かわたれ日和

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2016年12月06日 05時30分]
栃井村(現:美濃加茂市下米田町東栃井)に生まれて名誉市民第1号を美濃加茂市より贈られた歴史学者の津田左右吉(1873-1961)は、‘芸術と社会’に関する言を津田黄昏の名で遺している。
 
 《芸術のための芸術と一口にいってしまえば、社会との関係などは初から
  論にならないかも知れぬ。けれども芸術を人生の表現だとすれば、そう
  して、人が到底社会的動物であるとすれば、少くとも芸術の内部におの
  ずから社会の反映が現われることは争われまい。芸術の時代的、また
  は国民的特色というのも畢竟ここから生ずるのである。まして、芸術の
  行われる行われない、発達する発達しないというような点となると一般
  社会の風俗や思潮やに支配せられないはずはない。》
  (津田黄昏 「芸術と社会」/『みづゑ』一〇四 1913年10月)
 
津田左右吉の忌日からちょうど55年後にあたる2016年12月4日、初冬の昼下がり、美濃加茂の太田宿へ「きそがわ日和」のアート催事を観に行こう!
 かわたれ日和 (1)
 
駐車して展示会場(山田時計印章店隣の古家)を覗くも、「ミノカモ学生演劇祭」の取材合宿中に訪れた学生諸君で立錐の余地もないので、観るのは後回し。260m東の「ヴォールヒュッテ」で同時開催中の「THERE WAS IT THERE.」を先に観る。渡辺純氏の襤褸(ぼろ)と渡辺奈穂氏のテキスタイル、暖炉の温かみと布の温かみが溶け合った空間で遊ぶ。その隣の「コクウ珈琲」で集会の準備を邪魔したり手伝ったり、催事関係者に混じって談話して遊ぶ。
 かわたれ日和 (2) かわたれ日和 (3) かわたれ日和 (4)
 
「きそがわ日和2016冬 時の指紋」 (主催:特定非営利活動法人きそがわ日和)
 
「時の指紋」の展示会場へ行き、田中藍衣氏と箱山朋実氏の作品を観る。外はもう黄昏、古家の中も薄暗くなって作品の微妙な反射や陰影は捉え難いが、増感モード(?)で目を凝らす。自然光が失われた分だけ古家の傷痕と作品の傷痕が溶け合って、最後はどこに作品があるのか探す始末。まぁ、これはこれで面白い…いわば「黄昏の指紋」だ(笑)。
 かわたれ日和 (5) かわたれ日和 (6) かわたれ日和 (7)
  
さて、「コクウ珈琲」へ戻り、内藤美和氏(オフィスマッチングモウル代表)による講演会「アートとまちの関係性」を聴こう! 内藤美和氏が過去に呟いた「アートの貪欲」発言を事前に読んで、私は聴講を欲したのだ。講演は佐久島を‘アートの島’にした仕掛けの話が大半、《学生や素人のヘッポコ作品はやらない》とか《アートをやればイイわけじゃない》などの辛辣な発言が好い。篠田康雄氏も「きそがわ日和」に関して《常に異物でありたい》と宣言して、NPO法人化記念を兼ねた交流会へ突入。茶やおでんを飲み食いしながら歓談、集会の片付けを邪魔したり手伝ったりしながら最後まで談話して遊ぶ。
 かわたれ日和 (8) かわたれ日和 (9) かわたれ日和 (10)
 
夜半に車を走らせる帰途、現代アートと地域と人の関係性を考える。内藤美和氏の「アートの貪欲」発言は、「文化庁長官と語る会 文化芸術は社会に役に立つか?」(2013年2月 東京藝術大学「白熱教室」第2弾)で近藤誠一氏が掲げた言説に端を発したものだが、私が捉えたところでは近藤誠一文化庁長官(当時)の表意は津田黄昏の言に通底する。
 
 《だから一心不乱に自己を表出しようとする芸術家は即ち無意識の間に
  国民の要求を実現させつつあるものである。知識として国民性を云々し
  ないでも、生きた芸術として国民性を形づくってゆくのが芸術家である。》
  (津田黄昏 「芸術と国民性」/『みづゑ』一二六 1915年8月)
 
こういう‘芸術と国民性’云々という意の表し方は、《常に異物でありたい》側にはイヤな感じだ。しかし、《自分の「正義」や「善意」を疑ってみたり、過去を振り返ってちょぃと赤面するくらいの良識はあってしかるべき》という内藤美和氏の示唆に照らせば、NPO法人化で改めて始動する「きそがわ日和」に向けて津田左右吉の言は託宣にもなろう。
 
 《トルストイの芸術論のように芸術の俗衆化を主張するのではないが、ま
  たもとより天才的芸術家の特殊の官能を尊重することを否むものでは
  ないが、芸術の基礎は普通人の心理的事実の上に据えなくてはならな
  いものではあると思う。》
  (津田左右吉 「偶言」三/『みづゑ』一二四 1915年6月)
 
美濃加茂に生まれた津田左右吉が黄昏、つまり‘誰そ彼’(たそかれ)を名乗ったのであれば、美濃加茂に生まれた「きそがわ日和」は木曽川と人へ‘彼は誰’(かわたれ)と問い続けても好いのではないか? 同じ薄明でも「きそがわ日和」は黄昏でなしに黎明にある…いわば「かわたれ日和」だ。
 
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コメント

コクウ珈琲 URL [2016年12月09日 18時32分]

色々と手伝ってもらって助かりました。
芸術と国民性の話はイヤな感じではないですよ。美濃加茂の地域性が何かを考えるうえで、今は「異物」である方がいいのではと思っています。でも、内藤さんや池ヶ谷さんに笑われないレベルの「目に見える結果」をそろそろ残していきたいですね。

to:コクウ珈琲さん
帰山人 URL [2016年12月11日 01時53分]

熟(こな)れたら芸術は終わり。経済効果は指標であっても目的ではない。決して「俗物」と混同しないように焦らず「異物」でありましょう。「目に見える結果」より「心に響く過程」を私は求めます。

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Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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