愛と哀しみの果て

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2011 [2011年10月20日 23時00分]
カレン・ディーネセン(Karen Christenze Dinesen)がコーヒー農園の経営を試みて破綻、17年間暮らした移住地ケニアから夢破れて離れた1931年より80年を経た今2011年、ケニアにおけるコーヒー生産の動向が報じられたので、その背景と本質を少し考えてみよう。
 
   KenyaCoffee.jpg
 「ケニアのコーヒー生産、中部から西部にシフトの動き」
 《ケニアのコーヒー栽培地の拠点が、中部地域から西部へとシフトする動き
  を見せている。ナイロビに近いキアンブやティカではコーヒー畑の宅地開
  発が進むなか、国際市場におけるコーヒー価格の上昇を受け、西部にあ
  るリフトバレー州での栽培が盛んになってきている。 (略)ケニアのコー
  ヒー年間生産量は、最盛期だった1980年代の13万トンから2009年は
  5万1000トン、2010年は4万2000トンへと落ち込んでいる。2011年
  の生産量も、計画の5万4000トンを大幅に下回る3万6000トンと予測
  されている。ケニアコーヒー局のLoise Njeru局長によれば、過去10年
  のあいだに栽培面積の10%近くが住宅やインフラ施設に転用された。
  また、干ばつの影響や栽培技術の遅れも、生産量の減少につながって
  いるという。一方、コーヒー価格は高水準を維持しているため、コーヒー
  産業による収入は2009年の100億ケニアシリング(約77億円)から
  2010年は199億ケニアシリングに上昇。生産量の落ち込みと反比例
  している。コーヒーはトウモロコシなどの低収穫品種に代わる生産物とし
  て人気を集めているようだ。高い収益性から、若者の参入も誘引してい
  るという。Njeru局長は、「1エーカーのトウモロコシ畑から得られる利益
  は2万ケニアシリングだが、コーヒーならその5倍以上を獲得できる」と
  述べている。》 (アフリカビジネスニュース:2011年10月19日)
 
上記は“Business Daily”の記事‘Higher prices lure Rift Valley farmers to coffee’の抄訳引用である。Kiambu・Ruiru・Thikaといった首都ナイロビ北方に拡がる中央州内のコーヒー農園が宅地造成などによって過去1年で約5376エーカー(約2175ヘクタール)失われたと元記事では報じている。かつてカレン・ディーネセン(ブリクセン男爵夫人)がコーヒー栽培に挑み敗れたNgong丘麓(首都ナイロビ南西郊外)でも都市化開発は然り、他方でケニア西部のMount Elgon・West Pokot・Trans Nzoia・Bometなどの地域はコーヒーの新植が進み始めているようだ。しかし、この産地シフトを長期的国策レベルで安定したものとは単純に捉え難い、と私は感じている。‘White Highlands’(白人高地)と呼ばれた中央州地域が依然として優先されるコーヒー施策の報も聞こえてくるからだ。
 
 「コーヒー協会の負債を政府が免除」
 《ケニア政府は、90年代の景気低迷以降、瀕死の状態にあるコーヒー協
  会の復興を支援するため、協会が労働組合から借りている42億ケニア
  シリング(約50億円)を免除する。過去7年間の負債免除額は100億
  ケニアシリング(約120億円)となる。(略)そのうち13億ケニアシリング
  (約15億円)は輸出収入安定補償制度に、残りの29億ケニアシリング
  (約35億円)は労組に対するコーヒー協会の負債の返済に充てられる。
  (略)労組からの多額のローンに頼ってきたMuranga郡は、ローンの大
  部分である12億ケニアシリング(約14億円)を受け取ることになる。こ
  の資金提供により、協会は近代的な機械の購入やコーヒー工場への電
  力の供給が可能となる。一方で、この負債免除による利益を得ることの
  できない他の国内コーヒー協会は不満を述べている。》
  (アフリカビジネスニュース:2011年2月4日)
 
   KenyaCoffee (1)
イギリス(大英第二帝国)の植民地政策によって19世紀末に勢力下に入ったケニアの内陸部は、20世紀初頭になるとヨーロッパ人の入植が進んで土地収奪がはじまった。デンマークに生まれ育ったカレン・ディーネセンが、スウェーデン貴族のブリクセン男爵と結婚した翌1914年ケニアに入植したことも、その流れの一環である。1921年の王室直轄地令によって、農業と居住に好適な‘White Highlands’(白人高地)の確立は進み、先住していたキクユ族を追いやってできた大規模なプランテーション経営が行なわれた。直轄植民地ケニアでは、追いやられた先住民が居住指定地から離されプランテーションや鉱山に集約されて短期間の賃労働を強いられる移動労働制が主要な形態であった。
 
   KenyaCoffee (2)
カレン・ブリクセン(Karen Blixen)或いはイサク・ディーネセン(Isak Dienesen)名義でカレン・ディーネセンが著した自伝“Out of Africa”(邦訳『アフリカの日々』)では、農園で働くキクユ族が元々の土地所有者であることが語られているが、当時の「白人高地」における労働形態の典型とはいえない、変則の実態か虚栄の架空かいずれかであろう。『アフリカの日々』を映画化した『愛と哀しみの果て』(Out of Africa/1985年)に関し、淡々と冷めた筆致の原作と違って虚飾に満ちたメロドラマ映画になっている、と風合を異にする件の非難も見られる。だが、そもそも『アフリカの日々』自体が、破婚してもなお男爵夫人として虚勢を張るディーネセンの自己愛で取捨選択された操作の後の物語で、明確な真実はディーネセンが「コーヒー農園に関して低劣な能力の敗北者」であることだ。
 
   KenyaCoffee (3)
いずれにしても、現代のケニアにおけるコーヒー生産の重心が西部へ移行することは、『愛と哀しみの果て』時代に象徴されるイギリス植民地以来のコーヒー生産のあり方が始まりから100年以上の時を経て大きく変化し始めた画期とも捉えられる。しかし他方、その急速な新植増産は国際相場の高騰に踊ったものでもあり、先々の相場変動により壊滅する可能性も孕んだ脆弱で浅薄な動向ともいえる。こうしたコーヒーの相場価格で浮き沈む不安定さは、「白人高地」の色がいまだに残る中央州地域のプランテーションよりも、リフトバレー州の西部地域の零細自作農家に対して大きな影響を与えるであろう。『愛と哀しみの果て』時代からケニアのコーヒー史で繰り返されているのは、キクユ族など先住民たちの「愛と哀しみの果て」であり、はて、コーヒーの「愛と哀しみの果て」は続くか?
 
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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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