ある種の冷たいコーヒーの飲み方について

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2012年08月15日 23時00分]
僕の琲後の小さな風景
  ──或いは、ある種の冷たいコーヒーの飲み方について
 
 その午後にはアート・ペッパーのサックスが流れていた。マスターの奥さん
が冷たいコーヒーの入ったグラスを僕の前に置いた。やや厚地の、立ち呑
み酒に使う、小さな受け皿がセットになったガラスの器で、テーブルに置く時
にカチンという気持の良い音がした。ビーカーに落ちた水出しコーヒーの滴
のように、その音は僕の耳にずっと残っていた。僕は大学生で、外は晴れ
た夏空だった。
 それは隣町で、店の外にはいつもコーヒーを焼く匂いがした。一日何度も
マスターがコーヒーを炒り、僕は何度もそれを覗きこんでパチパチと爆ぜる
豆の音を聞きながら焙煎室を飽きずに眺めたものだった。たとえそれが雨
の日でも、僕はぐっしょりと濡れながらバイクを走らせて隣町まで出かけて
いた。カウンター席の他にはテーブルが四つほどの小さなコーヒー店があっ
て、天井に取りつけられたスピーカーからジャズが流れていた。目を瞑ると、
閉じこもった気持ちが薄暗い店内に散らばり広がるようだった。そこにはい
つもコーヒーの優しい香りがあり、常連たちの親密な会話があった。
 僕の本当に気に入っていたのは、コーヒーの香味そのものよりはコーヒー
の風景だったのかもしれない、と今では思う。僕の前にはあの青年期特有
のギラギラと光る鏡があり、そこにはコーヒーを琲(つらぬ)き究める僕の姿
がぼんやりと映し出されていた。そして僕の琲(はい)後には四角く切り取ら
れた小さな風景があった。水出しの冷たいコーヒーは闇のように黒く、ジャ
ズの響きのように厳しかった。僕がその小さな世界を飲み干す度、風景が
僕を反覆した。
 それはまた、小さな街で愛好者がコーヒー狂になっていくための密かな記
念写真でもある。ほら、手廻し焙煎機のハンドルを軽く右手に持って、肘を
引いて、自然に廻して………いいですよ、パチパチ。
 時には人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題、とリチャー
ド・ブローティガンがどこかに書いていた、と村上春樹がどこかに書いてい
たが、時には人生はグラス一杯のコーヒーがもたらす冷たさの問題、であ
る。冷たいコーヒーを扱う店の中でも、僕はあの店がいちばん気に入って
いる。
 
 
  ある種の冷コーヒー (1)   ある種の冷コーヒー (2)
 〔参考文献〕
  村上春樹:著「僕の背後の小さな風景」
  (別冊暮しの設計7号『珈琲・紅茶の研究PARTⅡ』/中央公論社/1981年)
 
コメント (6) /  トラックバック (0)

コメント

No title
シマナカ URL [2012年08月17日 09時58分]

詩人ですね。ボクはむかしアート・ペッパーに聴き惚れ、高価なアルトサックスを衝動買いしてしまいました。いまでは年に1回磨くだけ。実に散文的です。人生はグラス一杯の冷珈に如かず、か。

No title
ナカガワ URL [2012年08月17日 10時47分]

忉利天では帝釈天ばかり増えております。阿修羅を続けてくださいまし。

to:シマナカさん
帰山人 URL [2012年08月17日 20時36分]

相手の知能指数に合わせて会話ができる男の話…「あなたの知能指数は?」200と答えた相手と原子物理学の論議を始めた。100の相手には政治とエコロジーの話題で。「えーと35くれえかなあ」と言った相手には…「そいで、どういうリードを使っているわけ?」
ビル・クロウの『ジャズ・アネクドーツ』にこんなジョークがありましたネ。実に散文的であります。

to:ナカガワさん
帰山人 URL [2012年08月17日 20時44分]

うーむ、確かにインドラよりはアスラを目指したい…しかし実際は、三悪趣にすら属せないので「外道」でいかせていただきます。

No title
t.matsuura URL [2012年08月21日 14時01分]

「ある種のコーヒーの飲み方について」は
『象工場のハッピーエンド』(新潮文庫)で20年程前に読みました。
別冊暮しの設計7号「僕の背後の小さな風景」だと1981年なので、
さらに10年も前に読まれていたんですね。
このエッセイは、1995年にも『珈琲をおいしく飲もう』
(中公文庫ビジュアル版/中央公論社)で掲載されていて
出版社的に、おいしいエッセイだったようですね。

to:t.matsuuraさん
帰山人 URL [2012年08月21日 23時04分]

そう、「俺は村上春樹は読んでねえ!」って言っていたけれど、30年以上前に読んでいたワケだ、嘘つき珈琲狂をなめんなよ、って感じ?(笑)
中公文庫ビジュアル版は小さいだけじゃなくてイラストがページをまたいでいるので残念な再収でした。しかも『象工場のハッピーエンド』へ改題収載してから12年もたって原題で再収って…ホント皆さん商魂たくましいというか下品というべきか…(笑)

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Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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