳥居の下に落ちていた…Shit! 私もズブ濡れ過ぎて笑える。伊吹薬草の里文化センターに約2時間4分で到着、フィニッシュ!
 
 しっとび伊吹 (16) しっとび伊吹 (17)
車内で着替えた後、帰途に「伊吹野そば」へ寄って「揚げ玉おろしそば」を食べる。今般の伊吹山登山は、登頂するだけでギリギリの往路、嵐に巻き込まれてグショグショの復路、上りも下りも‘Shit!’を連発した。だが、咲き残った山の桜をところどころで眺められたり、山頂でほろ酔い談議したり、それらは‘the shit!’(最好!)だ。…じゃあ今2017年は「しっとび伊吹」だ。蕎麦を食べ終えて店を出ると春の嵐は去っていて、‘ザ・シット!’に美しい「しっと・美」の伊吹山が青空に浮かんでいた。
 
コメント (4) /  トラックバック (0)
編集

珈琲桟敷

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年04月28日 23時00分]
山川直人が描く漫画「シリーズ小さな喫茶店」の単行本(ビームコミックス/KADOKAWA エンターブレイン:刊)、1冊目は『一杯の珈琲から』(2015年10月)、2冊目は『珈琲色に夜は更けて』(2016年6月)、そして3冊目は『珈琲桟敷の人々』(2017年4月)と題されていた。「珈琲桟敷」(コーヒーさじき)とは、何だろう?
 珈琲桟敷 (1)
 
『珈琲桟敷の人々 シリーズ小さな喫茶店』の特徴は、収載された話の全てで一つの喫茶店が舞台になっていることだ。「水の戯れ」(連載第21話・収載第24話)から登場した自家焙煎でネルドリップの店「珈琲ロルカ」が、「おしゃべりな夜」(連載第22話・収載第21話)、「人面犬と少女」(第23話)、「さまよえる男たち」(連載第24話・収載第26話)、「消えていく店」(連載第25話・収載第27話)、「花林糖の日」(連載第26話・収載第22話)、「曖昧な記憶」(連載第27話・収載第25話)、「嘘とマッチ箱」(第28話)、「汝の敵を愛せよ」(第29話)、「燦めく星座」(第30話)まで、計10話を通して出づっぱり。収載順では、客の‘月永さん’を「おしゃべりな夜」で主人公にして始まり「燦めく星座」でリフレインさせる単行本の構成は見事。だが、『一杯の珈琲から』や『珈琲色に夜は更けて』にみられた突飛や異様の話が減じた『珈琲桟敷の人々』は、奇譚としての面白味が失せた。
 珈琲桟敷 (2)
 
『珈琲桟敷の人々』は、英文で“Children of Paradise in a Coffee Shop”と記されているから、「天井桟敷の人々」に擬(なぞら)えたに違いない。映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du Paradis/1945)を不朽の名作たらしめているのは、ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert/1900-1977)のシナリオに由るところが大きい。そのプレヴェールが、映画公開の翌年に発表した単行本の処女作『言葉たち』(Paroles)、その中に収められた詩‘Déjeuner du matin’(朝の食事)を抄訳して掲げよう。
 
 珈琲桟敷 (3)
 あのひとはコーヒーを
 カップについだ
 あのひとはミルクを
 コーヒーカップについだ
 あのひとは砂糖を
 カフェオレに入れた
 小さな匙で
 あのひとはかきまわした
 あのひとはカフェオレを飲んだ
 それからカップを置いた
 わたしに何も話しかけないまま
 
これは「天井桟敷」でも「珈琲桟敷」でもなくて、「珈琲朝食」(コーヒーあさじき)の詩だ。もう一つ「天井桟敷」とコーヒーを繋げるならば、劇団「天井桟敷」を主宰した寺山修司(1935-1983)だ。寺山修司の第一歌集『空には本』(的場書房:刊 1958)、その中に収められた短歌を掲げよう。
 
 ふるさとの訛(なまり)なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
 
これは「天井桟敷」でも「珈琲桟敷」でもなくて、石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」(第一歌集『一握の砂』/東雲堂書店:刊 1910)を本歌取りしている「珈琲乞食」(コーヒーこじき)の歌だ。そして、今の世は「天井桟敷」というよりも「聾桟敷」(つんぼさじき)だ。だから、寺山修司の歌に擬えて、狂った歌を近未来へ掲げよう。
 
 ふるさとに鉛(なまり)あつめし友逝きてモカ珈琲は核までにがし
 
『珈琲桟敷の人々 シリーズ小さな喫茶店』は、「天井桟敷」の人々に向こうを張ったつもりだろうが、大向こうを唸らせるほどの出来ではない。奇矯や怪異の話が減じた『珈琲桟敷の人々』は、漫画としての面白味も失せた。小さな喫茶店「珈琲ロルカ」に桟敷席があるとも思えないが、「天井桟敷」で飲むコーヒーは香味も失せて不味いのだろうか? それは山川直人の課題というよりも、「聾桟敷」の世情に因るのだろう。「珈琲桟敷」とは、何だろう?
 
コメント (0) /  トラックバック (0)
編集

美食の迷走

ジャンル:グルメ / テーマ:フレンチ / カテゴリ:食の記 [2017年04月21日 05時30分]
コーヒーを愛好し研究するに先覚たる山内秀文(やまうち ひでのり)さんより、氏が訳出した本の新訂版を恵送いただいた。『フランス料理の歴史』(ジャン=ピエール・プーラン エドモン・ネランク:共著/山内秀文:訳・解説/角川ソフィア文庫 KADOKAWA:刊 2017年3月)である。原著の“Histoire de la cuisine et des cuisiniers:Techniques culinaires et pratiques de table, en France, du Moyen-Age à nos jours”(Jean-Pierre Poulain, Edmond Neirinck)は、その1988年初版が『よくわかるフランス料理の歴史』(大阪あべの辻調理師専門学校:監訳 藤井達巳・藤原節/同朋舎出版:刊 1994年)として、2004年第5版が『プロのためのフランス料理の歴史 時代を変えたスーパーシェフと食通の系譜』(辻調理師専門学校 山内秀文:訳/学習研究社:刊 2005年)として、日本語の訳本が刊行されていた。今般に文庫化された新刊は、2005年の訳本を加筆修正、これに訳者自らの補記を加えたものである。
 美食の迷走 (1)
 
 《…この本の最大の特徴、それは終始グランド・キュイジーヌ、オート・キュ
  イジーヌと呼ばれる最高料理の流れに焦点をあてて、フランス料理の
  歴史をたどっているということだ。(略) アナル派の歴史観が台頭して
  からは、大衆的な料理、日常食と高級料理を等価に扱う歴史書が多い。
  もちろんこうした歴史の捉え方も重要だが、ただフランス料理が普遍的
  な料理として世界に君臨している理由を考慮すれば、高級料理に焦点
  をあてた料理史は、ある意味で本道といえるし、日本のプロの料理人、
  料理の愛好家にとっては納得しやすく、かつ実用的なフランス料理史と
  いえよう。》 (山内秀文 「はじめに」/『フランス料理の歴史』 pp.13-14)
 
まず、私なりの半解を述べよう。オート・キュイジーヌ(haute cuisine:高級料理)の歴史書と聞いて気後れする向きもあろうが、本書『フランス料理の歴史』に臆したり怯んだりしてはつまらない。少なくとも、「オレはナイフとフォークの上品ぶった店では食った気がしない、赤提灯で焼き鳥の方がずっと美味い」などと、僻み根性丸出しの経験則で本書を遠ざけて欲しくない。アナール学派の歴史観の良し悪しは別としても、民衆史とか生活史とか民俗学とか名乗るものの中には‘心性’や‘意識’をむやみやたらに反権力や下層擁護へ結びつける愚論や暴論も多い。だが、私に言わせれば、オート・キュイジーヌの歴史は大衆料理の歴史を追うよりも余程にわかりやすい。オート・キュイジーヌの形成と展開は、その変遷が継承であれ反発であれ、概ねでは体系化や合理化への方向性が明瞭である。それが、《フランス料理が普遍的な料理として世界に君臨している》ことや、《ある意味で本道といえる》ことの理由にもなっている。対して、体系や合理を持たない大衆料理の雑駁さは、気楽なようで真に諦観することを難しくする。だから、仮に「赤提灯で焼き鳥を食べながら」でも話題にするべきは、本書『フランス料理の歴史』のような本についてである。
 美食の迷走 (2)
 
 《プーランが本書を書き終えてからの10年で、オート・キュイジーヌの地
  図は激しく塗りかえられた。(略) フランスには今も多彩な才能が現れ
  ているが、彼らはグローバル化したオート・キュイジーヌの世界では、
  世界に散らばる優秀な料理人の一部に過ぎないともいえる。フランス
  は今後も「フランス料理」の中心であることは変わらないにしても、グ
  ローバル化が進む限りは、これまでのようにオート・キュイジーヌの覇
  権を独占する状況に戻ることは難しいだろう。》 (山内秀文 「フランス
  料理の現在〈2005-2016〉 跋文に代えて」/前掲書 pp.420-421)
 
次に、私なりの曲解を述べよう。文庫化された『フランス料理の歴史』の真価は、山内秀文による《跋文に代えて》という追録にある。旧版にあった挿絵などの図版が新訂版で削られてしまったのは残念だが、《プーランが本書を書き終えてからの10年》の新たな動向、テクノ=エモーショネルやネオ・クラシシズムやネオビストロ(ビストロノミー)などの展開を整え述べた補記は見事である。そして、原著ではフェラン・アドリアによって引き起こされた流れを「美食の迷走」と本文の最終節で非難がましく憂いた著者ジャン=ピエール・プーランと異なり、訳者の山内秀文は《オート・キュイジーヌの覇権を独占する状況に戻ることは難しい》と「フランス料理」の衰亡を冷静に捉えている。料理界の中心円として形成されたオート・キュイジーヌ、黄金期と呼ばれて真円が拡張した19世紀、ヌーヴェル・キュイジーヌの登場で焦点が二重化して楕円となった20世紀、そうしたフランス料理の体系化の歴史に軸ブレはなかった。それが現在は円が崩れて不定形化して中心軸から離れて、料理界における「フランス料理」の優越が衰滅した、そう私は解している。だが、明瞭に君臨する世界帝国が現在の地球上にないからといって、過去の帝国の興亡を探る価値がなくなるわけではない。同様に、プーランらが描いた「フランス料理」の歴史的価値が崩れたわけではない。むしろ、山内秀文の補記による真価は、『フランス料理の歴史』全体を読み返す意義を教えている。
 美食の迷走 (3)
 
 《美食の迷走は、美食体験の中で味覚が食べるという行為に優越するよ
  うになる、この瞬間に始まった。食べるということが、食事をする理由で
  あることをやめてしまったのだ。試食の際にも、最も重要な段階は、口
  に入れるその瞬間になった。そして、飲み込んだ後にくる、感覚の融合
  や統合という価値観は、美食の地平からは消え去ってしまった。 こうし
  た傾向は、ワインが先行している。19世紀まで優勢だった、ワインが
  飲み手に及ぼす効果を含み込んだ、ワインと酩酊の文化から、ワイン
  への関心が味覚の次元に集中する感のある、ワインの味の文化へと
  移行してしまった。だから、今日のワイン分野での危機の大部分は、味
  覚の迷走に関わるものだ。》 (ジャン=ピエール・プーラン 「美食の迷
  走」/前掲書 pp.334-335)
 
さらに、私なりの俗解を述べよう。プーランが「危険かつ誤った騒乱」とも「美食の迷走」とも呼ぶ事態は、分子美食学やテクノ=エモーショネルだけに要素や因子を求められない。例えば、「食育」にも‘騒乱’や‘迷走’が見られる。食育の‘迷走’も、《味覚が食べるという行為に優越するようになる、この瞬間に始まった》のであり、その典型が‘Institut du Goût’(味覚研究所)を創設したフランスのJacques Puisais(ジャック・ピュイゼ)による「ピュイゼ・メソッド」である。フランスで味覚教育として始まった「ピュイゼ・メソッド」、その洗礼を受けた初期の児童は既に40歳代に達していて、中には《優秀な料理人》として活躍する者もいる。この《味覚が食べるという行為に優越する》食育は世界各国に広がりをみせて、日本でも(奇しくも2005年頃から)三國清三らによって盛んに喧伝されている。プーランは「美食の迷走」の傾向を《ワインが先行している》と述べているが、ピュイゼがワインの醸造と香味研究の権威であることに鑑みれば、私には何らの不思議もない。そして、ワインに始まった「美食の迷走」は、私に言わせれば、コーヒーの世界にも及んでいる。プーランの言を書き換えてみよう。
 
 「珈琲の迷走は、喫茶体験の中で味覚が喫するという行為に優越するよ
  うになる、この瞬間に始まった。喫するということが、飲用をする理由で
  あることをやめてしまったのだ。試飲の際にも、最も重要な段階は、口
  に入れるその瞬間になった。そして、飲み込んだ後にくる、感覚の融合
  や統合という価値観は、喫茶の地平からは消え去ってしまった。 こうし
  た傾向は、珈琲が後追いしている。20世紀半ばまで優勢だった、珈琲
  が飲み手に及ぼす効果を含み込んだ、珈琲と覚醒の文化から、珈琲
  への関心が味覚の次元に集中する感のある、珈琲の香味の文化へと
  移行してしまった。だから、今日の珈琲分野での危機の大部分は、味
  覚の迷走に関わるものだ。」 (鳥目散帰山人)
 
さて、私なりの半解なり曲解なり俗解なりが確かならば、料理やワインに興味がある者はもとより、コーヒーなども含めた全ての飲食物を愛好する者にとって、角川ソフィア文庫の『フランス料理の歴史』は必読の書であるといえよう。…さあ、山内秀文よ、怜悧聡慧にして遠識兼照なる訳文と解説を、日本中の食魔へ大いに見せつけるがいい!
 
コメント (2) /  トラックバック (0)
編集

翡翠のコーヒー

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年04月17日 23時00分]
2000年3月18日、フランスの風景を中国の古墨で描いた日本画の企画展の会場で、一夜限りのフレンチレストランが開かれた。このクリエイションZAG(名古屋市東区)で催された晩餐会は、ソムリエがオーナーであるレストランの開業の予告と料理の試行を兼ねていた。友人の近藤マリコ氏が企画したもので、カミさんと食事を楽しんだ私は、食後のコーヒーを担当した。自宅で焙煎してきたモカ・マタリを、会場で淹れて供したのである。同年の後日、ソムリエの那須亮氏は、‘翡翠’(カワセミ)を店名に冠したレストランを名古屋市千種区に開いた。
 
あの一夜限りのレストランから17年が過ぎた2017年3月18日、私はカフェ・バッハ(東京都台東区)でシュークリームをおやつにしながらコーヒーを飲んでいた。そのコーヒーは中国雲南省瑞麗の江東農園のもので‘翡翠’(ひすい)という名が冠せられていた。私は数日前に受けた近藤マリコ氏の依頼を思い出した。曰く、「那須亮氏が還暦を迎え、それを言祝ぐ晩餐会を店とは別の場所で一夜限りで催す。ついては食後のコーヒーを供せよ」と。‘翡翠’を飲みながら、那須氏が生まれた「昭和32年」をドレスコードとする晩餐会で担うべきコーヒーを練った…
 
 翡翠のコーヒー (1) 翡翠のコーヒー (2) 翡翠のコーヒー (3)
2017年4月16日、「那須亮・還暦祝ディナー」が催されている会場の太洋ビル(名古屋市東区)に闖入(?)し、食後のコーヒーを担当した。ドレスコード「昭和32年」に関しては、中南米のコーヒー生産7ヵ国の輸出割当協定「メキシコクラブ」が1957年7月に結ばれたことに因んで、7ヵ国から選んだ豆をブレンドしたコーヒーとした。ティジュコ(ブラジル)とブエナヴィスタ(コロンビア)とセントタラス(コスタリカ)とモンテクリスト(ニカラグア)とサンタリタ(エルサルバドル)とマリランディア(グァテマラ)を等分に、協定の開催国産であるシエラミステカ(メキシコ)は倍量に、7種類の生豆を手廻し釜で混合焙煎したものを用意した。抽出は、ヤグラ掛けしたネル布での「打ち返し」(二度濾し)、それも「半返し」を披露することにした。デザートのシュークリームとワインが供された後に、「メキシコクラブ」や「打ち返し」、そして昭和32(1957)年の喫茶店でのコーヒーの値段が1杯50円(ラーメンは45円、映画観覧は140円)だったことなど雑話を晩餐会の参加者に説いてから、コーヒーを淹れて供した。
 翡翠のコーヒー (4) 翡翠のコーヒー (5) 翡翠のコーヒー (6)
 
晩餐会の終了後、ロールアップしたパンツの下から赤い靴下を見せていて正に‘翡’(カワセミ)姿の那須亮氏と歓談、それから会場を去った。‘翡翠’の那須亮氏と企画した近藤マリコ氏が関わる晩餐会での17年ぶりのコーヒー提供は、60年前の国内外のコーヒー事情を改めて考証することにもなった。私自身のコーヒー探究にとっても好い機会だったなぁ…帰宅後、土産に頂戴したワインと菓子を取り出しながら、「メキシコクラブ」と「打ち返し」で懐古と優美が合い立つ一夜限りの‘翡翠’のコーヒー、その味わいを想い返した。
 
コメント (0) /  トラックバック (0)
編集

シン・コシラ

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年04月16日 01時00分]
映画『シン・ゴジラ』(2016年)は「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」などという惹句を掲げていたが、コーヒーの世界に必要なものは虚構の‘ゴジラ’ではなくて現実に‘コシラ’(拵)えることだ。時に新たに、時に神へ、常から真に、手間(てま)隙(ひま)をかけて材を用い形を整え意を注いで作る…「シン・コシラ」こそ欲するべきなのだ。
 
 《あまりにもぶざまだ。11日、東芝は2度にわたって延長していた20
  17年3月期の第3四半期決算(16年4~12月)をようやく発表した。
  だが、監査法人の承認を得ていない前代未聞の決算発表となった。
  東芝の綱川智社長は、「あらためて(期限を)延長しても(監査法人
  から)適正意見をもらえるメドが立たない」と泣き言のような説明を
  した。》 (『日刊ゲンダイ』 2017年4月12日)
 シン・コシラ (1)
 《パナソニック株式会社は、1月19日発表のコーヒーサービス事業
  「The Roast」についてサービス開始日を次の通り延期させていた
  だきます。 〈当初〉2017年4月上旬 → 〈変更〉2017年6月上旬 
  スマートコーヒー焙煎機本体の一部部品において、調達上の課題
  が発生したため当初設定していましたサービス開始日程を延期し
  ます。》 (パナソニック株式会社 プレスリリース 2017年4月12日)
 
あまりにもぶざまだ。パナソニックは1月19日発表のコーヒーサービス事業「The Roast」について、《焙煎機の開発ではイギリスのベンチャー企業「IKAWA」社と技術提携し、豆の特長を引き出すための、きめ細かな温度・風量制御、さらには使い勝手の良さを実現しました》と言っていたが、焙煎機の部品調達のきめ細かな制御に失敗、さらには手前勝手な販売延期を実現した。《厳しい品質管理と安全基準で選定した世界中の良質なスペシャルティ豆》を提供するはずの石光商事、《1種類の豆に焙煎度の異なる2~3パターンを作成》するはずの後藤直紀、これら提携した者も、事業発表の時には自ら喧伝したが発売延期については沈黙している。あまりにもぶざまだ。東芝を他山の石として、パナソニックらは泣き言のような説明を止めてコーヒーサービス事業から撤退した方がよい。コーヒーの世界を拵える資格がないのだから。
 
 《…デンバーのBext Holdings Inc.は、これらの農家が豆の公正な
  価格に見合う代金を容易にかつ迅速に得られるようにしたい、と考
  えた。同社は、見たところ高級な秤(はかり)に見えるモバイルのロ
  ボットを作った。バイヤーはこのロボットを農家の農地で使ってコー
  ヒー豆の品質を分析し、計量する。ロボットは一回分(30~40ポン
  ドの袋に詰める)の豆をサイズで選り分けて、良品の比率を計算す
  る。そして優・良・可などのマークをつける。もちろんそのマークは、
  バイヤーと農家の両方に見える。そして彼らは、Bext360のモバ
  イルアプリを使って公正価格を交渉する。同社のアプリとクラウド上
  のソフトウェアは、Stellar.orgのブロックチェーン技術を使って、豆
  の生産者生産地、バイヤーと支払い金額、などを記録する。CEO
  のDaniel Jonesによると、コーヒーを飲む人も、カップ一杯ごとに、
  コーヒーの産地や、農家が公正な代金をもらったかどうかを、分か
  るべきだ、という。“そうすれば、消費者はこれまでになく啓蒙される。
  そしてコーヒー業界の企業は、彼ら消費者の高いスタンダードを満
  たそうとする”、と彼は語る。》 (Lora Kolodny 「コーヒー豆の等級
  分けロボットとブロックチェーンを使って生産農家に公正な支払いを
  するBext360」 岩谷宏:訳/Webサイト『TechCrunch』日本版
  2017年4月12日)
 シン・コシラ (2)
 
あまりにもひどい。ロボットに《優・良・可などのマーク》で選別される生産者。モバイルアプリで《農家が公正な代金をもらったかどうか》を確かめながら飲む消費者。農民は誰のために何に向かってコーヒーを作っているのか? 喫する者は何のために誰と向き合ってコーヒーを飲むのか? コーヒーを拵える道理も、コーヒーを嗜む意義も、ダニエル・ジョーンズはわかっていない。あまりにもひどい。Bext360は設置されるごとに破壊された方がよい。コーヒーの世界を拵える資格がないのだから。
 
 シン・コシラ (3)
コーヒーの世界に必要な「シン・コシラ」は、どこにいるのだろう? 恰好だけの‘クール’は要らない。流行だけの‘スタイリッシュ’も要らない。それらは空疎を隠す欺瞞だから。手間(てま)隙(ひま)をかけて共に謀って拵える「シン・コシラ」のコーヒーを私は飲みたい。勿論「シン・コシラ」の菓子も食べたい。
 
コメント (0) /  トラックバック (0)
編集

kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

04 ≪│2017/05│≫ 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
Powered by / © Copyright 帰山人の珈琲漫考 all rights reserved. / Template by IkemenHaizin