ムーゼルマンとカーフィル

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2016 [2016年11月10日 01時00分]
例えば、小川洋子氏のエッセイ集『カラーひよことコーヒー豆』(小学館:刊 2009年)にはアウシュヴィッツ強制収容所の話が登場する。見学した時に《たくさんのお人形があったのが忘れられない》(「思い出のリサイクル」)し、《最も衝撃的だったのは収容された者たちの靴の山だった》(「靴は人生の同伴者」)と記されている。だが、そこにアウシュヴィッツのコーヒーの話は登場しない。小川洋子氏は、須賀敦子氏の《きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ》(『ユルスナールの靴』/河出書房新社:刊 1996年)という文を引いて、《靴は、かけがえのない人生の同伴者だ》と言う。しかし、コーヒーこそが《かけがえのない人生の同伴者》だと思う人間もいる。アウシュヴィッツ強制収容所で殺した人間も殺された人間も、そう思っていたのだろうか?
 ムーゼルマンとカーフィル (1)
 
『アウシュヴィッツのコーヒー コーヒーが映す総力戦の世界』 (臼井隆一郎:著/石風社:刊)
 
 《20年以上前になるが、すでに著者は『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公
  新書)を世に送り出している。今回「コーヒー」がめぐるのは「アウシュヴィッ
  ツ」。題名からは前著より重たい気配が感じられる。(略) 前著では、起源
  から現代に至るコーヒーの歴史が、社会・文化史的な観点から幅広く記述
  され、特にイギリスとフランスには多くのページが割かれて、近代市民社会
  の形成とコーヒーの関係が詳細に論じられていた。だが、この度はだいぶ
  様子が異なっている。前著が主に近代市民社会的コーヒーを論じた表の
  顔とすれば、本書が主題とするのはその裏の顔。クロノス的、ファシズム的
  コーヒーなのである。 目次に目を通すと、第1章がコーヒーの起源としての
  アラブを扱う以外、残る7章のほとんどはドイツを中心に巡るのがわかる。
  著者の言葉を借りれば、コーヒーに即した「新即物主義的ドイツ研究」であ
  る。植民地獲得競争に乗り遅れた後進国ドイツ、「土地なき民」であればこ
  そのコーヒー事情を追うことにより、近代市民社会の鬼子であるファシズム
  の形成と展開が、日本や現代世界をも視野に収めて論じられ、大変熱の
  こもった著書になっている。 「おそらく私的に過ぎる謎解きの楽しみに徹し
  た」と著者は言う。そうなのかもしれない。だからこそ本書の主脈について
  は著者の饒舌に楽しく身を任せて読んでいける。ただ主脈を外れた所では
  いくつか著者の記憶違いもあって、うっかり見過ごしかねない饒舌さだから
  要注意。》 (冨重与志生:評 「ファシズム論 幅広く考察」/『北海道新聞』
  本の森 2016年10月23日)
 ムーゼルマンとカーフィル (2)
臼井隆一郎氏の新著『アウシュヴィッツのコーヒー コーヒーが映す総力戦の世界』を、《コーヒーに即した「新即物主義的ドイツ研究」》であるとした冨重与志生氏の評には同ずる。だが、臼井氏の前著『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』(中央公論社:刊 1992年)が表の顔で、本書の主題が《クロノス的、ファシズム的コーヒー》としての裏の顔とする対比に、私は首肯できない。コーヒーが近代市民社会の「黒い血液」であり「ニグロの汗」であるとした『コーヒーが廻り世界史が廻る』からして、既に《クロノス的、ファシズム的コーヒー》を饒舌に描いているのであり、この度の本書でもその様子は変わらない。この臼井氏の2つの著作に通底する視座は、どこから来ているのだろうか?
 
 《コーヒーという商品の歴史をその最初から最後まで辿ってみようなどと考
  え始めた直接のきっかけは、一九七七年秋、ベルリンで開催された「ワ
  イマール共和国展」で見たブラジルのコーヒー豆を燃料に走る機関車の
  写真であった。》 (『コーヒーが廻り世界史が廻る』 あとがき)
 ムーゼルマンとカーフィル (3)
 《あれは確か、中学を卒業して高校の入学を待つ春休みのことであった。
  『罪と罰』や『戦争と平和』など、世界文学の定番とシャーロック・ホームズ
  などを読み進めるうちに、たまたま推理小説かと思ってロベート・メルルの
  『死はわが職業』を購入して読んだ。(略) 当時、コーヒーという飲み物を
  特に美味しいとも思わなかったわたしは、囚人たちを静かに落ち着いて
  シャワー室に入って行かせるこのコーヒーという飲み物に深い印象を受け
  た。(略)以来、コーヒーを飲む人を見ると決まって、ガス室に入って行くユ
  ダヤ人囚人を思い出すという奇妙なメカニズムがわたしのなかに条件反
  射として住み着いてしまった。》 (『アウシュヴィッツのコーヒー』 はじめに)
 ムーゼルマンとカーフィル (4)
廃棄されてアロマを放ちながら燃え上がる‘焦熱地獄’のコーヒーが『コーヒーが廻り世界史が廻る』となり、アロマを欠いても死への撒き餌となった別種の‘焦熱地獄’のコーヒーが『アウシュヴィッツのコーヒー』となった。コーヒーを視るに粧飾や正当化とは無縁である臼井隆一郎氏の著作は《大変熱のこもった》ものであるが、常にコーヒーの実相へ‘総力戦’で注がれているその視線は、深沈たるものだ。例えば、本書『アウシュヴィッツのコーヒー』では、《ザンジ》(p.26)が86ページ後に、《ブナ》(p.44)が185ページ後に、《メクレンブルク》(p.75)が126ページ後に、《カーフィル》(p.125)が142ページ後に、紙面の時空を超えた事象の連関として説かれる。特に‘kafir’(カーフィル)に関しては、《コーヒー文明はカーフィル化の歴史なのであろうか。それが、本書を書くに当たって、コーヒーという言葉の起源をカーフィルに求めて以来、拭いきれない疑念であった》(p.267)とまで語られると、「コーヒーの寓意性に臼井さん自身が染まってカーフィル化していないか?」と笑いたくもなるが、だからこそ《著者の饒舌に楽しく身を任せて読んでいける》のである。
 
 《わたし自身は、常日頃どちらかと言えば、「コーヒーさえ飲めれば、世界が
  どうなろうと構わぬ」と思っている人間である。》 (『アウシュヴィッツのコー
  ヒー』 はじめに)
 ムーゼルマンとカーフィル (5)
臼井隆一郎氏は前著『コーヒーが廻り世界史が廻る』でも同様の趣旨をフョードル・ドストエフスキー(『地下室の手記』)や清岡卓行(「千年も遅く」)の文言から引いていたが、この度の新著では著者自身の真情として吐露する。氏は前著の「終章 黒い洪水」を、ボブ・ディランの‘One More Cup of Coffee’(コーヒーもう一杯)の歌詞で締めていた。そして、新著では、アウシュヴィッツの「ムーゼルマン」(回教徒/囚人)のコーヒーを歴史の中に解いて、《コーヒーが映す総力戦の世界》が「カーフィル」(非イスラーム/奴隷)化を蔓延させていることを明かす。ムーゼルマンのコーヒーとコーヒーのカーフィル化を描いた『アウシュヴィッツのコーヒー』は、より苦くてよりコクのある「コーヒーもう一杯」である。私は、例えば「きっちり嗜好に合ったコーヒーさえあれば、そのコーヒーで世界を変えられる」などとは思わない。コーヒーに薄暗がりの世界があることから目を背けさせる美辞麗句に浸り、いつも変わらぬ奴隷根性で動くコーヒー市場の光景には飽き飽きした。「コーヒーさえ飲めれば、世界がどうなろうと構わぬ」、そんな思いに駆られて苦々しいコーヒーを口に含みながら『アウシュヴィッツのコーヒー コーヒーが映す総力戦の世界』を読むと、世界の味わいは一変するのだ。
 
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コメント

カーフィル
ボスケ URL [2016年11月16日 10時45分] [編集]

著者の真意を汲み取った読み応えのある記事です。カーフィルという言葉が種子〈真理)に土を掛けて隠すという意味を持つ
ことからむしろ真理探究の醒めた意欲を掻きたてる作用にコーヒーの類い希な効用がありそうなのですね。ありがとうございます。

to:ボスケさん
帰山人 URL [2016年11月16日 17時13分]

真意を汲み取れたのであれば、嬉嬉たるところです。著書に渇仰を感じ、著者へ敬畏を表します。こちらこそ、ありがとうございます。

No title
ボスケ URL [2016年11月17日 21時28分] [編集]

わたしはジジーです。ヴァーチャル空間の会話よりも直接会って話をすることに喜びを感じる年齢の人間です。どうですか。会えないですかね。コーヒーの淹れ方など教えてくれると嬉しいですね。

to2:ボスケさん
帰山人 URL [2016年11月18日 00時32分]

私は一回り半ほど後にいますが、もう若者ではありません(笑) が、胸を借りるならば会わねば始まりませんね。別途、連絡させていただきます。

No title
ボスケ URL [2016年11月19日 10時24分] [編集]

是非、逢いましょう。

to3:ボスケさん
帰山人 URL [2016年11月19日 13時31分]

はい、楽しみです。

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Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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