怨がる きっと、てくにかる

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年06月29日 01時30分]
ギータ・フォガトは、2013年の女子レスリング・ワールドカップ(ウランバートル)で栄希和に勝ったが、2015年の女子レスリングのアジア選手権(ドーハ)と世界選手権(ラスベガス)で伊調馨に敗れた。2018年1月25日、映画『ダンガル きっと、つよくなる』(2016)の試写会が日本レスリング協会関係者向けに開かれた。鑑賞後に伊調馨は「ギータ選手と妹さん(バビータ)との姉妹愛も印象に残りました。自分も姉(千春)がいる。いろいろ試練があっても、周りに正しい道に導いてくれる人がいるのは幸せなことです」と述べ、栄和人は「泣いた。一人の人間を育てる、その難しさと喜びを、指導者として、娘(希和)の父として痛感した」と言った。その後、『ダンガル きっと、つよくなる』は2018年4月6日に日本の劇場で公開され、同日に栄和人は伊調馨らへのパワハラ騒動で日本レスリング協会強化本部長を辞任した。新旧が混じり真偽が判らないレスリングの世界…怨(えん)がる きっと、てくにかる。
 怨がる きっと、てくにかる (1) 怨がる きっと、てくにかる (2)
 
『ダンガル きっと、つよくなる』(Dangal/दंगल) 観賞後記
 
 《ダンガルとはレスリングの意味。実話をもとに、インドの女子レスリングを
  飛躍させた姉妹とそれを育てた一徹親父をえがく。歌と踊りはないが、
  レスリングの描写がわかりやすく、非常に興奮させる。》 (宇田川幸洋/
  『日本経済新聞』夕刊 2018年4月6日)
 
 怨がる きっと、てくにかる (3)
この宇田川幸洋の簡潔な評で、テクニカルフォール。アーミル・カーン主演のスポ根ボリウッド映画といえば『ラガーン』(Lagaan/2001)になるのだろうが、あれはクリケット。クリケットのスポ根TVアニメといえば『スーラジ ザ・ライジングスター』(Suraj: The Rising Star/2012-2013)になるのだろうが、あれはインド版『巨人の星』。『巨人の星』の原作漫画を描いた川崎のぼるは、映画『ダンガル きっと、つよくなる』を観てこう言った。
 
 《はるか以前になりますが、私が週刊誌に「野球物」と「レスリング物」の連
  載を同時期に描いていた事がありまして、まるで自分が二つの作品を
  合体させたような気分で作画構成しているような感覚に陥り、次のシー
  ンは!次はどう展開して行くか?身を乗り出して最後まで飽きることな
  く観終えました。》 (川崎のぼる/Webサイト『ダンガル きっと、つよくな
  る』)
 
 怨がる きっと、てくにかる (4)
この川崎のぼるの評で、テクニカルフォール。週刊少年マガジン連載の野球漫画『巨人の星』(1966-1971)と週刊少年サンデー連載のレスリング漫画『アニマル1(ワン)』(1967-1968)、《二つの作品を合体させたような》映画、それが『ダンガル きっと、つよくなる』である。この映画の気分は、『アニマル1』よりも重いが『巨人の星』よりは軽い。劇中でギータ(ザイラー・ワシーム:幼少期演)が引いた‘コンダラ’は、「♪ 重いコンダラ 試練の道を」と星飛雄馬が引いたそれよりも軽い。
 
 怨がる きっと、てくにかる (5)
ギータとバビータの姉妹、その青年期を演じたファーティマー・サナー・シャイクとサニャー・マルホートラも悪くはないが、本人が演じてもイケたんじゃないか? いや、いっそのこと、父マハヴィル役がアニマル浜口で、姉妹を川井梨紗子・友香子、代表団コーチのプラモド役を栄和人でリメイクしてもイイかもしれない。新旧が混じり真偽が判らないレスリングの世界…怨(えん)がる きっと、てくにかる。
 
 怨がる きっと、てくにかる (6)
2012年にインド映画の制作大手UTVモーション・ピクチャーズを傘下に収めた時点で、ウォルト・ディズニー社へアテンション(注意)を私は課した。ディズニー社は2016年にヒンディー語の映画制作事業から撤退する方針を示したが、その前年から撮影された『ダンガル きっと、つよくなる』はディズニー社の資本で製作されていて、コーション(警告)を私は課した。2017年12月には、21世紀フォックスを買収したことでスポーツ娯楽番組を放映するスター・インディアも傘下としたディズニー社、同月、『ダンガル きっと、つよくなる』の日本公開をギャガと初の共同配給にしたのもディズニー社、私はコーションを2つ追加した。ディズニー社はコーション3つで失格、さっさと映画とスポーツの世界から消え去るべき…怨(えん)がる きっと、てくにかる。
 
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時は休まない

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2018年06月25日 23時30分]
平成最後の「時の記念日」である2018年6月10日、セイコーホールディングスは銀座の和光の時計塔を「時を休もう。」と記した白い布で覆った。だが、時は休まない。鴨長明曰く、《ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し》(『方丈記』)と。
 時は休まない (1)
 
2018年6月24日、「時の記念日」から2週間後に愛知県あま市にある美和歴史民俗資料館を訪ねて、企画展「第28回 ときのきねんび展」を観る。
 時は休まない (2) 時は休まない (3) 時は休まない (4)
宮崎照夫氏が所蔵して福岡晃良氏が修理・整備した古時計の動態展示。「イ 木 yasumi」展のプレイベントで遇った福岡さんに再会、解説を受けながら観て遊ぶ。チクタクボ~ンと鳴る明治期の振り子式の掛時計を観ながら、実家にあった時計のゼンマイをジコジコと巻いていたガキの頃を思い出す。東日本大震災の直前に入手して生き残った古時計の話など、モノが語るからの‘物語’に感興を覚える。産業振興などと称して「ものづくり」とかいうバズワードを濫用する社会を憾(うら)む。だが、時は休まない。
 
♪ 夕暮れの街角 のぞいた喫茶店…と三木聖子の「まちぶせ」(荒井由実:詞・曲)をカバーで歌った石川ひとみは、《「曲もいいし、詞の内容が私たちの中学、高校時代の青春にぴったり。私にもこういう経験がある》と言う(「365日 あの頃ヒット曲ランキング」/Web「スポニチアネックス」 2011)。石川ひとみが《のぞいた喫茶店》は、彼女が2歳から高校卒業まで住んでいた愛知県美和町(現:あま市)にあったのだろうか? そんなことを考えながら名古屋へ移り、三の丸に駐車して栄まで散策。
 
店舗の営業終了が6日後にせまった丸栄百貨店へ行き、その建物を増築設計した村野藤吾が昭和28(1953)年度の日本建築学会賞を受けた作品として改めて観て遊ぶ。
 時は休まない (5) 時は休まない (6)
 《村野は既存のストライプ状の外壁をそのまま上方へ伸ばし、ここに鳩羽
  紫色のカラコン・モザイクタイルを貼った。開口部にはガラスブロックを
  嵌め、それを細い方立で固定。各層を表す小庇付きのボーダーを方立
  と同じテラゾ(人造石研ぎ出し)で構成することで、端正なファサードに創
  りあげた。この外観は外光から商品を守る役割を担い、広小路通にリ
  ズムと賑わいを与えている。(略) 初層の壁面や柱、階段には特に豪華
  な大理石が貼られ、煌びやかな空間を演出している。村野は階段を各
  フロアを繋ぐ空間装置として扱い、手摺に至るまで心血を注いだ。また
  エレベーター扉には東郷青児による瀟洒な女性の絵が描かれている。
  (略) 現在、丸栄百貨店は、度重なる改築により当初の面影がだいぶ
  薄らいでしまった。》 (open architecture ⓐ 丸栄百貨店/村瀬良太
  :文責)
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「丸栄のあゆみ パネル展 ―伝えたい記録、残したい記憶―」を7階特設会場で観る。年表、写真、チラシ、制服、手提げ袋、ジオラマ、そして来客者と従業員の顔写真によるモザイクアート…何を見ても丸栄百貨店75年の歴史は虚しさを抱えている。江口忍氏は《丸栄を駄目にした最大の原因が「ギャル栄」》(「さらば丸栄 軌跡を追う」/『中日新聞』 2018年6月21日)などと言うが、違うね。1999年改装で渋谷109系化した「ギャル栄」どころか、競合するオリエンタル中村百貨店が名古屋三越と改称して「4M」が成った1980年よりもさらに昔、1950年代後半に経営危機に陥って興和グループの指揮下に入った時点で百貨店としての丸栄は栄華を失った。それから60年間続いた‘後退戦’…それが「丸栄のあゆみ」なのだ。だが、時は休まない。
 
 時は休まない (10) 時は休まない (11) 時は休まない (12)
♪ 夕暮れの街角 のぞいた喫茶店…丸栄の3階にあるUCCカフェメルカードと地下1階にあるガロンコーヒーを覗いて胸の奥で別れを告げる。時に記念を求めても、時に記録を伝えても、時に記憶を残しても、時は休まない。
 
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うんぽこ、珈琲 後篇

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年06月22日 01時00分]
承前〕 庄野雄治は《読んでいる時に詰まったり、引っ掛かったりする、すなわち思考する行為がない読書はつまらない》(「はじめに」/『コーヒーと随筆』 mille books:刊 2017)と言っていたが、『こぽこぽ、珈琲』(杉田淳子・武藤正人:編/河出書房新社:刊 2017)を読んでいた私は、吉田健一(1912-1977)の「カフェー」に《詰まったり、引っ掛かったりする》。
 うんぽこ、珈琲 (5)
 
この「カフェー」の初出は、吉田健一が「甘酸つぱい味」という題で『熊本日日新聞』夕刊へ寄せていた連載エッセイ(全100話)の一つで、1957年4月17日に掲載された。吉田健一は原稿を旧字体漢字(以下、旧字)と歴史的仮名遣い(以下、旧かな)で寄せたと思われるが、新聞掲載時は新字体漢字(以下、新字)と現代仮名遣い(以下、新かな)に変えられた。「甘酸つぱい味」は、同1957年8月に単行本『甘酸っぱい味』(新潮社:刊)として旧字新かなで上梓され、その後は垂水書房版『吉田健一著作集,』第8巻(1966)や原書房版『吉田健一全集』第5巻(1968)や集英社版『吉田健一著作集』第4巻(1979)に旧字旧かなで収載され、新潮社版『吉田健一集成』第6巻(1994)には新字旧かなで載録され、ちくま学芸文庫『甘酸っぱい味』(筑摩書房:刊 2011)では新字新かなへ変えられた。『日本の名随筆 別巻3 珈琲』(清水哲男:編/作品社:刊 1991)に収められた吉田健一の「カフェ」(長音符なし)は、集英社版『吉田健一著作集』を底本としながら、新字旧かなへ変えられている。そして、ちくま学芸文庫の『甘酸っぱい味』を底本とした『こぽこぽ、珈琲』の「カフェー」(長音符あり)は新字新かなで表記されているが、私にはちょっと《引っ掛かった》ところがある。
 
 《まだ子供の頃、電車に乗っていて当時の不良少年の服装と察せられる
  異様な身なりをした人物が頻(しき)りにカフェーの話をしているのを聞
  いたことがあって(その人物はこれをカフエーと四音節に発音した)…》
  (吉田健一 「カフェー」/『こぽこぽ、珈琲』p.124)
 
 うんぽこ、珈琲 (6)
この『こぽこぽ、珈琲』の「カフェー」において、《その人物はこれをカフエーと四音節に発音した》という表記には難がある。‘カフエー’はモーラ(拍)数で4モーラになるが、音節の数では(長音符を数えないので)3音節になる(通常の日本語の音韻体系、つまり発話の音素的音節では2音節に数えるが、本記事では変則的に大文字表記の母音「エ」を単独の音素と数える。以下同じ)。吉田健一が言う《四音節に発音した》という意味をモーラ(拍)でとらえれば矛盾はないが、これは当該の箇所を《その人物はこれをカフエエと四音節に発音した》と4音節4モーラで表記している『日本の名随筆 別巻3 珈琲』の方がわかり良い。ところで、吉田健一は‘カフェ’を自身が発声する時に、それを何音節何拍と数えていたのだろう? (吉田健一の肉声を聞いたことも直筆を見たこともない)私は、原稿では拗音の「ェ」を小さく書かずに‘カフエ’或いは‘カフヱ’と記していたのだろうと臆測するが、これを実際にどのように発音していたのかはわからない。明治末年生まれの吉田健一に遅れて大正末年に生まれた畔柳潤(1926-2015)は、‘カフェ’を‘カフヱ’とか‘キャフェ’と記すことも多かったが、私が聞いた発音は3音節4モーラの「キャッフェエ」に近いものだった。いずれにしても、『こぽこぽ、珈琲』に収められた吉田健一の「カフェー」は、外来のカタカナ語の表記が(旧かな・新かなを問わず)直筆の原稿と初出の版と転載の版で異なり、それ故に《読んでいる時に詰まったり、引っ掛かったりする》。古いところの‘カフェ’やコーヒーを追究するに、忘れてはならない落とし穴と謎である。
 
本には、古くなってもいいものがあれば、古くなってわるくなるものもある。コーヒー絡みのアンソロジー『こぽこぽ、珈琲』は、どちらだろう? この本を読んでちょっと《引っ掛かった》ところは、悩ましくもあり、面白くもある。『こぽこぽ、珈琲』は、今の私には「うんぽこ」(un poco:ちょっと)なコーヒー本である。いずれまた、「うんぽこ、珈琲」の話をしよう。
 
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うんぽこ、珈琲 前篇

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年06月21日 23時00分]
昨2017年10月の月初と月末にコーヒー絡みのアンソロジーが発売された。この2冊のコーヒー本を私は読み逃していたが、遅ればせながらちょっと取り上げてみよう。
 
 うんぽこ、珈琲 (1)
庄野雄治は「コーヒーの日」が好きなのだろう、計4冊もコーヒー本を10月1日に出している(いずれもmille books:刊)。私は、『はじめてのコーヒー』(堀内隆志と共著/2012)と『コーヒーの絵本』(2014)を読んだが、『コーヒーと小説』(2016)と『コーヒーと随筆』(2017)は読んでいない。庄野雄治が編んだアンソロジーは、《『コーヒーと小説』というタイトルだけれど、小説の中には一切コーヒーは出てこない》(「はじめに」)から。『コーヒーと随筆』(「はじめに」)も、《新しいものは古くなるが、いいものは古くならない》という騙りが気に入らない。違うね。いいものも古くなる。古くなってもいいものがあれば、古くなってわるくなるものもある、それが真実。だが、《読んでいる時に詰まったり、引っ掛かったりする、すなわち思考する行為がない読書はつまらない》(『コーヒーと随筆』 「はじめに」)という庄野雄治の言には、同ずる。私が《詰まったり、引っ掛かったり》して面白かったのは、アンソロジーでも別のコーヒー本だけどね。
 
 うんぽこ、珈琲 (2)
『こぽこぽ、珈琲』 (杉田淳子・武藤正人:編/河出書房新社:刊 2017)
 
 うんぽこ、珈琲 (3)
杉田淳子と武藤正人による編集ユニット「go passion」は、飲食物のアンソロジーを多く手掛けている。例えば、PARCO出版の「アンソロジー」シリーズ(全6巻/カレーライス・お弁当・おやつ・ビール・そば・餃子/2013-2016)。そして昨秋に発売された『こぽこぽ、珈琲』は、河出書房新社の「おいしい文藝」シリーズ(2014-)の11巻目である。で、まず書名の「こぽこぽ」に、私はちょっと《引っ掛かった》。シリーズ既刊の書名には、「つやつや」(ごはん)・「こんがり」(パン)・「まるまる」(フルーツ)などがある。これらは、対象の食べ物の‘状態’を表わしている。また、「ずるずる」(ラーメン)・「ぱっちり」(朝ごはん)・「うっとり」(チョコレート)などは、食べる(た)人間の‘状況’や‘感情’を表わしている。「ひんやりと」(甘味)・「ずっしり」(あんこ)は、象徴の対象が食べ物にも人間にも捉えられるか(?)、何となくわかる。しかし、「こぽこぽ」(珈琲)には《詰まった》。 「ぐつぐつ」(お鍋)と同様に、製作過程をも示したのか? 「ぷくぷく」(お肉)以上に意味不明の「こぽこぽ」(珈琲)って何?
 
 うんぽこ、珈琲 (4)
『こぽこぽ、珈琲』は、『日本の名随筆 別巻3 珈琲』(清水哲男:編/作品社:刊 1991)以来で約四半世紀ぶりのコーヒーを話題にしたアンソロジーとして、ちょっと好い。抜き書きだらけの『作家の珈琲』(コロナ・ブックス編集部:著/平凡社:刊 2015)や『珈琲のことば』(箕輪邦雄:著/平凡社:刊 2016)は、(そもそもアンソロジーではないが)編者の恣意が効いて《読んでいる時に詰まったり、引っ掛かったり》し過ぎて読み疲れる。『こぽこぽ、珈琲』は、「はじめに」も「あとがき」もなく、ただただ31篇の随筆が並べられている、その潔さに好感。『こぽこぽ、珈琲』の31篇と『日本の名随筆 別巻3 珈琲』の41篇とを対照すると、「コーヒー哲学序説」(寺田寅彦)と「ピッツ・バーグの美人 本場「アメリカン・コーヒー」の分量」(草森紳一)と「可否茶館」(内田百閒)と「カフェ」(吉田健一)と「蝙蝠傘の使い方」(種村季弘)の5篇が重なっている。また、小島政二郎と植草甚一と村松友視と山口瞳と常盤新平の5人は、顔ぶれこそ重なっているが収録された作品が異なる。『こぽこぽ、珈琲』は、新たな26篇の収載で『日本の名随筆 別巻3 珈琲』の増補をちょっと成している。
 
『こぽこぽ、珈琲』には、《読んでいる時に詰まったり、引っ掛かったりする》ところがちょっとある。だから、意味不明の「こぽこぽ」というよりも、私には「うんぽこ」(un poco:ちょっと)なコーヒー本である。「うんぽこ、珈琲」の話は終わらない。 〔続く
 
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誰の性でもない雨が

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年06月16日 01時00分]
♪ 誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている…と、中島みゆきは歌った(「誰のせいでもない雨が」/『予感』 1983)。そして、コーヒーの世界にも、誰の性(せい)でもない雨が降っている。
 
 誰の性でもない雨が (1) 誰の性でもない雨が (2)
 《…カフェと政治規制という話題ですと、私の公式の研究分野である20世
  紀初頭のカフェにもある特徴的な現象があります。ベルリンのカフェ・デ
  ス・ヴェステンスやミュンのシュテファニーといった世間一般から誇大妄
  想狂のアナーキストたちの集まりという風評の立ったカフェには、LGBT
  の存在が顕著です。彼らは当時の刑法175条撤廃の運動を起こしてい
  ました。175条は同性愛を不埒な行為として処罰することを定めた条項
  です。こうした不埒な撤廃要求を掲げるアナーキスト達に対して、政治当
  局は罰則の適用を強化します。同性愛者を罰する傾向はヒトラー・ナチ
  ズムの時代に頂点に達します。SA(ナチス突撃隊)の長官エルンスト・
  レームやグレゴール・シュトラッサーを同性愛者として粛正する「長いナ
  イフの友」という事件です。三島由紀夫が『わが友ヒットラー』で描いた事
  件ですね。ナチ時代、同性愛者は強制収容所に送られました。しかし現
  代ともなれば、カフェに見受けられるLGBTは、国際的人権活動に擁護
  された、民主主義的リベラリズムの定着度を示すバロメータだと言える
  のではないでしょうか。》 (臼井隆一郎:談 「嗜好品と政治学 討論」 第
  15回嗜好品文化フォーラム/『嗜好品文化研究』第3号 嗜好品文化
  研究会 2018)
 
LGBTが見受けられるのはカフェだけではない。ベルリンの写真家レナ・ムハは、それをコーヒー生産国で探した。そこでは、黒い枝の先ぽつりぽつり血のように、コーヒーが自分の重さで落ちてゆくのではないか?
 
 誰の性でもない雨が (3) 誰の性でもない雨が (4) 誰の性でもない雨が (5)
 《エヘ・カフェテロは、南米コロンビア西部にあるコーヒーの一大産地。緑豊
  かな山々の奥深くにコーヒー農園が密集しているが、そのなかのいくつ
  かの農園に、ほかで見かけないユニークな人々が働いている。彼らは、
  農園での1日の仕事が終わると、寮に戻って化粧をし、アクセサリーを
  身につけ、女性らしい服を着る。(略) ムハ氏はトランスジェンダー女性
  を見つけ、彼女たちの物語を伝えようと、この地方をバイクで探し回った。
  最初はかなり苦戦した。女性たちはなるべく人目につかないように暮ら
  しているうえ、仕事を求めて農園から農園へと渡り歩いているからだ。
  (略) トランスジェンダー女性のほとんどが、コーヒー農園の周辺地域や
  隣の県から来ている。コーヒー農園での仕事は、彼女たちがありつける
  唯一の仕事であることが多いが、農園には寮があり、食事も出る。》
  (「トランスジェンダー女性たち、コーヒー農園で自分らしく働く」/Web
  サイト『National Geographic』日本版 撮影ストーリー 2018年4月
  16日)
 
コーヒー農園に見受けられるLGBTは、《民主主義的リベラリズムの定着度を示すバロメータだと言える》だろうか? そこにも、誰の性でもない雨が降っている。日々の暮らしが降っている。もう誰ひとり気にしてないよね…《農園から農園へと渡り歩いているからだ》。
 
 《今、僕は人類がそもそも何で定住を始めたのかということが気になってい
  ます。どうも問題の本質は人類の定住文化の成立にあるようにしか思え
  ない。直ちにやめて、そこから始めましょうよって思うんです。》 (臼井隆
  一郎:談/前掲『嗜好品文化研究』第3号)
 
 誰の性でもない雨が (6)
Latte Art(ラテアート)とGeisha(ゲイシャ)とBarista(バリスタ)とThird Wave(サードウェイブ)…コーヒーの世界にも、LGBTがある。コーヒーの世界にも、誰の性でもない雨が降っている。早く、月日すべての悲しみを癒せ。月日すべての悲しみを癒せ。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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