新年にコーヒーを刻んで

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2011 [2011年01月01日 00時01分]
2011(平成23)年は、「日独交流150周年」を迎える記念年とされている。
2011年新春を迎え、刻みよく歴史を遡って、コーヒーの過ぎ来し方を語ろう。
 
 
【50年前=1961(昭和36)年のコーヒー】
 
日本でインスタント(ソリュブル)コーヒーの輸入が完全自由化され(1961年7月)、国内の業界団体である「日本インスタントコーヒー協会」が設立された(同年9月)。この間に、西田佐智子のシングルレコード「欲望のブルース」が発売されて、B面曲「コーヒールンバ」(原曲‘Moliendo Café’:記事「二人のウーゴ」参照)がヒットした。また同時期、東ドイツ(DDR)政府によって「ベルリンの壁」が築かれた…何? コーヒーは関係無い? お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしました。わかっちゃいるけどやめられない…今から50年前のことである。
 欲望のブルース
 
 
【100年前=1911(明治44)年のコーヒー】
 
「カフェープランタン」が東京・京橋日吉町(現・銀座8丁目)に開店(1911年3月)、「カフェーパウリスタ」が大阪・箕面公園入口(現・箕面市)に開店(1911年6月)、「カフェーライオン」が東京・尾張町新地(現・銀座5丁目)に開店(1911年8月)した。同年には「カフェーミカド」(大阪・新世界)、「カフェーナンバ」(大阪・戎橋)も開店。日本における喫茶店(カフェー・コーヒー店)の「最初」や「最古」を追究する論には、「可否茶館」(東京・下谷黒門町:1888年)や「メイゾン鴻之巣」(東京・日本橋小網町:1908年)や「カフェーキサラギ」(大阪・川口:1910年)などを加えてみても、いずれも時期・経緯・業態などの解釈に違いがあり、牽強付会の説ばかりであるが、大正モダニズムにおける都市部での「カフェー」隆盛の起点は1911年であろう。
 
プロイセンを中心に成立したドイツ国(帝政ドイツ・第二帝国:1871-1918年)はビスマルク体制後の帝国主義政策で、先んじた他のヨーロッパ列強を追うように、植民地の獲得に乗り出した。ドイツ領東アフリカではコーヒーの栽培に着手し、その一例としてブコバ地方(現タンザニア北西部)のハヤ族に対してアラビカ種のコーヒー栽培を強制した。伝統的なロブスタ種「ハヤコーヒー」を栽培する先住民に換金作物としてのアラビカ種コーヒーを強制栽培させ、世界的にも貴重な民俗文化を危機に追いやったドイツ国、時に1911年、今から100年前のことである。
 
 
【150年前=1861(万延元-文久元)年のコーヒー】
 
1861年にビクトリア湖周辺(現ケニア西部)で発見されたコーヒーさび病は、ヨーロッパ列強諸国が行き渡らせたコーヒー栽培を追いかけるように世界各地に瞬く間に広がって当時のコーヒー生産に大打撃をあたえた。150年前を起点にその後の生産地や栽培品種に激烈な変化をもたらし、コーヒーの商業栽培生産史に大きな分断と画期をなした大事件、コーヒーさび病のパンデミック(世界大流行)。
 
 機帆装arcona
現駐日ドイツ連邦共和国大使Volker Stanzel(フォルカー・シュタンツェル)によれば、
 《…プロイセンの東方アジア遠征団が1860年秋に現在の東京である江戸に到
  着し、翌61年に日本と修好・通商・航海条約を結び、ここに両国の長年にわ
  たる友好関係の礎が築かれました。…》 (日独交流150周年Webサイトより)
 
Friedrich Albrecht Eulenburg(フリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルク)が使節団長として乗船してきた旗艦「アルコナ号」は、スクリュー推進の新造機帆装フリゲイトであり、それまで日本に来航した黒船(外輪推進の汽帆船と帆船)などとは一線を画すプロイセンの誇る新鋭高速艦であった。来航したオイレンブルク使節団は、芝赤羽の接遇所を拠点に幕府側に度々条約締結を迫り、先着居留していたアメリカ・フランス・オランダの公使や領事にも日普間の条約締結を勧説させている。使節団の使命は、プロイセンを含むドイツ関税同盟各国、ハンザ同盟各都市、メクレンブルク=シュヴェリン大公国、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の各全権委任により全間の条約を締結するものであった。幕府側全権として当初の交渉にあたった堀利煕(ほりとしひろ)が交渉中に自刃(幕府内の軋轢に対する憤死?被買収容疑の引責?)、代わって村垣範正(むらがきのりまさ)が後任となり、交渉計4ヵ月余、プロイセンとの二国間条約が調印された。時に1861年1月24日(万延元年12月14日)「日普修好通商航海条約」と「貿易章程」とを締結、駐日アメリカ総領事館の通弁官Henry Conrad Joannes Heusken(ヘンリー・ヒュースケン)が芝赤羽接遇所での日普条約章程の審議に通訳参加した帰途、薩摩藩士らに襲われ死亡した10日後のことであり、攘夷派の焼き討ちや殺傷事件が頻発する危機的な情勢下の調印だった。
 
プロイセン使節団の随行武官Maximilian von Brandt(マックス・フォン・ブラント)は、明治維新期まで駐日領事(後に公使)として在留、日記『ドイツ公使の見た明治維新』(訳名)を残している。当時プロイセンは海外に植民地(移民先)を強く求めていたが、南北アメリカ大陸への移民は失敗し、気候も本国に類似して開発の余地も多い日本の蝦夷地を狙っていた。ブラントは、他国に先んじてプロイセン領として蝦夷地を占領し、植民地化する計画を綴り残している。これらの経緯をもっても「友好関係の礎」か?
 
日本人のコーヒー飲用は、オランダ人が持ち込んだ長崎の出島においてが先駆けであろうが、他方、18世紀半ばに蝦夷地で越冬する幕臣や弘前藩士ら勤番者が浮腫病予防や寒気対策の薬として用いたことを実質的な原初とする論考もある。実際に1857(安政4)年の紋別御用所「蝦夷地御用留」にはコーヒーと共にその用い方を箱館御役所(箱館奉行所)から各勤番所に差し回した記述が残されている。そしてこの時の箱館奉行こそが、奇しくも4年後に「日普修好通商航海条約」の締結交渉で全権を務めた堀利煕と彼の後任となった村垣範正の両名だったのである。
 日普150年 
「日独交流150周年」の起点とされるプロイセンとの条約締結の交渉を務めた幕臣両名は、後にプロイセンも侵攻を狙った蝦夷地に深く関わり、その地でコーヒーの飲用を勧奨した人物でもあった。当時の日本においては最もコーヒーに通じていた堀利煕と村垣範正が、オイレンブルクやブラントらとの間で、蝦夷地のコーヒーやプロイセンをはじめ欧米列強各国のカフェを話題にしていた可能性は充分にある。共に近代帝国の成立間近であった日本とドイツ、両国交流の起点はコーヒーの香りに包まれていただろう…今より150年前をそのように想像するにも難くはないのだ。
 
コメント (4) /  トラックバック (0)

コメント

No title
しんろく URL [2011年01月02日 10時43分] [編集]

新年のお慶びお申し上げます
今年もよろしくお願いします

to:しんろくさん
帰山人 URL [2011年01月02日 13時10分]

しんろくさんにとっても聖人遠忌で刻みの年ですね。
本年もヨロシクです。

No title
ボスケ URL [2016年11月18日 16時25分] [編集]

すごい知識で、勉強になりますね。このサイト。

to:ボスケさん
帰山人 URL [2016年11月18日 17時14分]

嶋中労氏が『コーヒーの鬼がゆく』の「文庫版のためのあとがき」で、私を《奇才縦横、円転滑脱、その機知と諧謔に満ちた舌鋒》と紹介していましたが、要は余聞で悪辣なだけです。‘Einfach gewissenlos!’とでも笑ってください。

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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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