飴と無知

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2016 [2016年05月04日 01時00分]
コーヒーにアメとムチはつきものだ。コーヒーで飴といえば、篠崎製菓(現在はライオン菓子)の「♪ ラララ ライオネスコーヒーキャンディー」(天地総子:歌/宮崎尚志:詞・曲)だ。日本が第一次国際コーヒー協定(ICA)に初参加した1964年、その年に発売された「ライオネスコーヒーキャンディー」は、古き良き香味の飴だ。
 
 飴と無知 (1)
だが最近では、《UHA味覚糖 「猿田彦珈琲 FORCE CANDY」シリーズを新発売。コーヒーそのものの香りと味わいを極限まで追求した、コーヒー好きの方も納得の一品》(UHA味覚糖株式会社 プレスリリース 2016年5月2日)などという腑抜けた「サードウェーブコーヒー飴」(?)が発売される時代になってしまった。猿田彦珈琲の大塚朝之氏曰く、《“私たちが考える、おいしい” おいしいは世界の誰をも幸せにする力があると考えています。それを「コーヒーの飴で表現することができるのか?」という不安はずっとありましたが、私たちなりの答えが小さな袋に詰め込んであります》…そんな「おいしい」は要らない。《どんな渾身の一杯でも、飲んだ全員が「おいしい」と言うとは限りません。(略)消費者のさまざまな嗜好を尊重することは、コーヒーの多様な可能性を守ることにもつながるでしょう》という『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』(旦部幸博:著/講談社:刊 2016年)を読んでいないのか? 「猿田彦珈琲 FORCE CANDY」には飴に加えて‘無恥’が憑きものだ。
 
ところで、(これは飴ではなくて、コーヒー豆にチョコレートを被覆したものに関してだが)UHA味覚糖が出願して2010年8月12日に公開された「酵素処理したコーヒー豆を被覆した食品」(特開2010-172327)という発明には、先行技術の文献として『コーヒーの科学』が紹介されている。但し、この『コーヒーの科学』は、中林敏郎氏が監修して財団法人科学技術教育協会より1988年に刊行されたものだ。この中林敏郎監修版の『コーヒーの科学』は、伊藤博氏が著した『珈琲を科学する』(時事通信社:刊 1997年)にも登場している。
 飴と無知 (2)
 《焙煎中にクロロゲン酸が減少するにつれて褐色度が増すことから、まずショ糖
  が熱分解されてカルボニル化し、それにクロロゲン酸や他の構成物質が熱反
  応し、それらの反応から生じたさまざまの酸化重合度の異なる物質の混合に
  よって褐色色素が形成されるであろう。(『コーヒーの科学』 財団法人科学技
  術教育協会)》 (伊藤博 『珈琲を科学する』 第3章 コーヒー豆──調べ方と扱
  い方 pp.137-138)
 
 《ところが、国内のコーヒーに関する書籍をいろいろ探しても科学的な情報に踏
  み込んだものは少なく、答えはもちろん、手がかりさえもなかなか見つかりま
  せん。(略)…本書はそんな私が二十余年前に読みたくてたまらなかった「コー
  ヒーの科学」の本です。》 (旦部幸博 『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生
  まれるのか』 はじめに pp.4-5)
 
コーヒーにアメとムチは付きものだ。しかし、旦部幸博氏がコーヒー研究をはじめた頃に与えられたものは、コーヒーの飴ではなくて先人たちのコーヒーに対する‘無知’だった。それでも、中林敏郎氏や伊藤博氏の研究はまだマシなものではあったろうが、結局は《二十余年前に読みたくてたまらなかった「コーヒーの科学」の本》を自ら著すしかなかったのである(伊藤博氏ですら述べきれなかった焙煎による色調の化学変化に関して、旦部氏は『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』の「複雑怪奇な焙焦反応」の項 pp.192-194 で詳説している)。
 
コーヒーを科学する、その「コーヒーの科学」にも、いやコーヒー研究の全ての領域にも、いまだ解明されていない‘無知’が許多にある。しかし、私も私なりにコーヒーの世界を解き明かしていこう。「ライオネスコーヒーキャンディー」でも味わいながら…コーヒーにアメとムチはつきものだ。
 
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コメント

無恥と無視
珈琲我一部 URL [2016年05月04日 11時22分]

コーヒーを飲料から食品へと考えていた頃を思い出しました。知ってしまった事で、知らなければ期待値でワクワクしていた事象が晒されてしまった様な?欲求満タンな性格な故、情報は絶えず欲しておりますが、、、。(コーヒーの科学)読み返す毎に過去の書籍や論文等フィードバックし、改めてこの書籍の価値が解ります。自らの体験、経験がベースとなり理論や科学的証明が付随すれば、智慧となり他者にも語る事が出来ますが、一つでも要素要因が欠乏していたなら、無恥であり、あまりにもデジタルな、これが定説です!と言わんばかりの説明も無視することが賢明か?とも考えています。それは、個として、この飲料を形而上的視野で語ることも許されるものとして捉えているから。

to:珈琲我一部さん
帰山人 URL [2016年05月04日 12時34分]

つまり、一寸の無視にも五分の魂、ということでしょうか? 抒情で語ることに許しを請うのは我執に囚われているゆえだろう、と自戒もします。必要は科学の母ですが、必要「以上」を形而上とも抒情とも呼ぶのですから。

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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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