仮装験の女

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年02月02日 23時00分]
1999年から始まって現行連続ドラマ最長の歴史を誇る(?)『科捜研の女』は、2016年の第16シーズンより主人公‘マリコの衝撃的ワンカット’が導入されて「仮装験(かそうけん)の女」へと変わってしまった。昔の榊マリコはコーヒーをミルでガリガリと手挽きする女だったが、ついに白シャツ&黒エプロンのバリスタ(?)に仮装する日が来た(『科捜研の女』第17シーズン 第11話「カップ一杯の殺人」 2018年2月1日放送)……鑑定してみましょう!
 仮装験の女 (1) 仮装験の女 (2)
 
【事件】 25歳のイケメン俳優である今村草太(松田凌:演)は、京都の「伏見みしま珈琲」の未亡人店主で39歳の三島環(酒井美紀:演)と秘かに肉体関係にあった。今村草太の子を身籠った三島環は、来店した草太に別れ話を切り出してノンカフェインのコーヒーをふるまった。店を出た今村草太は、らくがき寺単伝庵で「生まれてくる子供が日陰の人生を送りますように」と書き残してから京都ふれあい植物園の熱帯温室へ行った後に、所属事務所の社長である本城朋親(樋渡真司:演)と揉み合いになって歩道橋から転落して死んだ。今村草太のバッグにはブラジルのピーベリー10粒が、靴の表面にはチャフが遺された。いずれも「伏見みしま珈琲」を訪店した際に、三浦環の娘である百果(もか/白本彩奈:演)がアイドルとの熱愛報道に激怒して今村草太へ投げつけたものだった。
 
 仮装験の女 (3)
【台詞】 《京都は日本茶が有名だけど、コーヒーの文化も根付いている。喫茶店の数がとても多い街です》(宇佐見裕也/風間トオル:演)。 《人の記憶に頼らなくても、このコーヒー豆が彼が立ち寄った場所を教えてくれるはずよ》(榊マリコ/沢口靖子:演)。 《コーヒーの色は焙煎した時の化学変化だから、お店ごとに焙煎ごとに違いがでる》(榊マリコ/沢口靖子:演)。 《じゃあ色と香りを測定して比較すれば、被害者が持っていたものがどこのお店のものかわかる》(涌田亜美/山本ひかる:演)。 《オレ、役者やめます。オレはシェードツリーになる》(今村草太/松田凌:演)。
 
 仮装験の女 (4)
『科捜研の女』第17シーズンは《科学と正義は、進化する。》などと謳っているが、ピーベリーだのチャフだのともっともらしいコーヒー用語を繰り出しても、榊マリコのコスプレを呼んだだけだった。シェードツリーにいたっては、‘日陰の人生’という強引な意味付けにされてしまった。いや、最後に飲んだノンカフェインのコーヒーを死者が出た真相に照合しても……「カップ一杯の殺人」という副題に一致しません! では、もう少し事件を……拡大鮮明化して!
 
 仮装験の女 (5) 仮装験の女 (6)
ん? 香り成分の分析に使う試料としてコーヒー豆を挽く機器が、メリタのパーフェクトタッチⅡじゃないか! 破砕の性能はともあれ、この電動ミルは挽き粉を受けるアクリル容器にきわめて微粉が付着し易い(というよりも、ドラマで投入していた量程度では、粉全てが容器に付着するし、吐出口の奥の残滓を完全に除去することはほぼ不可能である)。こんな機種を選んで、まともな科学捜査などできるはずがない。機種の選択に失敗したところは湯川学の『ガリレオ』と同様であり、榊マリコがコーヒー好きでも頓珍漢なところは『相棒』の冠城亘と差がない。『科捜研の女』の「カップ一杯の殺人」は支離滅裂な全き無能のドラマであり、判明したのは榊マリコが「仮装験の女」であることだけだった。
 
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ウルスラは邁む

ジャンル:ライフ / テーマ:ひとりごと / カテゴリ:あ・論廻 [2018年01月29日 01時30分]
アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin)が2018年1月22日に死んだ。私にとってル=グウィンは、アースシーではなくてハイニッシュサイクルの人である。
 ウルスラは邁む (1)
 
 《さまざまな幻想的ビジョンを通じて、夢見ることの極限を追求したアーシュ
  ラ・K・ル=グィンのSFは、アメリカの女流SFのなかでも孤絶した存在で
  ある。(略) 彼女の声価を決定的に高めたのは一九六九年に発表され
  た『闇の左手』である。(略) この惑星の住民である両性具有人には男・
  女というもう一組の異文化理解が託されているが、この部分でも作者は
  性急な結論には至らず、ヒューマニズムと非ヒューマニズムの極限で、
  相互理解の可能性を示すだけである。(略) 『所有せざる人々』(一九七
  四年)では、隣り合う二つの惑星に資本主義と社会主義という二つの体
  制が仮託されている。この小説が提起しているのは、単にどちらがよい
  かという社会体制の得失だけではない。むしろそれが目指しているのは
  社会と人間の関わり方そのものの探求である。》 (新戸雅章 「アーシュ
  ラ・K・ル=グィンの孤独」/ 『SFとは何か』 笠井潔:編著/日本放送
  出版協会:刊 1986)
 
だから、《しかし彼女の最も予見的な言葉はその著作ではなく、2014年11月に全米図書賞を受賞した際のスピーチで述べられたものかもしれない》(「追悼、アーシュラ・K・ル=グウィン──困難な世界から「未来」を見通していた作家」/Web 『WIRED』 News 2018年1月25日)などという寝惚けたような評には首肯しかねる。他の新聞各紙などもスタジオジブリ制作のアニメーション映画『ゲド戦記』(2006)に引っ張られてか、ル=グウィンを「ゲド戦記の作者」と説くこと一辺倒で訝しい。どうせジブリ映画を引くならば、アニメ版『魔女の宅急便』(1989)のウルスラ(Ursula)に触れて、原画である〈星空をペガサスと牛が飛んでいく〉(1976)の《さまざまな幻想的ビジョンを通じて》アンシブルでル=グウィン作品と繋げる…くらいの芸当がほしい。
 
西部邁が2018年1月21日に死んだ。私にとって西部邁は、まったくでたらめな、実にいやな男だった。
 ウルスラは邁む (2)
 
 《「まったくでたらめな、実にいやな男だった、死んでもらってほんとに嬉しい」
  という伝わり方もあれば、「いろいろ失敗も錯誤もあったが、まあなかな
  か一生懸命格闘して、いいこともやったり言ったりして死んでってくれた
  男だ」という伝わり方もあって、どっちを選ぶかという選択問題があった
  時に、僕はどう考えても後者を取りたいと思う。ところで今日のこのコー
  ヒー、あなたにご馳走してもらえるんでしょう?(笑) 例えばあなたがおご
  ってくれるコーヒーについて、僕は二つのことが言えるんですよね。「よく
  もまぁ、こんなうまくもねぇこんな店、なんで選んだんですか?」とごねるこ
  ともできる。人様にまともな記憶を残したくないということを選んだとしたら、
  それでいいのかもしれないね。(略) つまり、真善美を求めないような生
  き方が考えられないのならば、それを遺さずに死ぬという死に方もまた
  考えられないのではないかと、やはりこれも「論理的」に、そうなります。
  「死」について言えば、死ぬべき時に死ぬっていうのが一番正しい。》
  (西部邁:談/「「言葉」を持って、矛盾の中へ。」/Web「ブッククラブ回」
  interview)
 
 《今日は核武装の話です。私は核武装の話は怖くていやなんですが、当ゼ
  ミナールの西部先生が「核武装の話のない防衛論は、クリープのないコー
  ヒーどころか、カフェインのない似非(えせ)コーヒーだ」といってききませ
  ん。》 (小林麻子:談/『西部邁ゼミナール』 「核武装論に本気で取り組め
  ─日本が核武装しなければならない理由」/TOKYO MX 2013年3月
  2日放送)
 
だから、《かといって西部がビビットかというとそうでもないんだけど。彼だって立場に固執するだけの話だからさ、伝統がどうしたこうしたとか》(康芳夫:談/竹熊健太郎 『篦棒な人々』 太田出版:刊 1998)などと評されていた通りに、《社会と人間の関わり方そのものの探求》に疲れたのだろう、西部邁は自裁した。「よくもまぁ、こんなうまくもねぇ死に方、なんで選んだんですか?」とごねることもできるが、それが《死ぬべき時に死ぬっていうのが一番正しい》のであれば、どう考えても《死んでもらってほんとに嬉しい》という伝わり方を取りたいと思う。但し、(煙草に対する姿勢と同様に)コーヒーに関しては、カフェインのないものを‘似非’(えせ)と言い切るところがでたらめではなかった。
 
 ウルスラは邁む (3)
アーシュラ・K・ル=グウィンと西部邁、二人の死は1960年代から1970年代までの思想の多様化と停滞が、また一つ遠のいていく現実を象徴している。けれども、《単にどちらがよいかという社会体制の得失だけ》は《いろいろ失敗も錯誤もあった》ままに放置して、〈虹の上をとぶ船〉でウルスラは邁(すす)むのである。
 
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お茶の時間

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年01月23日 01時00分]
「お茶の時間」…といえば、土橋とし子の絵本『おちゃのじかん』(佼成出版社:刊 2013)だろうか? 《ほんま、せかい中には、いろんなお茶があるもんやなあ》…顔が描かれたカップを見て、ダンくんのコーヒーカップ(つちはしとしこ 「夢の夢」/『季刊コミックアゲイン』第2号 1984年11月秋号 日本出版社:刊)を思い出した。お茶の時間に、ふと思う。人生は他人が見る夢の中の自分が見る夢のようなものだろうか? 「ちょっぴり異色な大型新人デビュー!」と銘打たれた頃の土橋とし子の漫画は、お茶の時間に最適だった。
 お茶の時間 (1)

 《お茶の時間に、ふと思う。「人生の折り返し地点」という言葉があるけれど、
  人生を折り返せた人っているのだろうか? コーヒーを飲みつつ、首をひ
  ねり、店を出る時には忘れている。それでも、人生について考えた午後
  になる。お茶の時間は、ふと、なにかを思うための、人間らしい時間だっ
  た。》 (益田ミリ 「はじめに」/『お茶の時間』)
 お茶の時間 (2)
「お茶の時間」…といえば、益田ミリの漫画『お茶の時間』(講談社:刊 2016)だろうか? 《わたしたちは、たえず、己に自己表現を課している生きもの、なのかもしれません》…このコミックエッセイを発刊当時に読み逃して、日本コモディティコーヒー協会アウォード2016「CCAJ賞」の候補に挙げなかったことを悔いている。お茶の時間を、益田ミリは独りで過ごす。誰かとお茶するにも、その往き還りは独行する。だから、《コーヒーを飲みつつ、首をひねり、店を出る時には忘れて》いても、その観点と沈吟は信憑するに足る。
 
 《「ちょっと、お茶にしようか」─ ひと息つきたいとき、おしゃべりのお供に、
  いつの時代も人々はお茶の時間をもっていました。その時間の傍らに、
  ときには中心にあって、欠かすことができないのがお茶の器です。本展
  覧会は、岐阜県現代陶芸美術館が所蔵する茶器、ティーセット、コーヒー
  セットを中心に、お茶の時間に纏わるうつわを紹介するものです。》
  (岐阜県現代陶芸美術館 「お茶の時間」展)
 お茶の時間 (3) お茶の時間 (4)
「お茶の時間」…といえば、岐阜県現代陶芸美術館の展覧会「お茶の時間」だろうか? 別の企画展を訪ねたついでに、併催していた「お茶の時間」展を観た。ルーシー・リーとハンス・コパーによる〈ティー・サーヴィス〉(コーヒーセット)に再会して喜んだり、川口淳による〈楽園文コーヒードリッパー〉の無機能に苦笑したり。だが、《お茶の時間を取り巻く文化に注目し、うつわが織りなす時間や空間にも視点をおき》という謳いは大嘘で、館蔵品などを60ほど引っ張り出してきて並べただけ、無能かつ不粋。グッドデザイン賞2003年度審査委員長特別賞を受けた「ロドチェンコ・ルーム・プロジェクトを中心とするロシア・アヴァンギャルドの陶芸展:発想から展開まで」でアレクサンドル・ロトチェンコのデザインを実制作した〈ティーセット〉が入口で紹介されていた。これでロシアンティーを飲ませるくらいの演出はできないものか?
 お茶の時間 (5)
「お茶の時間」展では「ちょっと、お茶にしようか」という気にならないので、館を去って5kmほど車を走らせて自家焙煎珈琲店の「まめ蔵」を訪ねる。店主(水野政明)と歓談しながら、お茶の時間に、ふと思う。《人生について考えた午後になる》…「お茶の時間」は、これで好い。
 
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偽証の衝撃

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2018年01月20日 23時30分]
近代オリンピックのオリンピアード競技大会(夏季五輪)には、かつて1912年の第5回ストックホルム大会から1948年の第14回ロンドン大会まで計7回に、建築・彫刻・絵画・音楽・文学を種目とする「芸術競技」があった。1952年の第15回ヘルシンキ大会からは競技に代えて「芸術展示」が行われ、1992年の第25回バルセロナ大会からはカルチュラル・オリンピアードとしてより多彩な「文化プログラム」が催されている。この間に1964年の第18回東京大会では、「芸術展示」が組織委員会の主催で美術部門(古美術・近代美術・写真・スポーツ郵便切手)と芸能部門(歌舞伎・人形浄瑠璃・雅楽・能楽・古典舞踊邦楽・民俗芸能)の計10種目に規定され、また「現代日本美術展覧会」や「日本古美術展」など約30の催しがオリンピック協賛芸術展示として実施された。
 偽証の衝撃 (1)
 
 《1964年、東京オリンピック開催を機会に、国立近代美術館(東京)、石橋
  美術館(久留米)、国立近代美術館京都分館(京都)、愛知県文化会館
  美術館(名古屋)を巡回して開催された「現代国際陶芸展」では、日本で
  初めて世界各国の陶芸が一堂に集められ、展観されました。そしてそれ
  は当時「日本陶芸の敗北」と評されるほどの衝撃を、日本の陶芸界に与
  えました。(略) 本当に日本陶芸は敗北だったのでしょうか。「現代国際
  陶芸展」の検証とともに、戦後の日本陶芸に拓かれた新たな世界をとら
  えていきたいと思います。》 (「1964 証言 ― 現代国際陶芸展の衝撃」)
 
確かに1964年当時の「現代国際陶芸展」要項には、《この際、国立近代美術館および朝日新聞社では東京オリンピックの年を機会に「現代国際陶芸展」を開催し…》と記された。また、1940年の幻の東京五輪の海外告知ポスターを手掛けて1964年の東京五輪でも組織委員会に属していた原弘(1903-1986)が、「現代国際陶芸展」のポスターをデザインした。だが、この展覧会を主導した小山冨士夫(1900-1975)はその図録へ寄せた挨拶文にさえオリンピックに一語も言及していない。国立近代美術館では1964年10月1日から34日間にオリンピック東京大会芸術展示として「近代日本の名作」展が催されたが、これに先行して同館で同年8月22日から20日間に催された「現代国際陶芸展」はオリンピック協賛芸術展示ですらなかった。「東京2020参画プログラム」(公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)に名を連ねる岐阜県現代陶芸美術館の企画展「1964 証言 ― 現代国際陶芸展の衝撃」は、「この年、もう一つのオリンピックがあった。」と謳う。これ自体が‘偽証’ではないのか? 観てみよう。
 偽証の衝撃 (2)
 
「1964 証言 ― 現代国際陶芸展の衝撃」 (岐阜県現代陶芸美術館)
 
 《…このたびの展観は世界の国々をまわり、一人一人の作家を訪れて、日
  本人の目で作品を選んだという点である。この点にこんどの展観の特徴
  があると同時に外国から見れば日本的な偏向があるかもしれない。(略)
  しかしこんど世界各国の陶芸家を歴訪して感じたことは果たして日本の
  陶芸が世界で最も優れているかどうかという反省である。》 (小山冨士夫
  /展覧会図録『現代国際陶芸展』 朝日新聞社:刊 1964)
 
 《なんのために、まただれのためにという目的的な創作思考が、お座敷で
  遊んでいる人達の嗜好に左右されているのではないかと、そんなにひど
  い疑いすらもちたくなるのです。》 (柳原義達 「日本陶芸の敗北 ―現代
  国際陶芸展をみて―」/『藝術新潮』178 新潮社:刊 1964)
 
もちろん、例えば柳原義達(1910-2004)が《私にはなんの興味もない》と酷評したルーチョ・フォンタナ(1899-1968)の陶板について、どれほど《大変な失敗》の作品だったのか、私にはそういう興味もある。だが、1963年か1964年に制作された陶芸品を観ること自体が、この企画展の面白味ではない。《世界の国々をまわり、一人一人の作家を訪れて、日本人の目で作品を選んだという点》、つまり勝手な蒐集を「現代国際陶芸展」と嘯いた小山冨士夫の器量が面白いのだ。そういう意味では、陶芸以外の豊富な資料をもっと駆使して《「現代国際陶芸展」の検証》をして欲しかったが、公立の‘陶芸’美術館での‘陶芸展・展’としては無理か?
 偽証の衝撃 (3)
ともあれ、偏向と反省を自認している事象に、その前提を忘れて「日本陶芸の敗北」か否かを論ずるほどバカバカしいことはない。《本当に日本陶芸は敗北だったのでしょうか》という問いかけは《なんのために》されて、「この年、もう一つのオリンピックがあった。」という謳いは《だれのために》あるのか、そう考えると《お座敷で遊んでいる人達の嗜好に左右されているのではないかと、そんなにひどい疑いすらもちたくなる》。1964年の「現代国際陶芸展」の衝撃は、オリンピアード競技大会などではなくて、相撲の興行で外国人力士の活躍に慌てるようなものである。「1964 証言 ― 現代国際陶芸展の衝撃」は、企画の着眼が良いだけにオリンピック云々で煽る‘偽証’の衝撃が愚かしくて惜しい展覧会だった。
 
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オン・ザ・ホライズン

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年01月14日 01時00分]
HORIZON LABO」(ホライズンラボ)の岩野響が生まれた2002年3月、一人の男が日比谷公園で焼身自殺した。その男、檜森孝雄を追悼する本が3年後に刊行された。死の前月に『黒 La Nigreco』(N-ro.8 第2次創刊号)で掲げられた遺稿(72・5・30リッダ覚え書き)から、追悼集は『水平線の向こうに』と題されていた。水平線は、哀しみであり、憤りであり、兆しである。
 
 《まだ子どもが遊んでいる。 もう潮風も少し冷たくなってきた。 遠い昔、能代
  の浜で遊んだあの小さなやさしい波がここにもある。 この海がハイファに
  もシドンにもつながっている、そしてピジョン・ロックにも。 もうちょっとした
  ら子どもはいなくなるだろう。》 (かもめの広場の噴水前に残された遺書)
 
群馬県の地元紙『上毛新聞』が選んだ「2017年もっとも“反響の大きかった”ニュース」は、「ぼくにしかできない店できた 味覚生かしコーヒー豆焙煎 発達障害の15歳・岩野さん」(2017年5月5日)だった(Webサイト「文春オンライン」 2017年12月30日)。
 
 《4月に開店した店は客が殺到して交通渋滞が頻発したため9月に閉鎖し、
  通信販売と渋谷ヒカリエ(東京)での販売に切り替えた。現在は会員制交
  流サイト(SNS)などを通し、顧客の声を聞くのが励みで、「豆の個性と自
  分の表現、お客さんが求める味が“交じり合う一点”を追究する焙煎をし
  たい」と話す。今後の目標は「喫茶店文化やおいしいコーヒーの入れ方
  などを紹介する個展を開き、コーヒー文化を国内外で伝えること」という。》
  (「15歳で焙煎豆店 軌跡明かす2冊 発達障害の岩野さん」/『上毛新
  聞』 2017年12月19日)
 
 オン・ザ・ホライズン (1)
『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかできないことへ』
(岩野響:著/KADOKAWA:刊 2017)
 
 オン・ザ・ホライズン (2)
『コーヒーはぼくの杖 ~発達障害の少年が家族と見つけた大切なもの』
(岩野響・開人・久美子:著/三才ブックス:刊 2017)
 
岩野一家による2冊の本は発刊の時期も判型も価格も同じだからなのか、内容もほぼ同じで発売前に重版決定も同じでカバーを外せばどちらがどちらなのかわからない。だが、なぜ2冊なのか? 「ホライズンラボ」のコーヒー豆はWebストア「毎日が発見ショッピング」で取り扱われている。「毎日が発見ショッピング」の運営会社は株式会社KADOKAWAの連結子会社(資本8割)であるから、知名の出版社から本を出すとすればKADOKAWA以外にはない。三才ブックスの方は、出版事情が私にはわからない。
 オン・ザ・ホライズン (3)
 
 《響くんのご両親が、「学校では輝く場所がない。ならば、家の中でできるこ
  とをやって、自信を取り戻させたい」と気づき、実行されたのは奇跡的な
  ことです。(略) 響くんには幼少期からこだわり傾向があったとのことです
  が、コーヒー焙煎にのめり込む点では、よい方向に花開いていると思い
  ます。じつはヨーロッパでは、ワインの醸造家にアスペルガー症候群傾
  向のある人が多い、という研究結果もあります。》 (星野仁彦:解説/
  『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかでき
  ないことへ』 pp.176-178)
 
岩野一家の本に解説を寄せた星野仁彦は、自身も発達障害の当事者であると称していて、また、5年生存率0%のがんをゲルソン療法で克服したと嘯いていることでも著名である。だが、寄せた解説ではコーヒーの摂取制限やコーヒー浣腸の奨励に触れられていない。いずれにしても、ゲルソン療法で奇跡的に(?)生きている星野仁彦が《奇跡的なこと》と評している岩野一家、いわゆる「機能不全家族」からは程遠い‘健全な’家族のようだ。《15歳のコーヒー屋さん》は、《響くんのご両親》にしかできないことなのかもしれない。こうした点においても、岩野一家の本は発達障害の本であっても根っからのコーヒー本ではない。
 
 《仮に響の興味の対象が変わって、別のことを始めたくなってもいいな、と
  じつは思っています。だからお店の名前も「HORIZON LABO」。研究所
  です。もしかしたら、この研究所兼お店をオープンしたことが、響にとって
  いちばんいい選択ではないのかもしれません。いまはこれが合っている
  けれど、これからまた別の生き方があるかもしれない。あえてそう思うよ
  うにしています。》 (母・岩野久美子/『15歳のコーヒー屋さん 発達障害
  のぼくができることからぼくにしかできないことへ』 pp.163-164)
 
なぜ、「ホライズンラボ」が“反響の大きかった”ニュースになったのだろう? 仮に岩野響が15歳の健常者であったならば、巷間はどう反応しただろう? 仮に岩野響が65歳の発達障害者であったならば、メディアはどう取り上げたのか? 仮に「HORIZON LABO」がコーヒー屋ではなくて焼きまんじゅう屋であったならば、コーヒー業界はどう接しただろうか? 私は《あえてそう思うようにして》、岩野響のコーヒーに好奇の目を向けている。「ホライズンラボ」は、《これからまた別の生き方があるかもしれない》‘on the horizon’(オン・ザ・ホライズン)なのだ。
 
 ♪ 水平線の 終わりには 虹の橋が あるのだろう
  誰も見ない 未来の国を 少年は さがしもとめる
  広がる海の かなたから 何が呼ぶと いうのだろう
  希望の星 胸にのこして 遠く 旅だつ ひとり ♪
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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