弄愚壱

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年12月17日 01時30分]
‘A long time ago, in a galaxy far, far away....’で始まる映画を、遠くもない昔、はるかかなたでもない近場の映画館で観てから1年弱が過ぎた…
 弄愚壱 (1)
 《二十二年前、『スター・ウォーズ』第一作を見た小説家として、今回の新作
  を見るにあたっての危惧がふたつあった。第一作における、あの神話素
  の集積としての封建的ロマンが再現できるのかというのがひとつであり、
  第一作で物語の歴史的背景をうすぼんやりと感じたがゆえの、あの物語
  の重層性が、サーガの濫觴である今回の新作では当然なくなるのでは
  ないかというのがふたつめの危惧だった。 (略)この他にも「より大きな最
  終的な冒険にたどりつく筈の一連の小さな冒険」つまり「探求」であるとか、
  自分がヒーローであることの証明とか、祭儀的な死とか、龍退治とか、第
  一作にはすべてが揃っていた。今度の新作にはそれが欠落しているか、
  あるいは第一作の焼きなおしになっている。》
  (筒井康隆 「『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』について」
  /『文學界』1999年8月号/『文学外への飛翔』 小学館:刊 に収載)
 弄愚壱 (2)
筒井康隆が抱いた‘危惧’は、エピソード1(TPM)・2(AOC)・3(ROS)を通じてその全てで現実のものとなり、さらにエピソード7『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(TFA)でも現(うつつ)となった。ノースロップ・フライによれば「神話/ロマンス/叙事詩・悲劇/リアリズム小説・喜劇/アイロニー」という順序で西欧叙事詩文学が類型を移してきた、と筒井康隆は前掲の稿で引いていたが、結局に《神話素の集積としての封建的ロマン》はエピソード4(NH)・5(ESB)・6(ROJ)の旧3部作に限られていたのである。そこへ、《もうひとつの、スター・ウォーズ》を名乗るスピンオフ作品が生み出された…何だか嫌な予感がするが、さて?
 
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(ROGUE ONE: A STAR WARS STORY)
観賞後記
 
クリス・ワイツの脚本にもギャレス・エドワーズが監督であることにも何らの期待をしていなかったし、さらにディズニーによってトニー・ギルロイが投入された撮り直しを耳にしていたので、エピソード7(TFA)以下の駄作を覚悟して『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を観始めた。親の死によって旅立つ主人公…またも《第一作の焼きなおしになっている》、もう駄目だ。ところが…
 弄愚壱 (3)
 《また新作では、第一作ほど豊かには、異形の者が登場しないのも物足り
  ない。神話性を持つ異形の者はロマンスでは主に身体障害者だが、こ
  れは異世界を描く時にはさらに重要である。 (略)だとすればわれわれ
  のこの新作に対する興味は、第一作にたどりつくまでの、例えばなぜア
  ナキン・スカイウォーカーがダース・ベーダーになったのかといったことで
  しかない。 (略)ここはやはり第一作との類似を避けたプロットが書ける
  協力者も必要だった筈である。それによって第一作との細部の異なりが
  さほど目立たず、比較されることも避け得た筈なのだ。》
  (筒井康隆 前掲稿)
 弄愚壱 (4)
何と新作『ローグ・ワン』は、捨て身の特攻部隊「ローグ・ワン」の全滅死を描いた単なる戦争映画だった。《祭儀的な死とか、龍退治とか》の冒険譚は何もない。《なぜアナキン・スカイウォーカーがダース・ベーダーになったのか》という興味と比べれば極めて低俗な「なぜデス・スターは脆弱だったのか」という謎だけで推す。身体障害者のチアルート・イムウェ( ドニー・イェン:演)やソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー:演)はなかなか面白いが神話性は薄いし、彼らや主人公が唱える‘フォース’はまるで念仏やシャハーダである。つまり、神話素を有したロマンス英雄のサーガを捨てて、リアリズムやアイロニーへ重心を移した2時間ドラマにしてしまった。いわば「もうひとつの、『ディープ・インパクト』または『アルマゲドン』あるいは『永遠の0』」である。物語の重層性さえ失って《比較されることも避け得た》映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』は、エピソード1(TPM)・2(AOC)・3(ROS)・7(TFA)などよりもずっと好い、物語を弄ぶ愚かさを作品自体が教えてくれるから。この全く神っていない安いディズニー映画を、弄愚壱(ローグ・ワン)として観賞を可とした。物語は、死んだ──。
 
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函館どうでしょう

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年10月24日 01時30分]
3年連続でコーヒー絡みのご当地映画(?)が公開された。2014年は安房を舞台にした『ふしぎな岬の物語』、2015年は珠洲を舞台にした『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』、そして2016年は函館を舞台にした『函館珈琲』。《時にはほろ苦く、甘酸っぱい、まるで珈琲のような映画が函館から誕生しました》…あ~またやばそうな雰囲気だが、『函館珈琲』どうでしょう?
 函館どうでしょう (1) 函館珈琲初日来場ポストカード
  
『函館珈琲』 観賞後記
 
 《会社に勤めながら執筆を続ける名古屋市天白区の脚本家、いとう菜のは
  さん(46)の作品「函館珈琲」が映画化され、22日から名古屋シネマテー
  ク(同市千種区今池)で上映される。(略)公募された函館イルミナシオン
  映画祭の2013年シナリオ大賞グランプリ作品。(略)北海道函館市にあ
  る古い西洋風アパートを舞台に、ガラス職人やテディベア作家、写真家な
  どの若者が、葛藤と向き合いながら新しい一歩を踏み出していく群像劇。
  (略)実は、いとうさんは函館に行ったことがなかった。著名な映画監督ら
  が「オープンセットのような街」と形容する街に憧れ、「想像力を働かせて
  書いた」という。授賞式と昨夏のロケの際に訪問し、「いろいろな過去や
  傷を抱えた人を受け入れてくれる、澄んだ空気はイメージ通り」だと実感
  した。(長谷部光子)》 (『毎日新聞』 2016年10月21日)
 函館どうでしょう (2)
函館といわれても、百貨店の「棒二森屋」とソフトクリームの「きくち」とハンバーガーの「ラッキーピエロ」それにクローヨくらいしか思い浮ばないので、映画『函館珈琲』を観に行こうにも気怖じしそうだった。だが、《函館に行ったことがなかった》いとう菜のはが脚本を書いているので気が楽になった。コーヒーノキを育てる生産者からみればコーヒーを飲む消費者は永久に客体であるのと同様に、映画の舞台となる‘ご当地’函館からみれば観客は永久に客体なのだから。その主客の差違は絶対であるが、いとう菜のははどっちなんだろう? 『函館珈琲』どうでしょう?
 
黄川田将也(桧山英二:役)やAzumi(藤村佐和:役)や中島トニー(相澤幸太郎:役)の演技に力みが見えてキャラぶれが激しい幼さがあるのは残念。片岡礼子(堀池一子:役)や夏樹陽子(荻原時子:役)やあがた森魚(マスター:役)は可もなく不可もなく。それでも『函館珈琲』は、『ふしぎな岬の物語』や『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』よりもドラマ映画としてずっとマシだった。演出が良いとは思えないが、何となく浮ついた違和感が函館の風景に似合っている。これが桧山のいう《函館は時間の流れ方が違う》ということなのか? 『函館珈琲』どうでしょう?
 
 《撮影の思い出といえば、打ち合わせで「パーコレーター」という方法で珈琲
  を淹れることになって、何件もの珈琲店で視察、勉強、実践して準備しま
  した。ところが、函館の現場に入ったら、急に「ネルドリップ」に変更になっ
  て。いろいろな淹れ方を勉強はしましたけど……これが現場の怖くも楽し
  いところですね。》 (黄川田将也:談/『Pause シネマで広がる女性の快
  適ライフ』Facebook 2016年10月4日)
 函館どうでしょう (3)
コーヒー映画としての『函館珈琲』は、全く話にならない。桧山英二の抽出は、注湯の最初から最後までドボドボジョバジョバと乱暴で湯溜まりだらけ。透過法になっていないネルドリップ、怖くて楽しくない。その桧山が納品先のコーヒー屋で生豆を摘まんで《新鮮なあかしですね》と言うと、マスターが《お、わかってるね》と答える。グリーンビーンズを気軽に摘まめるほどむき出し開け晒しで店頭に放置している、全くわかっていない。幕切れで桧山が開いた店では、《当店で抽出している各国から届く珈琲豆は全て自家焙煎です》と黒板に書いてあったが大丈夫なのか? 店頭に「函館珈琲」などと掲げるよりも、店名を「不完全な月」とでもした方が相応しかったのでは? 『函館珈琲』どうでしょう?
 
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航星日誌0448.1021

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年10月21日 23時30分]
「航星日誌0448.0722」 STB(ビヨンド)がUSAで公開された。やはり何かおかしい。33日前に事故で死んだアントン・ヴィクトロヴィッチ・イェルチンは、まだ蘇生しない。カーン・ノニエン・シンの血を使わなかったのか? 511日前に病で死んだレナード・サイモン・ニモイも、まだ蘇生していない。ジェネシスを発動させなかったのか? アントンの死とほぼ同じ頃に、宇宙の名は‘Abramsverse’(エイブラムスバース)から‘Kelvin Timeline’(ケルヴィン・タイムライン)へと変えられた。私たちの歴史は、何者かによって改変された時間軸へ迷い込んでいるようだ。
 航星日誌04481021 (1)
 
『スター・トレック BEYOND』(Star Trek Beyond) 観賞後記
 
 《なるほど、たとえばテレビでは到底感じられなかった宇宙船〝USSエン
  タープライズ〟の偉容、それが跳躍(ワープ)する際の生理的な快感、
  そして迫り来る奇怪なエネルギー雲と、その核であるところの謎の
  〝ヴィージャー〟のイメージは、まさしく『2001年宇宙の旅』以後で
  あり、『スター・ウォーズ』以後である。(略)僕は思う。ジョージ・ルーカ
  スやスティーヴン・スピルバーグやリチャード・ドナーやリドリー・スコッ
  トらが、かつて幼いころ、スペース・オペラ映画やスーパー・ヒーロー
  映画、〝空飛ぶ円盤〟物や〝宇宙怪物〟物に心ときめかし、その結
  果自らが新しい映画を生み出していったように、〈宇宙大作戦〉(スター・
  トレック)を含む数々のテレビSFもまた、さらに新しい映画の原点に、
  いつかはなってゆくのだろう。そして、そうである時、それこそがトラン
  ブルやダイクストラや、そのまた後継者たちの本当の檜舞台となり、
  僕などまでも巻き込んで〝映画〟をさらに興奮させてゆくことだろう。
  そんな意味において、僕はあえて映画『スター・トレック』の様々な欠
  点を、〈宇宙大作戦〉(スター・トレック)にほとんど心ときめかされぬ事、
  むしろ僕以上であるはずの、ロバート・ワイズ一人にまとめてしまいた
  い。》 (石上三登志 「スター・トレック」/『キネマ旬報』1980年6月上
  旬号/『SF映画の冒険』 新潮文庫 1986年 に収載)
 航星日誌04481021 (2)
 
「航星日誌0448.1021」 STB(ビヨンド)が日本で公開されたので、接触をしてみた。何がおかしいのか判明した。監督はジャスティン・リンへと変えられていた。前2作(STXISTID)でエイブラムスバースを生み出した張本人は、脚本を「スター・ウォーズ」おたくのサイモン・ペッグに改変させて、自らは偏愛する「スター・ウォーズ」宇宙へと逃げていた。全てはJ・J・エイブラムスの策謀によるもので、彼がバッド・ロボットを実働させた2001年以後の歴史は変わってしまったのだ。蘇生するはずのアントン・イェルチンとレナード・ニモイを死んだままにして、スポック・プライムを殺したのも、J・J・エイブラムスに違いない。
 航星日誌04481021 (3)
 
カーン以後の‘死と再生’を描いた映画『スター・トレック BEYOND』(STB)は、別の宇宙の物語(劇場版2作目TWOK・3作目TSFS・4作目TVH)の焼き直しである。すなわち、いずれも老いたスポックが死んでカトラを継いだ若きスポックが蘇る話であり、また旧いエンタープライズ号が潰れてヨークタウンを絡めた新たなエンタープライズ号が甦る話である。つまり、サボタージュである。だから、ケルヴィン・タイムラインの第1作(STXI)の冒頭で流された「Sabotage」(ビースティ・ボーイズ/1994)が、この第3作(STB)では‘音楽兵器’として使われた。『オデッセイ』(2015)もそうだったが、最近のSF映画はミュージカル・コメディが流行りらしい。次の第4作では、「Intergalactic」(ビースティ・ボーイズ/1998)でも使ったらどうか? 他にも既視感ばかりの映像で苦笑いするしかないが、ジャスティン・リン監督でギリギリ救われた? そんな意味において、私はあえて映画『スター・トレック BEYOND』の様々な欠点を、〈宇宙大作戦〉(スター・トレック)シリーズにほとんど心ときめかされぬ事、むしろ私以上であるはずの、J・J・エイブラムス一人にまとめてしまいたい。
 航星日誌04481021 (4)
 
スタトレ…それは旧世代に残された最後の開拓地である。そこには新世代の想像を絶する古臭い設定、 古臭い展開が待ち受けているに違いない。 これは、13作目の試みとして3年ぶりの公開で飛び立った宇宙船U.S.S.エンタープライズ号の懐古に満ちた映画である。LLAP。
 
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後妻打ち

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年09月10日 01時30分]
『黒い家』(1999年)の菰田幸子、『ふくろう』(2004年)のユミエ、『後妻業の女』(2016年)の武内小夜子、3つの映画に登場した女はサイコパスであり、実は同一人物である。
 後妻打ち (1) 後妻打ち (2) 後妻打ち (3)
 
 《サイコパスは社会の捕食者であり、生涯を通じて他人を魅惑し、操り、情け
  容赦なくわが道だけをいき、心を引き裂かれた人や、期待を打ち砕かれた
  人や、からになった財布をあとにのこしていく。良心とか他人に対する思い
  やりにまったく欠けている彼らは、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯
  し、人の期待を裏切り、自分勝手にほしいものを取り、好きなようにふるまう。》
 《もっともドラマティックなのは、一般の人たちに嫌悪感を与えると同時に彼ら
  を魅了してしまう、良心のかけらもない冷血な殺人犯たちだ。彼らの多くは、
  映画の題材としてもとりあげられている。》 (ロバート・D・ヘア 『診断名サイ
  コパス -身近にひそむ異常人格者たち-』 小林宏明:訳 早川書房:刊)
 
サイコパスの女に魅入られて《映画の題材としてもとりあげ》た映画監督たちは、森田芳光が2011年に死に、新藤兼人が2012年に死んだ。『後妻業の女』で殺された津川雅彦と同い年の鶴橋康夫は存命だが、これも時間の問題だろう。大竹しのぶは、サイコパスである──まあいいか。
 
『後妻業の女』 観賞後記
  
 後妻打ち (4)
 《“平成の毒婦”と呼ばれる女が3人いる。結婚相談所や婚活サイトを舞台に
  複数の男性が所有する資産を狙った筧千佐子と木嶋佳苗。そして、いくつも
  の家族を巻き込んだ連続殺人事件の主犯とされる角田美代子である。(略)
  そこで連想するのが心理学でいう“サイコパス”である。一般的には反社会
  的人格障害者と訳されることが多く、良心がいちじるしく欠如しているとか、
  口が達者で平然とウソをつく、罪悪感が皆無といった特徴が挙げられる。
  (略)筧被告の事件から連想するのが、昨年8月に出版された『後妻業』とい
  うセンセーショナルな犯罪小説だ。著者は直木賞作家の黒川博行氏。知人
  の父親が亡くなった際、内縁の妻を名乗る女性が現れ、公正証書遺言を振
  りかざして、遺産を要求したのだという。その経緯を黒川氏はこう話す。「知
  人がその被害に遭って、相談された話をもとに書いた。そこでも9年間で高
  齢の男性が4人死んでいる。『後妻業』という言葉は、そのときに知人が使っ
  ていたものだ。入籍はしていないものの、80過ぎた爺さんに60代、50代の
  女が積極的に近づいてきたら、それはもう金目当ての可能性が高い」》
  (岡村繁雄 「平気で人を殺す女は、何を考えているか」/Webサイト
  『PRESIDENT Online』 2015年3月5日)
 
シン・ゴジラ』は「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」を掲げていたが、これに倣っても『後妻業の女』を「現実(木嶋佳苗・筧千佐子) 対 虚構(武内小夜子)」と捉えることはできない。何故か? 鶴橋康夫監督は《原作はハードボイルドですが、コミカルでユーモアのある作品にしようと考えて作りました》(モントリオール世界映画祭上映前挨拶/東宝Webサイト 2016年8月30日)と言う。《原作は『後妻業』ですが、原作者の黒川先生に相談して、映画は『後妻業の女』というタイトルに変更の許可を頂きました。大竹しのぶ讃歌です》(プロダクションノート/『後妻業の女』Webサイト)とも言う。クライムノベル『後妻業』がコメディ映画『後妻業の女』へと変容した時、そこに「現実(木嶋佳苗・筧千佐子) 対 現実(大竹しのぶ)」を掲げるべき映画が作り出されたのである。つまり、映画が描く内容は犯罪から離れていったが、その映画が作られた行為それ自体は犯罪に近い。『後妻業の女』は、サイコパスを描いた映画である──まあいいか。
 後妻打ち (5)
 
『後妻業の女』では豊川悦司(結婚相談所の柏木亨:役)と永瀬正敏(興信所の本多芳則:役)が頑張っているが、他の演者は誰が誰でもどうでもいい程度で「通天閣どころやない…ピサの斜塔や~」。やれ熟年婚活だの財産争いだのを‘世相’と称して《あなたの愛とお金、ねらわれてませんか?》という惹句を掲げた映画が、自ら丸ごと騙されていることに気づいていない…この実態の方が深刻である。必要なのは、後妻業を見抜くことではない。「あなたの周りにサイコパスはいませんか?」と精神病質チェックリスト(PCL-R)を示すことである。だが、サイコパスの女は半端な‘後妻打ち’(うわなりうち)では滅しない。『後妻業の女』は、ファム・ファタールを描いたつもりでサイコパスに操られた映画だった──まあいいか。
 
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遠すぎた道

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年08月10日 23時30分]
ビル・ブライソンによる紀行“A Walk in the Woods: Rediscovering America on the Appalachian Trail”(1998年)をロバート・レッドフォードが読んだのは、アカデミー名誉賞を受けた2002年のことだった。
 遠すぎた道 (1)
 《一読して、ああこれは運命だと思ったね。一冊の本でこんなに何度も声を出し
  て笑ったのは初めてだと思う。(略)色々な本や映画と巡り合ってきたけれど、
  本当のユーモアは真実からしか生まれない。それを誰かと分かち合いたい気
  持ちに突き動かされて、どうにか映画にできないかと思ったんだ》 (「ロバート・
  レッドフォードが語る、中年&老年の危機描いた『ロング・トレイル!』への思
  い入れ」/Webサイト『映画.com』 2016年7月9日)
 遠すぎた道 (2)
ロバート・レッドフォードは、アパラチアン・トレイルを男2人で歩いた話を読み終えた時、『明日に向って撃て!』(1969年)や『スティング』(1973年)のように、ジョージ・ロイ・ヒルの監督でポール・ニューマンとの共演による映画化を夢想しただろう。だが、既にパーキンソン病を患っていたジョージ・ロイ・ヒルは、その2002年に死んだ。80歳だった。それでも、レッドフォードは2005年に自らの製作と主演で映画化を発表した。ニューマンは80歳だった。そして、ポール・ニューマンは‘最後の共演’を果たすことなく、がんを患って2008年に死んだ。映画化は頓挫しかかったが、レッドフォードはあきらめなかった。共演者をニック・ノルティにして2014年に映画の撮影が始まり、翌2015年に映画が公開された。ビル・ブライソンらがアパラチアン・トレイルを歩いた時(1996年)から19年、その紀行が出版された時から17年、その本を読んでロバート・レッドフォードが《どうにか映画にできないかと思った》時から13年が経っていた…そう、映画化の道程こそが「ロング・トレイル」だった。
 
『ロング・トレイル!』(A Walk in the Woods) 観賞後記
 
 遠すぎた道 (3)
「再会の3500km、友と森を歩く」という惹句を掲げる映画『ロング・トレイル!』であるが、ビル・ブライソンとスティーヴン・カッツはアパラチアン・トレイル全長2174マイル(約3499km)を完全に踏破していない。うち870マイル(約1400km)だけを1996年に歩いた。その前年にシェリル・ストレイドがパシフィック・クレスト・トレイルを歩いた時も1100マイル(約1770km)だけであり、全長2650マイル(約4265km)を完全に踏破したわけではない。2つのトレイル紀行、共に全長の約4割にとどまっている。だが、シェリル・ストレイドの紀行“Wild: From Lost to Found on the Pacific Crest Trail”(2012年)が映画化された時の邦題は『わたしに会うまでの1600キロ』(2014年)であり、そこに誇張はない。対して、「再会の3500km、友と森を歩く」という惹句は、不実な詐欺である。
 遠すぎた道 (4)
 《ビルはなぜ自分がアパラチアン・トレイルにひかれたか分かっていない。どうし
  てその衝動に駆られたのかが説明できないんだ。だけど人生でそう思う時期
  にさしかかっていた。人生のある瞬間に訪れる衝動だね。中年の危機、と言
  えるかもしれないが、いや、この場合だと老年の危機かもしれない。説明でき
  ないような危機なんだ》 (前掲 「ロバート・レッドフォードが語る、中年&老年
  の危機描いた『ロング・トレイル!』への思い入れ」)
 遠すぎた道 (7)
『わたしに会うまでの1600キロ』と『ロング・トレイル!』、アメリカの長距離トレイルを歩く映画2つが連年で公開されたわけだが、いずれも映し出される道と風景だけが見どころ、映画としての‘不出来’さは似たり寄ったりである。原作に沿った話運びから考えれば、26歳の孤独な女がメタファーで独白する内省の旅よりも、共に44歳の男2人がアイロニーで茶化す‘ヤジキタ道中’の方が明るく楽しいハズだが、『ロング・トレイル!』はそうなっていない。何故か? シェリル・ストレイド役のリース・ウィザースプーンは37歳だった(撮影時)。対して、ビル・ブライソン役のロバート・レッドフォードは77歳、友人スティーヴン・カッツ役のニック・ノルティは73歳だった(撮影時)。実話は《中年の危機》だが、映画『ロング・トレイル!』は《老年の危機》、‘年寄りの冷や水’ヨボヨボ映画だから。ジジイのバディフィルムだから全てがダメとは言わないが、晒した老醜が醸すべき滑稽を圧している。要は、映画化までの経時が「ロング・トレイル」、‘遠すぎた道’だった。
 
 遠すぎた道 (6) 遠すぎた道 (5)
映画『ロング・トレイル!』の救いは、スティーヴン・カッツを演じたニック・ノルティだ。実在のカッツ(本名:Matt Angerer)がアル中の太り過ぎで人工膝関節の‘ヨイヨイ’だったように、ニック・ノルティも役を作らなくても既に同じ状態だったのだ。演技を超えた迫真である。映画の中ではノルティの演じたカッツが断酒の誓いに瓶の中身を捨てていたが、撮影後に股関節の置換手術を受けたニック・ノルティは飲酒で手術を延期させた。演技を超えた迫真である。ヨレヨレのレッドフォードとヨイヨイのノルティは、ブライソンとカッツを演ずるよりも、「オレたちもやってみた」と長距離トレイルに挑むドキュメンタリー映画を作った方が好かったのかもしれない。それでも、2人にとってアパラチアン・トレイルは‘遠すぎた道’だろうが…踏破の先にジョージ・ロイ・ヒルとポール・ニューマンが待っている? ロバート・レッドフォードは80歳になる。
 
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便所の落書き

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年08月06日 05時30分]
展示映像『巨神兵東京に現わる』が公開された頃の庵野秀明は、《怪獣映画は製作当時からゲテモノ扱いされていたと聞きますが、日本の特撮作品は海外で高い評価を得ている。日本が誇るべきなのは、アニメーションよりもまずゴジラだと思います》(『朝日新聞』be 「フロントランナー」)と言っていた。サンディエゴのコミコン・インターナショナル会場では、約2年後に劇場公開されるギャレス・エドワーズ監督版『GODZILLA ゴジラ』のストック・フッテージが突如映し出された。共に2012年7月14日のことである。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また世界のどこかに現れてくるかもしれない」(by山根恭平)……そして、その同類は現れた。‘忌まわしき虚心兵’である庵野秀明へと変態する怪獣は、2016年7月29日に東京湾から現れてきた…
 便所の落書き (1)
 
『シン・ゴジラ』 観賞後記
 
 《総監督・脚本に「エヴァンゲリオン」の庵野秀明、監督に樋口真嗣という日本
  アニメと特撮を代表する2人を迎えた本作は、ゴジラシリーズ研究の精華で
  ある。巨大怪獣の格好良さを強調する構図とカメラアングル、あるいは自衛
  隊の戦力を総動員しての対ゴジラ大作戦。それこそかつての特撮ファンが
  見たかった理想のゴジラ映画であろう。自作を引用してしまう庵野の限界を
  も見せたとしても。第2次世界大戦の戦禍が1954年の「ゴジラ」を作らせた。
  ならば「シン・ゴジラ」は日本を壊滅させる巨大地震と制御不能の原発にほ
  かならない。だがそのゴジラに対峙する「オタクと変人の集まり」、カップラー
  メンとおにぎりが並ぶ徹夜明けのゴジラ対策本部とはなんだろう。それこそ
  はこの映画を作り上げた日本特撮の叡智の結集、雑駁なアメリカ的解決か
  ら怪獣ゴジラを取り戻す苦闘の姿ではないか。なるほどその戦いは真摯な
  ものだろう。だが日本特撮の申し子が作った日本特撮の神髄がそれでしか
  ないのなら、ひどくわびしく感じるのも事実である。》 (柳下毅一郎 「日本特
  撮の真摯なる戦い」/『朝日新聞』夕刊 2016年8月5日)
 
 便所の落書き (4)
例えば、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)の帆場暎一まがいな牧悟郎が岡本喜八で『日本のいちばん長い日』(1967年)のカット割りや『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)のテロップだとか、昔に敵としたヘドラやデストロイアのように変態する呉爾羅(ゴジラ)が放つ光線が『伝説巨神イデオン』(1980年)まがいで『風の谷のナウシカ』(1982年)の巨神兵もどきの破壊と停止が「火の七日間」だとか、それらも含めての『シン・ゴジラ』が《ゴジラシリーズ研究の精華》で《日本を壊滅させる巨大地震と制御不能の原発》で《雑駁なアメリカ的解決から怪獣ゴジラを取り戻す苦闘の姿》であると捉えるならば、柳下毅一郎の評はほぼ尽くしている。
 
 便所の落書き (2)
もう少し加えるならば、その《研究の精華》の背景は、庵野秀明が《エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない》(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』及びゴジラ新作映画に関する庵野秀明のコメント 2015年4月1日/「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」Webサイト)という「逃避の精華」である。《自作を引用してしまう》それこそは、《オタクと変人の集まり》の雑駁な「便所の落書き」から庵野が自己を取り戻す苦闘の姿ではないか。なるほど「私は好きにした、君らも好きにしろ」としか庵野は言えないのである。この庵野秀明による身勝手で苦し紛れの「逃避の精華」だけが、『シン・ゴジラ』を佳作にしている神髄なのだ。
 
 便所の落書き (3) 
2013年の夏の映画『パシフィック・リム』は‘怪獣映画’の傑作であり、2014年の夏の映画『GODZILLA ゴジラ』は‘怪獣映画’の駄作だった。だが、2016年の夏の映画『シン・ゴジラ』はそもそも‘怪獣映画’などではなくて、‘パロディ映画’として佳作である。《カップラーメンとおにぎり》ばかり食べて腹具合が悪くなり、嘔吐と排泄をしていたら「便所の落書き」を見つけた。読んでみると滑稽や諷刺の効いた面白いパロディ作品だった。そして、《ひどくわびしく感じるのも事実である》。この「便所の落書き」が、映画『シン・ゴジラ』なのだ。そろそろ‘忌まわしき虚心兵’である庵野秀明に対しては、尻尾から妙なモノを取り出す前に八塩折之酒を口から注ぎ込んで動きを封ずるべきであろう。
 
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リサージェンス定理

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年07月11日 01時30分]
1776年7月4日、北アメリカ大陸のグレートブリテン王国13植民地が独立宣言を採択。1996年7月4日、異星人の侵略に対してアメリカ合衆国大統領トーマス・J・ホイットモアが人類の‘独立記念日’を宣言(『インデペンデンス・デイ』)。2076年7月4日、月の植民地が革命を起こして地球の世界連邦に独立を宣言(『月は無慈悲な夜の女王』)。1996年の独立記念日と2076年の独立記念日の間には何があったのだろう?
 
 《それに対する返事は嘲笑するようなものだった。流刑者どもが穴の中で暴
  動を起こしたいというならそれがどうしたというんだ? もしそんなことが心配
  なら、一九九六年と二〇二一年にやって大成功を納めた電気を切ることを
  考えてみたらどうなんだ?》 (ロバート・A・ハインライン 『月は無慈悲な夜の
  女王』 “The Moon Is a Harsh Mistress” 1966年/矢野徹:訳 早川
  書房:刊 1969年)
 
『インデペンデンス・デイ リサージェンス』(Independence Day: Resurgence) 観賞後記
 
 リサージェンス定理 (1)
監督ローランド・エメリッヒ曰く、《『インデペンデンス・デイ』は完結した一つの物語であって、続編を製作する意図はまったくありませんでした。私は続編というものが大嫌いなんです。もし同じことを繰り返すのであれば撮らない方が良いに決まってますからね》(『アニメ!アニメ!』 2016年7月8日)、《当時、前作はきっちり完結していたので、次の物語を続ける意志が全くなかった。そもそも続編というものが嫌いで、全く同じことを繰り返すのなら、やらない方がいいと思っているから》(『マイナビニュース』 2016年7月9日)、《私はこれまでずっと続編なんて嫌いだ、と言い続けてきた。実は今も嫌いだけどね(笑)》(『ガジェット通信』 2016年7月9日)。これほど《嫌い》な続編を、なぜ「リサージェンス」(再起・復活)したのか? 私の《それに対する返事は嘲笑するようなもの》である。おそらく、エメリッヒまでもが異星人との精神交感で脳を侵されたのだろう。20年ぶりに襲来した異星人がプラズマドリルで破壊したかったのは、地球のコアではなくてエメリッヒらスタッフの脳だったのかもしれない。その影響だろうか、円盤や異星人を巨大化しても迫力は激減し、CGを多用しても臨場感は薄れている。話の筋立ても演出も、パッとしないどころか劣化が激しい。『インデペンデンス・デイ リサージェンス』は、他のSF映画のシリーズ続編に比しても最悪である。いや、仮にリメイクやリブートだとしても最低の部類だろう。つまり、《撮らない方が良いに決まってますから》《やらない方がいい》作品で、観るに堪えない駄作の極み。
 
 《「ああ、タンスターフル……つまり、無料の昼飯などというものはないという
  意味だよ(There ain't no such thing as a free lunch の頭文字を
  綴ったもの)。そのとおりなんだ」》 (前掲 『月は無慈悲な夜の女王』)
 リサージェンス定理 (2)
SF小説『月は無慈悲な夜の女王』には、いわゆる「ノーフリーランチ定理」が登場する。しかし、今般の映画『インデペンデンス・デイ リサージェンス』は、有料の映画の中には《無料の昼飯》よりもさらに割高で価値を損なうものがあるという、新たな「リサージェンス定理」(?:害虫駆除で言われるところの誘導多発生など踏んだり蹴ったり状態に陥る命題)を示した。本作品を製作配給した20世紀フォックスは、『月は無慈悲な夜の女王』を監督ブライアン・シンガーで映画化するらしい。同じ‘独立記念日’を描く作品としても、「リサージェンス定理」にハマった駄作にはして欲しくないものだ。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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