KizunaよりもTsunamiを

ジャンル:ライフ / テーマ:ひとりごと / カテゴリ:あ・論廻 [2012年03月05日 14時46分]
「絆」(きずな)の語を見ると反射的に「いいね!」ボタンを押す日本人は、国賊である。 《絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか》(斎藤環「時代の風」:毎日新聞2011年12月11日)
 
Webサイト『kizuna311』のコンセプトには首肯するが、《“Tsunami”よりも“Kizuna”という日本語を世界の共通言語にしたい》などと「臭いものに蓋」する訴えを諒としない。後世に“Kizuna”という語が残らなくても良いが、脅威を知らざれば惨事は肥大する、“Tsunami”の語を残すべきは昭然たり。
 
東日本大震災は「未曾有の国難」だという…「人命は地球より重い」のか存疑あるが、超法規的措置を発動しない政府官人は瓦礫にも値しない。震災1周年を迎えるに、改めて誓うべきは機能しない国家権力の排除粉砕であろう。《祖国か、死か!》(チェ・ゲバラ) 改めて奮うべきはテロルであり革命である。
 
日本には「税と社会保障の一体改革」の茶番劇よりも「贅と社会本能の一掃革命」が優先されるべき。 《人は、無力だから群れるのではない。あべこべに、群れるから無力なのだ》(竹中労) フクイチ原発人災で万死に値するのは誰か? 安穏ならざる全ての日本人よ、「」ではなく「闘争」の津波を冀求せよ!
 
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コメント

No title
t.matsuura URL [2012年03月16日 00時07分]

「絆」という言葉の多義性は
河合隼雄さんの著述で幾度か触れられていて
印象に残っていましたが、
それ以前に、言葉を一義的に押し出すと
言葉の概念が消散していくようで
心苦しさを感じます。
この暴挙こそ、言葉へのテロルではないか..
なんて考えたりしてました。

to:t.matsuuraさん
帰山人 URL [2012年03月16日 01時02分]

「一義/多義」というよりも、「事前/事後」という「時」の分別、「主観/客観」という「場」の分別が消え失せているように私には感じられる。事後に客観で気付くものだけが真の「絆」であるから、事前に「絆を大切に」は概念が安いし、「絆を感じました」という主観は「絆」自体では無い、そういう分別ができない貧しい日本人に落胆しています。
「頑張れ」って言うな、という論にも違和感がある。「アナタは頑張らなくてよい」けれど「ワタシは頑張れと言う」、は両立するハズなのに…主体と客体をゴチャマゼにした「がんばろう」の連呼にも日本人の薄気味悪い無分別がみえるのですよ、私には。

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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
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