ドリップの奇怪3 余考篇

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2012 [2012年09月08日 23時00分]
ドリップコーヒーは「不思議」で「ややこしい」ことが続く。日本における「ドリップ」、それに対する強固な傾倒と執着は、どこから来て、どこへ行くのであろうか?奇怪である。
 
 
◎ドリップ至上主義の底流
 
19世紀以降のヨーロッパ諸国や20世紀以降のアメリカ合衆国では、コーヒーの抽出や焙煎における様々な器具や手法が生み出された。提唱と論争と実践と改変が重ねられてきたのである。他方、コーヒーの生産と流通においては、災害や病虫害、戦争や政争、それらに起因する価格変動などにより、生豆の量や品質が必ずしも思い通りにならない浮沈が繰り返されていた。この成果と難渋が混在する歪んだ情勢は、そのまま明治時代以降に日本で拡大するコーヒー消費の歩みとなっていた。
 
短くとも半世紀余の前には日本独自の通念が定まり始まった「ドリップ」、それ以降、日本のコーヒー界には「ドリップ至上主義」とでもいうべき念慮が拡がっていった。とある抽出方法を至上とする固執、うがった見方をすれば大和魂や侘(わび)寂(さび)に通ずるような想念、その底流にあるものは、気候か、気質か、それとも気概か?
 
 《コーヒーというものの目的も価値も、実際は飲料にあるのであった。なぜそん
  なことを何度も繰返すかといえば、飲料よりも材料の豆の方に、重点が置か
  れがちだからであった。むろん豆がなければ、飲料は成立たないけれど、豆
  は序であって、飲料は結果だという事実によって、しかもその事実は、無形
  から有形が生ずるという、人間の手の参加によって、おろそかにすることは
  できないのである。(略)豆の価格が高くても安くても、ある豆の炒りと量が一
  定なら、その飲料の価値は、手の巧拙を除き、変りはないのである。》
  (『珈琲の道』井上誠:著/柴田書店:刊/1979年 pp.226-227)
 
この井上氏の言葉を借りて、日本の「ドリップ至上主義」成立の前史を暴いてみる。《人間の手の参加によって》取捨選択や工夫の余地がある範疇は抽出と焙煎に関してのみであり、《材料の豆の方》には《手の巧拙》を届かせようにも手が届かない、という実態があった。これを、井上誠氏らいわば昭和期のコーヒー人たちは、《豆は序であって、飲料は結果だという事実》と、あたかも必然の論理かのように恐るべき認識のすり替えをしてしまったのである。実際には、連続的に市場で普及させえる抽出器具の材は、ほとんど眼前にある物がネル布のみだったのではないだろうか。ドリップ至上主義の底流にあるもの、そこには日本独自の風土も、風潮も、風合もあったのかもしれない、だが主体は、抽出方法でしか選択と工夫の余地がない、という制約と定限の情勢である。これを「至上」に偏向させてしまう気概自体が、奇怪。
 
 
◎攪拌ドリップが象徴するもの
 
先般のコーヒーサロンでも紹介された、‘INTELLIGENTSIA’(インテリジェンシア)の攪拌ドリップとでもいうべき抽出手法、この映像を日本における「ドリップ至上主義」の形成と固着に一端を担ったといえる井上誠氏(故人)が仮に観たならば何と言う?
 
 《ドリップの順当な湯の注ぎ方は…(略)…最初に注ぐ湯の量が多すぎると、刺
  激が強くなりすぎるばかりでなく、粉の中に素通りの抜け途をつくり、湯には
  まったく触れない部分が残ったりする。そのため、でき上がりが不完全なもの
  になるから、注意しなければならないが、それを防ぐため途中でスプーンなど
  で掻きまわしたりしては、せっかく濾過しはじめている浸出液の状態を崩し、
  純分と不純分が交じり合って、結果的に良好液とはならない。》
  (『コーヒー入門』井上誠:著/社会思想社:刊/1962年 pp.24-25)
 
攪拌ドリップに対して、私自身も「‘Pour-Over’(プアオーバー)の意を汲めば衝撃の笑劇」と揶揄したが、ある意味では前述の「ドリップ至上主義の底流」論の逆を行く、新たな時代の流れを真っ当に象徴している抽出方法ともいえるのかもしれない。
 
 《川島氏がこだわるのは、“コーヒー豆本来の味”。コーヒー豆そのものが本当
  に美味しいのなら、焙煎のこだわりや難解な抽出方法もいらない。「カップに
  注がれた一杯、その美味しさの8割は、コーヒー豆の品質とその保存方法で
  決まります。焙煎や抽出が影響するのは2割程度でしょう」と川島氏は言う。》
  (「コーヒーのアロマが、今、はじめてわかる 「Grand Cru Café」が伝える“本
   当の味”」/Web Magazine OPENERS/2009年5月4日付記事)
 
川島良彰氏が攪拌ドリップを支持しているわけではないし(先般のコーヒーサロンでは、むしろ否定的な見解を述べていた)、川島氏が狙うところの高品質コーヒーは、いわゆる巷のスペシャルティコーヒーとも異なるところがある。しかしながら、「美味しさの8割は、コーヒー豆の品質とその保存方法で決まります」といえるだけの情勢変化は、アメリカ合衆国を中心に進んできた近時の「スペシャルティコーヒー」隆盛と無縁ではないのである。すなわち、コーヒーの生産段階や流通段階に手が届く(と、事実がどうであれ認識している)コーヒー消費側では、相対的に「とある抽出方法を至上とする固執」は薄れていく。そうした意味において、実際のコーヒー抽出液の良し悪しに関わらず、ドリップ至上主義の底流をなしていた制約は過去のものになった? 攪拌ドリップは、日本における至上主義「ドリップ」に対峙するものではない、それは、ドリップ至上主義の底流が崩れ行く流れを象徴する徒花(あだばな)であろう、奇怪。 
  
 
日本における「ドリップ」コーヒー、その成立と普及という過去の実体、そして、それが突き崩されていくであろう新たな流れ、いずれもが香味ではなく「想念」による、奇怪
 
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コメント

No title
y_tambe URL [2012年09月09日 13時06分] [編集]

んー、ありていにいえば。
(1) 日本では"percolation(透過)/filtration(濾過)"は独自に進化したが、欧米ではほとんど進化しなかった。
(2) そもそも"drip"は、透過/濾過によって得られるコーヒー液の様子を指す言葉だったが、これが日本で進化する際に「透過/濾過抽出」を指す日本語「ドリップ」に置き換わった。

いちばんすっきりとした解決は、それぞれが別物だと認めて、別々の名前を付けることだろうと思ってます。そして、それぞれを「別物」として、きちんと整理できてるのは、日本式のドリップと欧米式のdripの両方の違いを利益相反抜きできちんと説明できる人だけで、おそらくそれは今は、日本にごく少数いる程度かと。

ただし、細かい話をしたところで、すべて「ドリップ」としか呼ばずに片付けてしまう日本のコーヒー人よりも、まだ未整理とはいえ"drip/pour-over"の二語を持っている(峻別してるとは言えないにせよ)アメリカのコーヒー人の方が、有利な立ち位置にいるようにも思いますね。

to:y_tambeさん
帰山人 URL [2012年09月09日 20時00分]

うん、そういう意味では、(2)に関する置き換わりのごく一端を解くのが前記事「解題篇」で、(1)に関する独自性の理由を解こうとしたのが本記事「余考篇」であります。欧米に見られない日本の独自進化については、「なぜ」「どうして」を誰も語らないから(苦笑)。ま、あくまで一端でありますがネ。
 
仮に、日本へのコーヒーの到来が過去には無くて今からだとしたら…「コーヒーはスティーピングに始まり、スティーピングに終わる」とか言って「スティーピング至上主義」が形成されるのかもしれない…などと意地悪な想像をしてしまうのですよ。有利/不利は言いきれないけれども、そういう日本人の「癖」から「ドリップ」が生み出され崇め奉られているコト、そこは間違いないでしょうナ(笑)。

No title
じょにぃ URL [2012年09月10日 14時47分] [編集]

帰山人さん。

今回のドリップの話
頭の悪いじょにぃにとって
すんなり頭に入って来ません(^^;)
まだまだです。


ちょっと話がそれるかもしれませんが
今回の話を読んでいて
おぼっちゃまくん
と言う漫画で
ご飯を一粒づつ窯で炊く場面があることを
思い出しました。

珈琲もそれくらいの事をする人が出てくれば
誰も文句言わなくなりそうですけど

おぼっちゃまくん同様

『んなアホな』と言われておしまいな気がしますね。



(あと、ここからは私感が過ぎるのでスルーしてもいいです。
どうしてもただ批判したいだけのような文になってしまうので)

川島氏の
“コーヒー豆本来の味”。コーヒー豆そのものが本当に
美味しいのなら、焙煎のこだわりや難解な抽出方法もいらない。

Mi Cafetoコーヒーセラー&ラウンジの店員さんは
おそらく
バイトのお姉さんで
おそらく
チーフのお姉さんも
これで抽出してますと
カリタのウェーブドリッパーを持ってきて
熱心にマニュアル通りような説明をしていましたけど
いざ、銘柄や抽出・生豆の保存など
一歩突っ込んだ話になると口を閉ざしてしまいました。

コーヒー豆そのものが本当に
美味しいのなら、
焙煎のこだわりや難解な抽出方法もいらない。

コーヒー豆そのものが本当に
美味しいのなら、
店員に焙煎のこだわりや難解な抽出方法等の
珈琲の技術はいらない。

と、じょにぃは誤解釈してしまいそうです。

川島氏の活動は素晴らしいと思いますが
どうしても手を広げすぎると
隅々まで目が行き届かない
現実を目にしたような気がしました。

珈琲はとてもクリアで上品でおいしかったですよ。

これは私の勝手な感想ですが
お店が観光名所に成り下がっていたような
『この人たちわかって飲んでんのかな?』
『ただ高いから飲みに来てるんじゃないのかな?』
と思うようなお客さん方ばかりにじょにぃは思えました。

to:じょにぃさん
帰山人 URL [2012年09月11日 00時22分]

今回の「ドリップ」話を別の言い方にすると…
「ドリップ」を日本独自のものとした開拓者たちは、思い入れてスッゴク頑張った。しかし、スバラシイという根拠は、その思い入れによるものだった。そして、後に続いた大多数のコーヒー屋たちは、開拓者たちのウケウリで「ドリップ」を連呼しているだけだ。
…という簡単な話であります^^;

Mi Cafeto(の元麻布カフェ)に関しては…
そもそも喫茶主体のコーヒー屋として狙った空間じゃなかった、だっていわゆる「マスター」がいないんだから、それを一般に開放した時点で‘観光名所’(?)になることは必至だったワケで、内容からして喫茶コーヒー屋のモデルにするべき業態じゃあない、もちろんホスピタリティに関してもネ、だから成り上がりも成り下がりも無いものだ。
…と私は捉えています。

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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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