まちづくらない

ジャンル:ライフ / テーマ:ひとりごと / カテゴリ:あ・論廻 [2012年09月16日 23時30分]
2012年9月14日、日本建築学会大会の閉会式直前に催された記念シンポジウム「名古屋・愛知・東海の防災とまちづくり」を、名古屋大学の豊田講堂において聴講。
 
 まちづくらない (1) まちづくらない (2) まちづくらない (3)
 《本シンポジウムでは、東日本大震災後の住まいの復興と土地利用の再編
  を含む都市の復興の考え方を学んだ上で、震災の発生を見据えた名古屋・
  愛知の都市計画・まちづくりのこれからについて考えたいと思います。》
  (趣旨説明)
 《大災害で劇的に変化する環境下で、生活の継続性や持続性をいかに保証
  するのかという観点は、復興プロセス全体を通じて極めて重要である。》
  (大月敏雄「住宅と居住から復興を考える、被災地から」)
 《東日本大震災は、「変局点を越えた時代」に起きた「超広域」、「壊滅的」災
  害である。シュリンクする社会での大規模災害は世界で初めての経験で
  ある。》 (加藤孝明「土地利用と都市復興を考える、被災地から」)
 《いくら声高に「減災まちづくり」を唱えても、住民参加がなければ効果に期
  待は持てない。》 (栗田暢之「被災地でのボランティア活動を通して考える
  減災まちづくり」)
 《名古屋市は、様々なリスクに対応しながら形成された都市部を有する一方、
  近代産業都市へと飛躍する中で、災害危険度の高い地域にまで市街地を
  拡大してきた。》 (村山顕人「名古屋の都市形成史と震災を見据えた今後
  の都市計画・まちづくり」)
 《近代になり、技術で自然を抑え込もうとし、急激な都市拡大は歴史の中で
  培われた智恵を忘失させた。》 (星野広美「行政から見た名古屋・愛知の
  過去と将来」)
 まちづくらない (4) まちづくらない (5) まちづくらない (6)
  
◎シンポジウムを聴きながら…猥雑メモ
2011年3月11日を境に「世界は変わった」などと巷間でいわれている。例えば、小説『日本沈没』(小松左京:著/光文社:刊/1973年)が現実に生じたかのよう、それに匹敵する衝撃を(少なくとも)日本の社会に与えた、といいたいのであろうか? とすれば、仮に「日本沈没」後、その約1年半後の日本建築学会大会では、このシンポジウムのような《都市計画・まちづくりのこれから》を考えるのであろうか? これが「未曾有の災害」と呼ばれる国家的災厄に対応するべく、専門的知見を有する者たちが唱える論題なのか? 何と空疎な建築学会であろうか。昔懐かしい昭和の臭いがする「コミュニティ」をイメージさせ、《住民参加》を叫ぶ。だが、その臭いが偏在し残る場所は、ハザードマップで最も危険とされる未整備地区である。「コミュニティ」に無関心な現代の人人に「やりたくないを、どうやらせるのか?」などと論じている。「津波が届く地域に棲んでいた者のように、津波から逃げなかった者のように、やらない者は死に、やらない国は滅ぶ」、何故そう明言しないのか。再び災害で脅かされるであろう地域には復興の「まちづくり」をさせない冷酷を、いずれ災厄を受けるであろう「コミュニティ」には《生活の継続性や持続性》を近い将来に打ち切らせる無残を、建築と都市計画の専門家であれば、真っ先にそのロードマップを考えるべきではないのか? パネリストたちの話には、違和感を覚える。建て直す建築と作り直す都市の「まちづくり」、それは未曾有でなくともやってきたことだ。今新たに必要な建築論・都市計画論こそ、「まちづくらない」ではないのか? 「まちづくるな」といわない連中に失望を感ずる。
 
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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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