余聞な解説

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:日本珈琲狂会 [2011年12月20日 05時00分]
今般、日本珈琲狂会の主宰・鳥目散帰山人があるコーヒー本に解説文を寄稿したので、その本の解説文に余聞な解説文をさらに加えてみる。
  コーヒーの鬼がゆく中公文庫版
 
 
『コーヒーの鬼がゆく 吉祥寺「もか」遺聞』 解説 異聞
                                                 鳥目散 帰山人
 
 長机に並んで座った3人は、大詰めにもかかわらず、和やかな中にもどこか高踏した気配を発していた。飄逸な雰囲気を醸し出しつつも互いの隔たりをはかる老獪な雲上人同士といった雰囲気、彼らの話を聴きにきたはずの聴衆も遠慮がちに質疑を絞り出しているだけだ。その見えない隔壁を破るかのようにスッと手を挙げた私は、当の御三家の間で「違い」が浮き彫りにされることを意図して、自らでは答えに予想がついている問いをあえて放った。「お三方の各々に、コフィア・カネフォーラいわゆるロブスタ種についての見解をお訊ねしたい」と臆面も無く問う私。「扱ったことがないから分からない」と言い抜く関口一郎、「精製が良くなればもっと使える」と条件を付ける田口護、「『もか』では隠し味としてロブスタを使っている。他のアラビカの嫌なところを消してくれるから」と言明する標交紀……2005年7月16日、なぜだか日本コーヒー文化学会がセミナーの主催と名乗る、嶋中労の著作『コーヒーに憑かれた男たち』の出版記念集会である「日本の自家焙煎店を切り開いた男たち」、その会場での一幕。私が標交紀を目の当たりにする、それが最後になるとは思っていなかった……。
 
 本書『コーヒーの鬼がゆく』が描いた稀代のコーヒー自家焙煎店の主である標さん、彼の創り出すコーヒーは「独り静かに」味わうべき、私が『もか』を初めて訪ねた時から抱き続けた印象である。標さんが「鬼」となって追究した“ダイヤモンドのコーヒー”は、《ひとり静かに頭を空にして味わうのが一番だと、標さんはいう。何も考えないひととき、ただコーヒーがある──それはまた自分だけの贅沢な時間であろう》(文:片向紀久子/別冊 「暮しの設計」19号 『新版 珈琲・紅茶の研究』/中央公論社/1992年)、と。もっとも『もか』を訪ねはじめた頃の私には、「独り静かに」ではあっても「頭を空にして」味わう余裕などなかった。『もか』のコーヒーの澄みきった深紅色、それでいて香味が薄いわけではなく、むしろほろ苦さが甘くも感じられるほどに濃い味わい……それが焙煎に由来するものか、抽出の技法によるものか、店奥の焙煎室へ首を伸ばしたり、ネルドリップする様を穴が開くほど睨んだり、頭は空どころか熱がでるほどフル回転。それでも、見えないピアノ線が張り巡らされていてウッカリすれば頭が切り落とされるのではないかと思えるような(特に竜子さん時代の)『ランブル』で味わう孤独な緊張と異なり、あるいは無香の笑気ガスが噴き流されていてウッカリすれば意識が飛ばされるのではないかと思えるような(昔から今も変わらない)『バッハ』で味わう共鳴の弛緩とも違って、私にとっての『もか』はコーヒーに緊張する思考自体が憩いの場であった。時に孤独を楽しんだり嘆いたりして、或いは独善に酔ったり遊んだりして、店主標さんも私のような客もコーヒーを「独り静かに」味わう場所、それが吉祥寺『もか』であった。
 
 さて、後年の『もか』は休業を宣言し、それをまたほどなく返上するも営業を縮小していった。この経緯は本書の中でも語られているから省くとして、本書の著者・嶋中さんは2度目の休業宣言を出す前の標さんを取材して、(本名・小林充名義で)こう記した、《…思い直して頑張るも、ついに限界。近く二度目の休業宣言を出し、35年間続いた「もか」の歴史を閉じる。「もうすぐ還暦を迎えるし、世紀も変わる。ちょっと淋しいけど、ここら辺りが潮時ではないのかと……」と標さん。手が震えてまでやりたくはない。そんな一片の美意識が働くのかもしれない…》(文:小林充/柴田書店MOOK 『コーヒー&紅茶』第1号/柴田書店/1999年)、と。ではそろそろと、描かれた方(標さん)に描いた方(嶋中さん)を加えて話を移さねばなるまい。著者・嶋中さんが本書『コーヒーの鬼がゆく』において浮き彫りにした対象は「コーヒー」ではなくて、人間の「孤独」と「我執」であろう。これは本書に限らず本名・小林充の名で綴っている『ぼくが料理人になったわけ』(中公文庫)や『築地のしきたり』(NHK出版生活人新書)などから一貫している傾向であり、これら旧著で著者が炙り出してしまったのは料理や魚ではなくて料理人や魚河岸人の過熱した人生観や生臭い生態である。この視角をコーヒーの世界に向け、そこに棲むコーヒーの職人たちの「孤独」と「我執」を暴いたのが、本書である。ここで私が「孤独」と「我執」と表したのは、《私は最初、標夫妻の愛情物語を書くつもりだった。…が、思いとは裏腹に、テーマはあらぬ方向へ行ってしまった》と嶋中さんが本書エピローグで省察している、そのあらぬ方へ向かせた本質は「孤独」と「我執」であろう、と推察したからである。嶋中さんは本書の中で、標さんを含めてコーヒー自家焙煎職人たちを「狂狷の徒」と称した。「狂狷の徒」ゆえに信ずるに足る「愛すべき畸人たち」である、と著者が吐露する人間観、かく言う嶋中さんも相当に畸人にして狷者であろう、と思う。だからこそ、標さんのような畸人ゆえの「孤独」と、標さんのような狷者ゆえの「我執」に、関心が向いてしまったのではないだろうか? もっと気楽に評すれば、この嶋中オヤジ、世の憂いを語る『おやじの世直し』(NHK出版生活人新書)や『おやじの品格』(グラフ社)、先輩狷者の言を示す『座右の山本夏彦』(中公新書ラクレ)などでは、生っちょろい俗世に悪口を浴びせる毒舌家であるが、その毒舌には自ら嫌悪しても逃れきれない「孤独」と「我執」の臭いが芬芬とする。そもそも、『コーヒーの鬼がゆく』を企て著したこと自体が既に自らの「孤独」と「我執」を標さんのそれへと投影させているのであって、同声相応じ同気相求む体裁を明かしていると笑いたくなるほど、嶋中さんも「孤独」と「我執」の人に属しているのだ。さらに感傷的に嘯くならば、皇紀2600年の辰年に生を受けた「コーヒーの鬼」標さんが「独り静かに」慨嘆して逃れきれない「孤独」と「我執」、そこを生臭く炙り出させるに嶋中オヤジほど相応しい人はいない、と思ったのだろう。その嶋中オヤジは、標さんの一回り後の辰年生まれ、来2012年「もうすぐ還暦を迎える」人である。
 
 「コーヒーを愛する人たちに私は訴えたい。“憑かれた”男たちを描いた著者もまた孤独なのである。毎夜毎夜、『コーヒーの鬼がゆく』は読者を満足させただろうか?と反問し、心をふるわせている。小心翼々たる著者を孤立させてはいけない。少なくとも丹精込めて書いた彼の著作を書店で立ち読み捨てるなどという無礼は厳につつしんでほしい。コーヒーにも一片の敬意を払ってほしいのと同じで、コーヒー本にも一片の敬意を払ってほしいのだ。そして時折、著者に向かって、面白かったよ、と温かい声をかけてほしい」……こう私情を投影して本書『コーヒーの鬼がゆく』に大いに共感できる。そして、私もまた、スタイルやカリスマばかりを追う今時のコーヒー界、ろくに美味くもないスペシャルティコーヒー、それらを罵倒し嘲笑しながら、「孤独」と「我執」を自らに感取して「独り静かに」コーヒーを焼いて淹れて飲み続けるのだ。
 
 私の手元にある嶋中労の著作『コーヒーに憑かれた男たち』には、「コーヒーの鬼」標交紀の無骨で無垢な生き方そのものを示すかのように、崩れの無い端正な筆蹟で署名が遺されている。前述の集会で俗欲に負けてコーヒー御三家にはサインを頂戴したのであるが、その際、肝心の著者・嶋中労に対しては署名を求めなかった失態を犯した。文庫本になった本書『コーヒーの鬼がゆく』の掉尾を汚して解説を記した今般、著者・嶋中労と忘憂の物を酌み交わしながら、直に非礼を詫びてサインを頂戴した。その際のコーヒージャーナリスト嶋中労との毒舌も楽しき暫時を、私は終生忘れない。コーヒーは「独り静かに」味わうべきでも、忘憂の物は「酌み交わして」こその忘憂か? 嶋中労の著作『コーヒーの鬼がゆく 吉祥寺「もか」遺聞』の「文庫版のためのあとがき」には、《標がコーヒー業界のスーパースターなら、帰山人はコーヒーおたく業界のスーパースターである》と記されている。前者は泉下の猛者で、後者はその二回り後にて賤下の愚人と違いはあるが、共に2月6日に誕生しているスーパースター(?)である。標交紀、嶋中労、鳥目散帰山人、辰年3人の奇縁も話題にしながら、再び嶋中労と酌み交わそうか、その忘憂の物がコーヒーか酒か未聞である。
                                            (とりめちる・きさんじん)
 
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コメント

No title
ナカガワ URL [2011年12月20日 23時36分]

「百年目」の番頭でございます。当方「本直し」でよろしければ、またおつきあいさせていただきます。どうぞ、またお声がけくださいまし。

to:ナカガワさん
帰山人 URL [2011年12月21日 00時29分]

「きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな」って、「柳蔭」を覚えたところで大林は見返り柳じゃありませんよっ!(笑)ではホンモノの「柳蔭」が入手できましたら、酌み交わすといたしますか…「甘~いっ!」って労師に貶されそうですが…

No title
ナカガワ URL [2011年12月22日 03時01分]

表紙の写真のダイヤモンド後光は何でしょうか?
本間敬は、実在しないと思います。
アウトレット送付しました。

to2:ナカガワさん
帰山人 URL [2011年12月22日 15時07分]

>本間敬は、実在しないと思います。
ホンマけ~っ?(うう、ベタだ)
んで、後光?違いますよ、ありゃ光る魂魄です。暗黒コモディティ界から襟立さんと井上さんがおいでおいでと呼びにきているんですよ!
ウインターXmasセール品、楽しみです^^/

No title
ナカガワ URL [2011年12月23日 06時36分]

わたしは、帰山人センセは「ユパさま」であると、書いときました。また諸国遍歴の魑魅魍魎の話を聞かせてくださいませ。ダイヤモンドの鬼については、おちゃらけて巨神兵のように書いたので、著者からは叱られそうです。
そうだ労氏はチククですね。わたしはミトじいがいいな。

to3:ナカガワさん
帰山人 URL [2011年12月23日 13時38分]

「チククの針は鋭いぞ さがれ」「待て 双方剣を引けーっ」「エエイこの老いぼれ頭め 何から話してよいか判らんわい」問題はヨーコです「中枢を破壊しないとやつは不死身だ。よみがえってしまう」

はじめまして
りんごの星 URL [2012年01月04日 10時42分]

本屋さんの検索の機械で「コーヒー」と入れた時に出逢ったのが、「コーヒーに憑かれた男たち」でした。そしてまた本屋に立ち寄ると、「コーヒーの鬼がゆく」が飾ってあり、帰山人さまのページまで辿りつきました。まだコーヒーに興味を持ったばかりの新参者です。最初に手にした本がこれらの本で良かったと心から思います。私も三十路の辰年です。ブログ、これからも読ませて下さい。楽しみにしています。

to:りんごの星さん
帰山人 URL [2012年01月04日 19時08分]

ようこそ!私のところへ辿り着かれまして、ありがとうございます。まだお若い辰年なのに最初に手にしたコーヒー本が嶋中作品とは…うむ、喜ぶべきなんでしょうか??(笑)まぁ、最初に毒を喰らっておけば耐性はつくでしょう^^;;今後ともよろしくお願いいたします。

No title
しらちゃん URL [2012年01月22日 22時47分] [編集]

『コーヒーの鬼がゆく』の紹介がてら、この日記にもダイレクトリンクを張りました。どうしてコーヒーの世界には奇人変人が多いのに、ランナーにはまともな人しかいないんでしょうかね???

to:しらちゃん
帰山人 URL [2012年01月22日 23時33分]

あのね、(ご夫婦で読んでいただいた上に感想までブログ記事にしていただいたことは素直に礼言するとして)「ランナーにはまともな人しかいない」?(どれほど嘘か知っていて)しゃあしゃあと言ったネ!言っておきますが、奇人を奇人が描いた本はマトモな人じゃなきゃ解説できまっせん!「走る鬼」な読者は奇人変人でしょうが…

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Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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