希望なき世界

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年12月13日 05時30分]
MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の映画に興味はないが、DCEU(DCエクステンディッド・ユニバース)の映画は一つ置きに観てきた。第1作『マン・オブ・スティール』(2013)と第3作『スーサイド・スクワッド』(2016)は観ないで、第2作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)と第4作『ワンダーウーマン』(2017)を観た。ガル・ガドットの‘大穴’(ダイアナ)が観られたから、それでよかった。だから、『DCスーパーヒーローズ vs 鷹の爪団』(2017)の予告編を観てこれが第5作だと思った私は、本編が公開されても劇場へ行かなかった。そして、第6作であろう作品を観に行って、その映画『ジャスティス・リーグ』が観てはいけない本当のDCEU第5作と気付いた。まぁいい、ガル・ガドットの‘大穴’が観られるから、それでよい。
 希望なき世界 (1) 希望なき世界 (2)
 
『ジャスティス・リーグ』(Justice League) 観賞後記
 
 希望なき世界 (1) 希望なき世界 (3)
この映画は、カル・エル(ヘンリー・カヴィル:演)が死んだ『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の続編だと思っていた。だが、追加撮影とポスプロの最中にザック・スナイダーが監督を降板したのは、2017年3月20日に長女オータム・スナイダーが‘suicide’(自殺)したからで、つまり『ジャスティス・リーグ』は『スーサイド・スクワッド』の続編でもある。予告編では‘World without hope’(希望なき世界)という見出しのデイリープラネット紙、これはザックとデボラのスナイダー夫妻に相応しい。また、本編の冒頭では‘Did they return to their planet?’(彼らは星に帰ったのか?)という見出しのメトロポリスポスト紙、カル・エルを挟んでデヴィッド・ボウイ(2016年1月10日没)とプリンス(同年4月21日没)が掲げられていた。並べるならば、カル・エルよりもレナード・コーエン(2016年11月7日没)こそが相応しい。そのレナード・コーエンを冒瀆するように、オープニングでシグリッドが「エヴリバディ・ノウズ」を歌っていて耳障り。さすが、監督を引き継いだMCU『アベンジャーズ』陣営のジョス・ウェドン、DCEU作品も唾棄すべき軽薄へと落とした。
 
 希望なき世界 (5) 希望なき世界 (6) 希望なき世界 (4)
映画『ジャスティス・リーグ』の救いは、DCEU前4作よりも短い120分であったことと、ダイアナ・プリンス(ガル・ガドット:演)がカッコイイことだけである。「ペット・セメタリー!」と言ったバリー・アレン(エズラ・ミラー:演)には「そう責めたりいな」と笑えたし、「ドストエフスキー!」という「白痴」的挨拶にも笑ったが、とにかく他のキャラが喋り過ぎ。ヘタな大喜利でウンザリさせられる近来の「笑点」のようだ。『ジャスティス・リーグ』は、やはり『スーサイド・スクワッド』の続編としか言いようがない、パラデーモンより雑喉っぽい映画だった。さて、次のDCEU第6作は「希望なき世界」を脱するのか?
 
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ロボット刑事の続き

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年11月01日 23時30分]
リック・デッカードは最初のブレードランナーではない。アラン・E・ナースの“The Bladerunner”が刊行された1974年、フィリップ・K・ディックは自ら「2-3-74」と呼ぶ幻覚を体験した。その後、ナースの作品を元にウィリアム・S・バロウズが映画ではない“Blade Runner (a movie)”を著した(1979年/日本語訳版は1990年)。さらに、その名を借りて、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年/日本語訳版は1969年)を原作とした映画『ブレードランナー』が1982年の夏に公開された。その115日前の同年3月2日、フィリップ・K・ディックは映画『ブレードランナー』を観ることなく死んだ。
 ロボット刑事の続き (1)
 《行年五十三歳。死と救済をテーマにしたヴァリス二部作をかたみに、白玉楼
  中の人となったのか、阿迦奢に安らいだのか、問いかけても答える声は聞
  こえない。伝統の先端に立つディックは常に前衛でありつづけたが、それ
  は同時に誤解されつづけたことをも意味する。(略) 作家の死に哀悼の意
  を表するにはその作家と正面きって対決するしかない。われわれにはその
  作業が残されているのである。》 (大瀧啓裕 「Adversaria 追記」/フィ
  リップ・K・ディック 『ヴァリス』 サンリオSF文庫 1982)
 ロボット刑事の続き (2)
幻覚「2-3-74」に端を発して著され《死と救済をテーマにしたヴァリス二部作》、そのサンリオSF文庫版のカバーは藤野一友の絵が飾った。藤野一友とアラン・E・ナースとフィリップ・K・ディックは同じ1928年に生まれたが、藤野はディックより早い1980年に死んでいた。《作家の死に哀悼の意を表するにはその作家と正面きって対決するしかない》…1982年の夏、私は映画『ブレードランナー』を観た。サンリオSF文庫の『ヴァリス』と『聖なる侵入』の2つを携えて…2つで充分ですよ、わかってくださいよ。
 ロボット刑事の続き (3)
 《この辺で僕らはすでに、たとえばハンフリー・ボガートやアラン・ラッドが四〇
  年代に主演していた、中近東もしくは極東スパイアクション物を思い出し、
  なんとなくニヤニヤしてしまう。(略) これはつまりは、例の『アウトランド』
  を第一作とした、アラン・ラッド・ジュニア率いるラッド・カンパニーの、いたっ
  て当然な展開であろう。なぜならば、イオの鉱山町での暴力沙汰を描いた
  あれが、いたってダシール・ハメット的であったように、しがない特捜員の、
  自省まじりの捜査を描いたこれが、レイモンド・チャンドラーを思わせる事
  しきりだからであって、つまりラッド・カンパニーのSF映画作りとは、そうい
  う風なのである。》 (石上三登志 「ブレードランナー」/『キネマ旬報』 19
  82年8月上旬号/『SF映画の冒険』 新潮文庫に収載 1986)
 ロボット刑事の続き (4)
 《もうむしろその未来の世界がどよ~んとしてこりゃビチョビチョビチョビチョ濡
  れている、そのこの凄さの中からこの一つの映像世界がクッキリとこう浮か
  び上がってくるという、そういう作品です。(略)で、 そういう点ではむしろこ
  れはあのアメリカのハードボイルド小説の骨法を踏まえているという、こう
  いうことを言ってらっしゃるこの評論家もおられまして、私これは卓見だと思
  うんですけれども、もう一つ、この作品は実はあの1920年代の終わり頃
  から30年代のあのヨーロッパ映画、特にあのドイツなんかで作られたこの
  SF的な怪奇映画、あの伝統が非常に見事に新しい映像に活かされている、
  これが私素晴らしいと思いますね。(略) そして、この映画に出資しました
  のは香港の邵逸夫(ランラン・ショウ)でした。》 (荻昌弘 「月曜ロードショー」
  『ブレードランナー』 TV放映解説 1986)
 ロボット刑事の続き (5)
フィリップ・K・ディックの行年に達した私は、2017年の秋、映画『ブレードランナー 2049』を観る前に、そのプリクエル(前日譚)をWeb動画で観た。私は、ウィリアム・S・バロウズの祖父が作ったバロウズ社にランラン・ショウあたりが出資してローゼン協会やタイレル社を名乗っていると思っていた。だが、そのタイレル社も倒産してウォレス社に買収されていた、「ブレードランナー ブラックアウト 2022」と「2036:ネクサス・ドーン」と「2048:ノーウェア・トゥ・ラン」という短編3つによれば…2つで充分ですよ、わかってくださいよ。
 ロボット刑事の続き (6)
 
『ブレードランナー 2049』(Blade Runner 2049) 観賞後記
 
♪ さけぶサイレン ライトはまわる 事件だ‘ジョーカー’空飛ぶパトカー
  ネクサス・エイトは邪道の天使 世界を悪に染める者
  さがせとらえろロボット刑事 ロボット その名はK K ロボット刑事K ♪
 ロボット刑事の続き (7)
Kは人間のブレードランナーではない。K(KD6-3.7/ライアン・ゴズリング:演)が乗るスピナー(空飛ぶパトカー)の名は‘ジョーカー’である。Kには‘ジョー’という名も与えられていたので、これは当然である。ロボットは機械だと人は言う。だがKは違う。Kは人間の感情を持っている。Kは思いやりも持っている。Kに恥じないだけの人間がどれだけいるだろうか? ──『ブレードランナー 2049』は、『ブレードランナー』の続編というよりもスピンオフであり、正しくは特撮TV番組『ロボット刑事』(1973)の44年ぶりの続編であった。
 
映画『ブレードランナー 2049』は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ(監督)がハンプトン・ファンチャー(原案・脚本)の筋立てをロジャー・ディーキンス(撮影)の映像で描き上げた佳作である。リドリー・スコットが昔に『ブレードランナー』を不朽の傑作とした功績は大きいが、近来は『エイリアン』(1979)の前日譚を駄作で穢し続けている。だから、今般は監督にならなくて本当によかった、と私はつくづく思う。ネクサス6型であるリドリー・スコットの無知なる混沌の臭いを‘リタイア’させた『ブレードランナー 2049』、そのネクサス9型であるヴィルヌーヴの力量には脱帽するしかない。巷間では映像とともに音場を褒めている声も多いが、私にはハンス・ジマーの音楽が『ダンケルク』(2017)に続いて過剰で煩(うるさ)い。それでも間延び必至のショットを音で延ばし繋げて、163分を長尺と感じさせなかったところは見事。
 ロボット刑事の続き (8)
 《にもかかわらず、僕らの“生”は、どう考えてもSF的な時代にあるがゆえに、
  むしろレプリカントたちのそれに等しいと、とにもかくにも屈折する。そう、
  リック・デッカードが結局気付いたように……。》
  (石上三登志 「ブレードランナー」/前掲書)
 ロボット刑事の続き (9)
「知る覚悟はあるか──。」…どうでもよい愚かな問いかけだ。エドワード・ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス:演)が折り紙で‘ユニコーン’を作ってから‘羊’を作るまでに30年が経っていた。私が『ブレードランナー』を観てから『ブレードランナー 2049』を見るまでに35年が過ぎていた。その《“生”は、どう考えても》《世界がどよ~んとしてこりゃビチョビチョビチョビチョ濡れている》《SF的な時代にあるがゆえに》《とにもかくにも屈折する》。私はオマエら人間には信じられぬ映画を観てきた。そういう思い出もやがて消える、時が来れば、雨の中の涙のように、雪の中の模造記憶のように。何を知ろうが知るまいが、フィリップ・K・ディックは死んでいる。『ロボット刑事』の続きの映画を想い返し、フランク・シナトラでも聴きながらジョニ黒を飲もう。
 
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ふたつの悪の物語

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年10月04日 01時30分]
エコテロリズム映画『ザ・コーヴ』(The Cove:2009)と国粋竜田揚げ映画『ビハインド・ザ・コーヴ 捕鯨問題の謎に迫る』(Behind “The Cove”:2015)とは捕鯨問題で衝突したが、さて対消滅したのだろうか? いずれにしても、映画の舞台となった和歌山県太地町にとっては、目の上のコーヴであろう。そして、ふたつの‘Addle-cove’の物語の前後にも、ふたつのクジラ映画がある。
 
 《だからといって「クジラは捕ってもいいんだ」という映画にもしたくなかったん
  です。捕鯨と反捕鯨というふうに、白か黒かどちらかひとつだけと決着を
  つけるべきではないと思っていましたから。(略) それぞれの価値観を認
  め合って、ともに生きていけるような状況が、映画を見せることで探れれ
  ばと思っているんですけどね。》 (梅川俊明:談/インタビュー「海の男た
  ちの労働を描く」/『労働新聞』 1999年1月1日)
 ふたつの悪の物語 (1)
 《問題は、捕鯨やイルカ漁に賛成か、反対かではないのです。特定の動物を
  巡って、なぜ私たちは対立し、憎しみ合うのか。今世界で起きていること、
  みなさんの人生に起きていること、どうすれば私たちは分かり合えるのか。
  そのヒントをこの映画から見つけて貰えれば嬉しいです。》 (佐々木芽生:
  談/映画『おクジラさま ふたつの正義の物語』Webサイト 「監督からの
  コメント」)
 
『鯨捕りの海』(1998)と『おクジラさま ふたつの正義の物語』(2017)、その監督2人の言葉は入れ替えても通じるほどに趣意がよく似ている。時間差はあるが、さて対生成したのだろうか? 『おクジラさま』の英題は“A Whale of a Tale”、だからといって、カーク・ダグラスが歌う映画(『海底二万哩』:20000 Leagues Under the Sea:1954)でもないだろうし、カーク船長?(ウィリアム・シャトナー)が出てくる映画(A Whale of a Tale:1976)でもないだろうが…まぁ、観てみよう。
 ふたつの悪の物語 (2)
 
『おクジラさま ふたつの正義の物語』(A Whale of a Tale) 観賞後記
 
 《皆、もやもやしてどうしたらいいのかわからないという気持ちになって。(略)
  もやもやしてどうしたらいいかわからないとみてくれれば、それが一番い
  いかなと。》 (佐々木芽生:談/鈴木款 「「シーシェパードの真実」と「私の
  真実」。なぜか片方しか伝えない日本」/『ホウドウキョク』Webサイト
  2017年7月10日)
 
映画『おクジラさま』は、佐々木芽生監督の目論見通りに私をモヤモヤさせた。ビートたけしは、《イルカ漁を巡って太地の港を右往左往する人間たちのコメディ》と本作を評した。確かにそうだが、それは狂言回しとして登場した日本世直し会の中平敦あっての話。それ以外の《右往左往する人間たち》は面白くもなんともないので、《もやもやしてどうしたらいいかわからない》。グローバリズム対ローカリズム、世界のあちらこちらで《対立し、憎しみ合う》分断や排除、そうした《今世界で起きていること》の縮図が太地町にも見えること、だから《白か黒かどちらかひとつだけと決着をつけるべきではない》という描写、そこはモヤモヤしない。
 
 《この映画の大きなテーマですね、日本の情報発信の拙さは。(略) 相手の
  言うことのほうが正しいということになる。(略) だから捕鯨をやめろという
  短絡的なものではなくて、捕鯨にはアカウンタビリティという、説明責任が、
  日本として発生していると思うんです。国際社会に対して、それを果たし
  ていないのはすごく怠慢です。》 (佐々木芽生:談/鈴木款 「「シーシェ
  パードの真実」と「私の真実」。なぜか片方しか伝えない日本」/『ホウドウ
  キョク』Webサイト 2017年7月10日)
 
私がモヤモヤするのは、《説明責任が、日本として発生している》として《情報発信の拙さ》を《すごく怠慢》と断ずる佐々木芽生監督の姿勢だ(作中ではジャーナリストのジェイ・アラバスターが代弁している)。小型鯨類の追い込み漁をする太地いさな組合の漁師は大声で叫べないのか?叫ばないのか? 太地町の住民は情報発信をできないのか?しないのか? たとえ説明責任を県や国に求めるとしても、言われたら言い返さなくては怠慢なのか? …冗談じゃない! 《なぜ私たちは対立し、憎しみ合うのか》…沈黙したまま滅びる道を悪しと断じて、コミュニケーションを強要するからだろう。そこを半端にして描き切らない映画『おクジラさま』に、私はモヤモヤする。
 ふたつの悪の物語 (3)
「正義の反対は悪ではなく別の正義」…そうだろうか? ならば「悪の反対は正義ではなく別の悪」とも言えるだろう。《どうすれば私たちは分かり合えるのか》…それは、「ふたつの正義の物語」を実は登場人物が‘全員悪人’であるアウトレイジな映画である、と捉え直すことから始まる。太地町におけるクジラ映画の「ふたつの悪の物語」、その一つ目は『鯨捕りの海』ではなくて『おクジラさま』であり、そして二つ目は『ボクはボク、クジラはクジラで、泳いでいる』(2018年夏公開予定)であってほしい。
 
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1週間・1日・1時間

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年09月21日 21時30分]
映画『ワンダーウーマン』は第一次世界大戦の話で、映画『ダンケルク』は第二次世界大戦の話。両者の舞台は共にBEF(イギリス海外派遣軍)が苦戦する西部戦線の戦場で、その空間は近接していた。両者の物語は約21年7ヵ月の差で隔てられていたが、映画の封切りは共に2017年夏で、その時期は近接していた。共に小船やら戦闘機やら列車やらが物語を運んでいるし、『ダンケルク』は『ワンダーウーマン』の続編なのか? 観てみよう。
 1週間・1日・1時間 (1)
 
『ダンケルク』(Dunkirk) 観賞後記
 
 《5月29日  一九四〇年のこの日からダンケルクからの英・仏軍の撤退が
  本格化した。ドイツ軍は、海岸に密集した英・仏軍に空襲を加え、砲撃を
  繰り返した。海上には輸送船、漁船など大小の船が兵士たちを収容して
  いる。直撃弾で沈没する船も多い。フランス軍のマイヤ軍曹(ジャン=ポ
  ール・ベルモンド)もここまでは逃げのびてきた。砂浜で二日間、この地
  獄絵を目撃し、体験する。フランス人の目でダンケルクの悲劇が再現さ
  れた数少ない作品の一つだ。 この脱出は、あくまでも英国軍が優先され
  た。マイヤは、暴徒と化した兵から娘を助けたりしながら脱出の機会を待
  ち続けた。六月四日までに英国に脱出できたのは三十四万人。マイヤは
  そこに入っていなかった。》 (「ダンケルク」 監督アンリ・ベルヌイユ 一九
  六四年フランス映画/石子順 『映画366日館』 社会思想社:刊 1985
  年)
 1週間・1日・1時間 (2)
1週間──ダンケルク。共にダイナモ作戦(ダンケルク大撤退)中の「1週間」を描いた映画でも、2017年の映画『ダンケルク』は、その53年前の映画『ダンケルク』(Week-end à Zuydcoote:1964)とは視点も趣旨も全く異なっていた。ダンケルクの戦いは、イギリスにとってはバトル・オブ・ブリテンへ繋がる栄誉の撤退であるが、フランスにとっては首都放棄と降伏へ繋がる屈辱の敗走である。映画『史上最大の作戦』(The Longest Day:1962)では、ソード海岸へ上陸するイギリス兵が「ダンケルクの仇をとるぞぉ」と叫ぶ。これに対してトルコ出身のフランス人であるアンリ・ヴェルヌイユ監督は、「なぁにが『史上最大の作戦』だ。Dデイの4年前に何があったのかわかってんのかぁ」という意気で1964年の『ダンケルク』を作ったのではないか?…そう私は臆見する。
 
 《敵が侵攻した最初の24時間で勝敗は決する。その日は敵にとっても我々
  にとっても「いちばん長い日」(Der längste Tag=The Longest Day)
  になるだろう。》 (エルヴィン・ロンメル)
 1週間・1日・1時間 (3)
1日──史上最大の撤退作戦。ダイナモ作戦(ダンケルク大撤退)中の「1日」とネプチューン作戦(ノルマンディー上陸)のDデイとのどちらが「いちばん長い日」だったのか、それは判らない。判っているのは、2017年の映画『ダンケルク』を作るきっかけは二十数年前にドーバー海峡を小船で19時間を要して渡った経験だとクリストファー・ノーラン監督が騙っていることだ。だが、本当のきっかけは海峡を渡った後にある。スティーヴン・スピルバーグ監督が「いちばん長い日」を描いたもう一つの映画『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan:1998)だろう…そう私は臆見する。
 
 《この映画に取り掛かる前に、スタッフと一緒にいくつか映画を観ました。そ
  の一本が(激しい戦闘描写でも知られる)『プライベート・ライアン』。スピ
  ルバーグとは親しくしていて、とても美しいフィルムを貸してくれたんです。
  強烈な体験でした。(略) まず、あの完璧な傑作と競争をしたくないという
  ことに気づけた。それに、僕たちはあの映画とは違う、もっとサスペンス
  に基づいた“強烈さ”を求めていたこともわかりました。》 (クリストファー・
  ノーラン/Web『シネマトゥデイ』 映画ニュース 2017年8月6日)
 1週間・1日・1時間 (4)
1時間──プライベート・トミー。クリストファー・ノーラン監督が《あの映画とは違う、もっとサスペンスに基づいた“強烈さ”を求めて》たどりついたのは、ダイナモ作戦(ダンケルク大撤退)中の「1週間」と「1日」を描いた映画から「1時間」を引き抜くことだった。監督作品の前作『インターステラー』(Interstellar:2014)で当初のスピルバーグ版脚本にメロドラマを1時間ほど足していたが、今作『ダンケルク』では『プライベート・ライアン』からメロドラマを1時間ほど抜いて尺を短くした。ノーランは、《とても美しいフィルムを貸してくれた》スピルバーグに「プライベート・トミー」(Surviving Private Tommy)としての『ダンケルク』を返却したのではないか? ヴェルヌイユやスピルバーグは歴史を映したかったが、ノーランは映画を撮りたかった…そう私は臆見する。
 
 1週間・1日・1時間 (5)
1週間と1日と1時間という3つの時間の縮尺の違い、陸と海と空という3つの空間の視点の違い、それら3つの階層が繋がって収束していく映画『ダンケルク』の構成は面白い。そこは、私が‘ザ・タイム・マン’と名付けたクリストファー・ノーランらしい仕上がり。けれども、『インセプション』(Inception:2010)や『インターステラー』ほどの臨場感や没入感を私は得られなかった。‘虚無’(Limbo:辺獄)や‘テサラクト’(Tesseract:四次元立方体)へは何度でも行きたいが、嘘臭いアトラクションみたいな‘ダンケルク’は一度限りで充分な感じ。構成は良かったがドラマツルギーで滑っている『ダンケルク』、そういう映画からは撤退するしかない。そして、『ダンケルク』は『ワンダーウーマン』の続編ではなかった。さて、『ダンケルク』の続編は『人生はシネマティック!』なのか?
 
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第一波の大穴

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年08月26日 23時30分]
ウィリアム・モールトン・マーストンによって1941年に生み出されたダイアナ・プリンスは、従軍看護婦になった後にブティックを経営する傍ら、1967年から1979年までリンダ・ハリソンやキャシー・リー・クロスビーやリンダ・カーターとして映画やTVドラマでワンダーウーマンを演じて、フェミニストSFのセカンドウェイブ(第2波)のアイコンとなった。2010年代にエイドリアンヌ・パリッキやガル・ガドットとして再びワンダーウーマンを演じたダイアナ・プリンスは、2016年10月に国際連合の名誉大使に任命されたが、僅か56日で解任された。フェミニストSFのサードウェイブ(第3波)のアイコンとして認められなかったダイアナ・プリンスは、2017年から時空を超えてフェミニストSFのファーストウェイブ(第1波)を探しに出かけた。それは自らが生み出された時代よりもさらに古い1910年代だった…
 第一波の大穴 (4)
 
 《ここで一つ興味深い映画史的事実を指摘しておこう。それは初期のアメリカ
  映画はそれほどまで女性嫌悪的ではなかったということである。 独立系の
  フィルムメーカーがエジソン社を中心とする東部の映画トラストの支配を逃
  れて大挙して西海岸のハリウッドに移ったのは一九一〇年代のことである
  が、その当時に製作されたアメリカ映画には、後年のハリウッド映画では
  見ることのできない映画形態が存在した。 それは女性主人公による連続
  冒険活劇である。(略) 代表的なのは、パール・ホワイト(Pearl White,
  1889-1938)の『ポーリーンの危機』(The Perils of Pauline,1914)の
  シリーズと、ヘレン・ホームズ(Helen Holmes,1893-1950)の『ヘレン
  の冒険』(The Hazards of Helen,1914)のシリーズである。 パール・
  ホワイトはそのスタントなしの捨て身のアクション(崖から落ち、落馬し、気
  球から飛び降りるなど)で評判を呼んだし、ホームズは「つねに意志が強く、
  独立し、才能豊かなヒロインを演じた。彼女は列車を追いかけ、飛び乗り、
  列車を停車させ、まるで男性の『ヒーロー』のようにまぶしげに眼を細めて
  みせたのである。」 しかしこのような女性主人公の活劇映画は二〇年代
  半ばで終わり、以後ハリウッド映画は西部劇全盛期に突入し、女性主人
  公はほぼ一掃される。》 (内田樹:著 『映画の構造分析 ハリウッド映画で
  学べる現代思想』 晶文社:刊 2003年)
 
第一次世界大戦の末期である1918年、ダイアナ・プリンスは女だけが住むパラダイス・アイランドを後にする。この《つねに意志が強く、独立し、才能豊かなヒロイン》に同道したアメリカ人スティーブ・トレバー(クリス・パイン:演)が《女性主人公による連続冒険活劇》を観ていたのかは不明だが、観ていたならばロンドンや西部戦線で大暴れするダイアナの姿はパール・ホワイトやヘレン・ホームズに重なったであろう。その頃のアメリカでは、ウィリアム・モールトン・マーストンとエリザベス・ホロウェイの夫妻が、夫はハーバード大学で妻はボストン大学で共に法学士を取得していた。幼馴染であった2人は既に3年前の1915年に結婚していたが、その後に嘘発見器の開発を進めた1920年代にはマーガレット・サンガーの姪であるオリーブ・バーンを同居の愛人とした。さらに、エリザベスとオリーブという妻妾をモデルにワンダーウーマンが生み出された1940年代には事務所の運営を担ったマージョリー・ウィルクス・ハントリーが通いの愛人として加わっていた。
 第一波の大穴 (1) 第一波の大穴 (2)
ここで一つ興味深い映画史的空想を指摘しておこう。フェミニストSFのファーストウェイブ(第1波)ともいえる《女性主人公の活劇映画は二〇年代半ばで終わり》、その後にウィリアム・モールトン・マーストンは妻妾同居のパラダイス・アイランド(?)で《それほどまで女性嫌悪的ではなかった》どころか好色で変態の嘘つき心理学者として暮らしたのである。ダイアナ・プリンスは、粘土から作られたのでもないしゼウスとの間に生まれた半神でもなかった。救うに値しない人間ウィリアム・モールトン・マーストンによって生み出された、その悪業から逃れるためにはダイアナ自らがその時代よりもさらに古い1910年代で大暴れするしかなかったのである。
 
 《アメリカの女性嫌悪は、「ニ十世紀アメリカの病」である。その事実から眼を
  そらして、アメリカ史全体に、西欧の歴史全体に、あるいは人類の歴史全
  体に根深くはびこった女性嫌悪に「責任を転嫁する」ことによって、むしろ
  アメリカの現代文化に猖獗する女性嫌悪が分析を免れているということは
  ないのだろうか。》 (内田樹 前掲書)
 
ここでもう一つ興味深い映画史的事実を指摘しておこう。それは主人公によって回想されている1910年代の物語が本編であり、それを挟んだ導入と結末が主人公自身の姿の画像記録で作られていること、映画『ワンダーウーマン』(2017)は『タイタニック』(1997)と同じ構成を持つということである。『タイタニック』を作ったジェームズ・キャメロンは『ワンダーウーマン』を女性美に偏った偶像化でありハリウッド映画の後退であると酷評し、『ワンダーウーマン』のパティ・ジェンキンス監督はワンダーウーマンが女性にとってどういう存在で何を象徴しているのか男であるキャメロンには理解できないと反論した。これらは、いずれの立場でも《アメリカの現代文化に猖獗する女性嫌悪》を無自覚に表出している。キャメロンの『タイタニック』とジェンキンスの『ワンダーウーマン』、同じ構成をもつ2つの映画が示しているのは、フェミニストSFのサードウェイブ(第3波)の時代から《それほどまで女性嫌悪的ではなかった》ファーストウェイブ(第1波)の時代へと物語を照射し回想することで《分析を免れ》ようとしているということではないだろうか? だが、嘘発見器などで分析するまでもなく、また、真実の投げ縄で告白させるまでもない、その《責任を転嫁する》癖はハリウッド映画の病であり「ニ十世紀(から現在まで)のアメリカの病」である。
 
『ワンダーウーマン』(Wonder Woman) 観賞後記
 
 第一波の大穴 (3)
第一波(ファーストウェイブ)の‘大穴’スーパーヒロイン「ワンダーウーマン」、かっこいい! アメコミ映画に見るアメリカのセルフイメージは、これでいいのか? アメリカは、これでいいのか? 私は、ガル・ガドットの『ワンダーウーマン』が観られるならば、それでいい。
 
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わたしのグランパ

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年07月01日 01時30分]
デブゴンまたはサモ・ハン・キンポーこと洪金寶(ホン・ガンボウ)は、2013年1月28日に初孫が生れて、おじいちゃんになった。サモ・ハン監督による映画「老衛兵」は2014年8月にクランクインしたが、翌月にジャッキー・チェンの出演中止が発表された。同9月に香港で雨傘革命(反政府デモ)が起きた。「老衛兵」は2015年に公開を予定していたが、「我的特工爺爺」と名を変えて2016年4月に香港・台湾・中国本土で公開された。この頃からサモ・ハンは古傷の痛みによって杖をついて歩くようになった。「我的特工爺爺」は2017年5月に日本の劇場で上映され始めた。
 わたしのグランパ (1)
その映画館では50歳以上を対象に「1ドリンク50円キャンペーン」をやっていた。コーヒーも50円だが、私は喰種(グール)じゃないからコーヒー以外も飲める。50円のジンジャーエールを手に、1100円のレイトショーを観る。侘しいジジイの映画を観に来たのだから、この侘しいジジイ振りは相応しい。
 
『おじいちゃんはデブゴン』(我的特工爺爺 My Beloved Bodyguard) 観賞後記
 
 《隠居生活を送っていた彼は、中国マフィアとロシアン・マフィアの抗争に
  巻き込まれた隣人の父娘を救うため、封印していた無敵の必殺拳を
  駆使して悪を退治します。まさにサモ・ハン版『レオン』+『グラン・トリ
  ノ』ともいうべき名作の誕生。》 (イントロダクション/映画『おじいちゃ
  んはデブゴン』Webサイト)
 
いいや、違うね。そりゃまあ、『レオン』(Léon/1994)の牛乳エロジジイ(ジャン・レノ:演)も『グラン・トリノ』(Gran Torino/2008)のビール頑固ジジイ(クリント・イーストウッド:演)も、『おじいちゃんはデブゴン』の茶痴呆ジジイより恰好イイ。けれども、前者は監督リュック・ベッソンが次回作の資金稼ぎに(フレンチ)フィルムノワールと香港ノワールを足して割った作品だし、後者は監督クリント・イーストウッドが俳優の引退宣言にアメリカ白人の夢想を描いた作品であって、どちらも監督サモ・ハンほど‘粋’(イキ)じゃない。それよりも「我的特工爺爺」なんだから、サモ・ハン版『わたしのグランパ』というべきだろう。もっとも、元の映画(東陽一:監督/2003)も原作の小説(筒井康隆:著/1999)と違って名作じゃないけれど…。
 わたしのグランパ (2)
 
 《香港の映画市場は残念ながら小さくなり、香港映画にお金を出す人が
  減ってきた。それが悪循環になって低予算で作られるものが増え、国
  際市場でたたかえる作品が出てこない。これが現状ですね》 (サモ・
  ハン:談/藤えりか 「中国返還以来の監督復帰、サモ・ハンと考えた
  香港映画~『おじいちゃんはデブゴン』」/Webサイト『朝日新聞Globe』
  2017年5月27日)
 
映画『おじいちゃんはデブゴン』の冒頭で1972年に訪中したニクソンの後ろにディン役の若きサモ・ハン、これには笑った。実際のサモ・ハンは、この頃に武術指導と俳優の道をゴールデン・ハーベストで歩み始めた。だが、1997年の香港返還を機にカンフー映画と香港ノワールで隆盛を誇った《香港の映画市場は残念ながら小さくなり》、サモ・ハンは監督からも主演からも約20年間遠ざかった。その間に、デブゴンはおじいちゃんになったのだ。もう誰にも止められない。
 わたしのグランパ (3)
 
 《何度も言うが、わしの歳になると命は惜しくない。だからこれは、お前さ
  んたちの思っているような『度胸がある』ってもんじゃないんだな。気に
  なるのは、どんな死に方をするかじゃなく、死ぬまでに何ができるかっ
  てことだ。老人はみんなそうだが、死ぬまでに何かやっておきたい。》
  (筒井康隆 『わたしのグランパ』 文藝春秋:刊 1999年)
 
 わたしのグランパ (4)
一国二制度下の香港は、返還以来の20年でコスモポリタニズムもナショナリズムも失った痴呆症を発している。「我的特工爺爺」のえぐい描写と雨傘革命は同じ病因の多発を示しているわけで、《老人はみんなそうだが、死ぬまでに何かやっておきたい》 のだ。映画『おじいちゃんはデブゴン』を観て、もう悲しく笑うしかない《これが現状ですね》。コーヒーもジンジャーエールも牛乳もビールもいらない、茶でも飲もう。
 
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わたしの人生の物語

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年05月25日 05時30分]
その映画鑑賞の誘因は、たぶん、わたしの人生で二番目に些細な予告編だった。一番は、もちろん、SF界の窓ぎわのテッド・チャンによる小説が原作ということになるでしょう。その時点では、わたしはせいぜいが年に一度かそこらSF映画を観る程度になってて。それでも、その映画を観るまえ、わたしが最初にするのは「あなたの人生の物語」を読み返すことなんだけど。 わたしは映画を鑑賞したあとに車を走らせ、長い沈黙の道のりをすごすことになる。死体保管場所みたいなアカデミー賞に作曲賞の選考から外された映画は、どこもかしこもマックス・リヒターとヨハン・ヨハンソンでできていて、エピクロスの低いうなりと反戦デモの臭気がしているミニマル音楽が心に浮かぶ。映画は原作と違ってバリン(あるいはアボットまたはフラッパー)とボリン(あるいはコステロまたはラズベリー)を地上すれすれまで降下させて、宇宙船の姿をさらして見せる。宇宙船の姿はどこかしらラトルバックみたいだけど、それがばかうけであることはちゃんとわかる。 「はい、ばかうけです」とわたしは言う。「ベフコのばかうけ」 その時点で、栗山米菓は創業七十周年になっているでしょう。
 わたしの人生の物語 (1) わたしの人生の物語 (2)
 
『メッセージ』(Arrival) 観賞後記
 
 《フランス系カナダ人のヴィルヌーヴ監督は「(アメリカ人脚本家の)エリック・
  ハイセラーこそが、本作のドラマの構造を見つけた人物です。政治的・軍
  事的なコンテクストというのは原作にはありませんでしたから」とハイセラー
  の仕事ぶりを称賛する。しかし、それによって映画的なダイナミックさが生
  まれた一方で「ちょっと行き過ぎてしまった」と感じもしたといい、原作にあ
  る“言語の力”をちゃんと描こうと提案して二人で脚本を推敲していったと
  いう。》 (市川遥 「宇宙人と言語学者の対話描く『メッセージ』の美はこうし
  て生まれた…ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が明かす裏側」/Webサイト「シネ
  マトゥデイ」 2017年5月19日)
 わたしの人生の物語 (3)
 《活動的なタイプの人間は星への冒険を夢みるのを好み、書斎型の人間は
  他の星からの冒険者がわれわれのすぐ近くに出没しているという想像に
  心ひかれる。(略) 彼らの地球訪問の理由はいろいろだが、人間から見れ
  ば理由は何であれ、何者とも知れぬ者に来られるのは不愉快なことだ。
  (略) それはとにかくとして、これらの物語で駆使された想像力に少しでも
  敬意を払うなら、宇宙にいるのは人類だけではないことは受け入れない
  わけにはいかない。人類が、すべての創造物の頂点であるか否かをここ
  で論ずる余裕はないが、宇宙では唯一の知的生命体かと問われれば、
  ノーと答えざるをえない。》 (「編者まえがき」/グルフ・コンクリン選のSF
  アンソロジー 『地球への侵入者』 朝日ソノラマ:刊 1984年)
 わたしの人生の物語 (4)
そう、《理由は何であれ、何者とも知れぬ者に来られるのは不愉快なこと》ではあるが、エリック・ハイセラーのタイプの人間は《人類が、すべての創造物の頂点である》と信じているので、「何しに来やがった、コノヤロー」という文脈をつなげて物語る。映画『メッセージ』は、原作の詩情をかなり損ねているが、それは映像や演技によるものではない。エイリアンの正体がヘプタポッドだろうがテトラポッドだろうが関係ないし、トラルファマドール星人でもメトロン星人でも代替がきく。物理学者イアン・ドネリーを演じたのが「そして殺すおじさん」(ジェレミー・レナー)だから娘の死因が捻じ曲がった、というわけでもない。小器用な監督のドゥニ・ヴィルヌーヴでさえも意に染まなかった《政治的・軍事的なコンテクスト》、それが《ちょっと行き過ぎてしまった》まま‘Arrival’(出生)した映画が『メッセージ』である。それはとにかくとして、原作「あなたの人生の物語」(Story of Your Life)で駆使された想像力に少しでも敬意を払うなら、‘非ゼロ和’(non zero sum)に結束する人類の未来を3000年後まで受け入れるわけにはいかない。
 
 《「もしも我々が幸運であれば、人類はこの水爆のひしめきあう世界のなか
  でも数世紀はながらえていけるだろう」とフリーマン・ダイソンは書いてい
  る。「しかし私の信ずるところを言えば、この惑星にへばりついている以
  上、人類が一万年も生き残ることはほとんどあるまい。》 (ケネス・ブラウ
  ワー 『宇宙船とカヌー』 JICC出版局:刊 1984年)
 わたしの人生の物語 (5)
人類が変分原理に則って最短経路で滅びるか否かをここで論ずる余裕はないが、『メッセージ』が知的映像作品かと問われれば、ノーと答えざるをえない。しかし、映画を観たあとに円相のような表義文字(semagram)で「人類滅亡」を描きながら私の信ずるところを言えば、『メッセージ』が時勢に足をすくわれたところを数えても人類が一万年も生き残ることはほとんどあるまい。何本足の生命体であろうが、次元の対蹠点(antipodal point)を見出しても《言語の力》が思考の習性を決することはない…これが、「わたしの人生の物語」だ。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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