珈琲咄之趣

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2016 [2016年05月28日 01時00分]
船はコーヒーの謎を載せて海を行ったり来たりする。昔年に来日した使節団が絡むコーヒーの話だけでも、1860年のドイツ(プロイセン)、1863年のスイス、1890年のトルコ(オスマン)などがある。…そして、また船は海を渡り、コーヒーに関する新たな咄(はなし)の趣(おもむき)を運んでいた。
 珈琲咄之趣 (1)
 
 「幕末に飲み方記載 津山で発見、徳兵衛漂流記」
 《津山郷土博物館(津山市)で昨年見つかった幕末の鎖国期の海外漂流体験
  記に、コーヒーの飲み方についての記載があることが分かった。古文書を研
  究する専門家らの話によると、コーヒーの飲み方を記した現存史料としては、
  県内で最も古いものである可能性が高いという。 記載があったのは、備中
  (現在の県西部)出身の船乗り「徳兵衛」の19世紀半ばの体験が記された
  「漂流記」。1850年、徳兵衛が乗った廻船「栄力丸」が紀伊半島沖で嵐に
  遭遇。太平洋上を53日間漂流し、他の乗組員と共に米国商船に救助され
  た。51~52年に米サンフランシスコ、その後、中国に移送され、徳兵衛は
  54年に帰国を果たす。 漂流記は、徳兵衛が帰郷した後、津山城下の町民
  「野々口屋佐一郎」に語った内容が記される。津山郷土博物館に所蔵され
  ていたことが昨春、判明した。 漂流記には、ゴールドラッシュ直後の米・サン
  フランシスコの町の様子や、中国でペリーの浦賀初来航(53年)前に黒船
  「サスケハナ号」に乗せられたことなど、当時の世相がうかがえる記述が多
  数ある。この中で、既に米国で一般的に飲まれていたとみられるコーヒーに
  ついても触れられていた。 コーヒー豆を「日本のはゼ(ハゼ)の実」のようと
  表現。その豆を「豚の油ニテイリ臼にてひき粉にし」た後、「センし(煎じ)茶
  わんに入」れ、「牛の乳と砂糖を入てかきまセ(ぜ)て」飲む、と詳細に記され
  ている。 日本コーヒー文化学会(事務局・神戸市)によると、江戸期の複数
  の海外漂流記にコーヒーに関する記述が見られるといい、記述自体はそう
  珍しいものではない。漂流先が米国やメキシコ、ロシアなどと異なっていても、
  飲み方はどこも同じようなものという。 県内で歴史上の人物にまつわるコー
  ヒーの話としてよく知られているのが、「珈琲」の当て字を考案した、津山藩
  江戸屋敷の医者で蘭学者の宇田川榕庵だ。 徳兵衛の漂流体験よりもやや
  早い、19世紀前半、幕府が蘭学者らを集めて編集したオランダ語百科事典
  の和訳本「厚生新編」で、コーヒーの項目を担当。和訳文に加えて榕庵自身
  のコーヒー研究の成果を記述し、コーヒー豆を「味淡薄微甘油気多く」とした。
  しかし、榕庵は江戸出身で人生の大半を江戸で過ごしており、榕庵について
  詳しい津山洋学資料館は「榕庵が津山でコーヒーについて語ったことを示す
  史料は、今のところ見当たらない」としている。》 (小林一彦)
  (「毎日新聞」 岡山 2016年5月7日)
 珈琲咄之趣 (2)
 
この2015年に津山郷土博物館で発見された漂流記「徳兵衛咄之趣(はなしのおもむき)」は、コーヒーの史料としても実に興味深い。漂流中に南鳥島近海で商船オークランド号に救助されてサンフランシスコへ上陸した1851年3月4日から、香港へ移送されるために軍艦セントメリー号でサンフランシスコを離れた1852年3月13日まで、この376日間に徳兵衛ら栄力丸の乗組員は《ゴールドラッシュ直後の米・サンフランシスコ》で、どのようなコーヒーを見て飲んで味わったのだろうか? 
 
 《一八四九年に、カリフォルニアの金鉱の噂がナンタケットにも届き、前途洋々
  たる若者たちが十四隻の船で輝く金属を探しに出航したのだった。その中に
  はフォルジャー家の三兄弟、二十歳になるエドワードと十六歳のヘンリー、そ
  して十四歳のジェイムズもいた。(略)困難な旅の後、一八五〇年五月に、彼
  らは金鉱景気に沸くサンフランシスコの町へたどり着いた。ほんの二年前ま
  で、町の人口はわずか八百人にすぎなかった。それが今や百万長者を夢見
  る四万人の人々が、通りとは名ばかりのぬかるみ道を行き交っていた。町の
  主だった商売といえば、酒場や賭博場、それに売春宿といったところだった。
  兄たちは一攫千金を狙って金鉱掘りに向かったが、若いジムは、二十七歳
  のウィリアム・ボウヴィーが経営する「パイオニア香辛料ならびにコーヒー蒸
  気工場」で働き始めた。これはいくぶん願望に基づいて付けられた名前で、
  実際には蒸気で動く機械類などまだ一つもなかった。焙煎器は手回し式で、
  おそらく十四歳のフォルジャーがこの仕事を担当したのだろう。このコーヒー
  は、入れる頃には味が落ちていたに違いないが、それでもたちまち大当たり
  した。(略)一八五一年に、ボウヴィーは念願の蒸気機関を購入し、もっと広
  い場所に移った。(略)しばらくの間、ジム・フォルジャーはそこを引き払って
  「ヤンキー・ジム」と呼ばれる店を開き、鉱夫たちを相手に商売していた。そ
  の地域に住んでいたある鉱夫は、一八五二年の日記にこう記している。「ナ
  ンタケットから来たジム・フォルジャーという若者は大したやつだ。あの若さで、
  我々の大方より分別がある」。だが、間もなくフォルジャーは店じまいして、
  再びボウヴィーの下で今度は店員兼出張販売員として働き始めた。同じ鉱
  夫の一八五八年の日記には、フォルジャーは「フリスコ〔サンフランシスコ〕で
  また自分で商売を始めて、カリフォルニア中の金鉱にコーヒーを売っている」
  という記述が見られる。》 (マーク・ペンダーグラスト 『コーヒーの歴史』 樋口
  幸子:訳/河出書房新社:刊 2002年)
 
 《サンフランシスコへのコーヒー輸入の始まりは、カリフォルニアにおける金鉱
  の発見、ならびにサンフランシスコの町の始まりと時を同じくする。初めの頃、
  輸入されたコーヒーは生豆のままホテルやレストランや一般家庭に売られ、
  それぞれ自分で焙煎した。商売としての焙煎業者が生まれるのは一八五〇
  年代になってからである。(略)一八五〇~六〇年には、サンフランシスコに
  はジャワ産コーヒーが大量に輸入された。香港を経由して帆船で運ばれた。
  当時、ジャワ・コーヒーは人気がきわめて高かったからである。(略)初めの
  頃は、コーヒーはすべて精製済みのものがサンフランシスコに陸揚げされた。
  船から降ろされたコーヒーは倉庫、個々の輸入業者の貯蔵所、あるいはじ
  かに競売業者に運ばれた。一八五〇年にはコーヒーは多くが競売業者に
  よって売却されており、当時は三〇業者あった。》 (ウィリアム・H・ユーカー
  ズ 『オール・アバウト・コーヒー コーヒー文化の集大成』 UCC上島珈琲株
  式会社:監訳/TBSブリタニカ:刊 1995年/原著改訂1935年版)
 
 珈琲咄之趣 (3)
徳兵衛ら栄力丸の漂流者は、サンフランシスコに滞在中のほとんどを港内に停泊していた船(セントメリー号、後に軍艦ポーク号)で寝泊まりしていた。彼らは、港に陸揚げされるジャワ産や中南米産のコーヒーの生豆を見ただろうか? 彼らは、後に全米4大ブランドの一つとなる「フォルジャーズ」コーヒーの嚆矢である「パイオニア・スティーム・コーヒー・アンド・スパイス・ミルズ」のコーヒーを飲んだであろうか? いずれにしろ、サンフランシスコにおいてコーヒー産業が立ち上がったばかりの時期に、徳兵衛らはそのコーヒーに接したのである。
 
【余談】
徳兵衛ら栄力丸の漂流者が滞在したサンフランシスコで、同時期にフォルジャーズコーヒーの創始者ジェイムズ・フォルジャーも商売を始めていた。そのフォルジャー家はアメリカ東海岸のナンタケット島に古くから住む捕鯨一族だったのであり、《メルヴィルは『白鯨』の中で、「連綿たる銛師の家系フォルジャー家」に言及している》(マーク・ペンダーグラスト 『コーヒーの歴史』)。その小説『白鯨』をハーマン・メルヴィルが発表したのも、同時期の1851年である。しかし、発表当時の『白鯨』は全く評価されず、メルヴィルは職を求めて、日本遠征の指令を受けたマシュー・ペリーの東インド艦隊への同行を願い出たが認められなかった。架空の話として、メルヴィルがペリー艦隊に同行していたとしたならば、後に日本遠征の艦隊旗艦となるサスケハナ号へ移されていた徳兵衛ら栄力丸の漂流者たちと香港で直に会えたかもしれない(実際、ペリー艦隊が1953年に浦賀に来航した時、その旗艦サスケハナ号には漂流者の一人である仙太郎が乗っていた)。スターバックスコーヒーの社名が『白鯨』に登場する一等航海士の名に由来する後事のことも加えて考えれば、徳兵衛ら漂流者とフォルジャーとメルヴィルとペリー艦隊とスターバックスと…そこには、船とコーヒーを繋ぐ奇妙な時間と空間の連鎖が発見できるのである。
 
 珈琲咄之趣 (4)
ところで、前掲の報道記事は私には何とも解せない。《日本コーヒー文化学会(事務局・神戸市)によると、江戸期の複数の海外漂流記にコーヒーに関する記述が見られるといい、記述自体はそう珍しいものではない。漂流先が米国やメキシコ、ロシアなどと異なっていても、飲み方はどこも同じようなものという》言である。漂流記「徳兵衛咄之趣」にある焙煎過程に関して、《豚の油ニテイリ》とした記述自体は極めて珍しいものであり、同様の焙煎手法は《漂流先が米国やメキシコ、ロシアなどと異なって》いる他の《江戸期の複数の海外漂流記》には見られない。それどころか、ラードによるオイルローストコーヒーは、全コーヒー史を通じても《同じようなもの》が無いだろう。この新たに発見された漂流記「徳兵衛咄之趣」のコーヒーに関する記述が、真実であるのか、あるいは徳兵衛の見間違いや勘違いであるのか、それはわからない。この史料の価値を軽んじて評した「日本コーヒー文化学会」が海に流されて沈むべき愚盲であること、それはわかった。こうして、また船は海を渡り、コーヒーに関する新たな咄の趣を運んでいたのである。
 
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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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