珈琲どんとせい

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年08月10日 01時00分]
長谷川利行(1891-1940)は、「砂糖の甘いコーヒーは温かい」と言い、「アルコールは芸術である」とも言った(「鶏のやうな感想」/『みづゑ』三三八 1933)。さて、コーヒーは芸術であるのか否か? 私は「長谷川利行展 -藝術に生き、雑踏に死す-」を観てから‘チェリオ’気分が抜けないが、利行はコーヒーを飲んでも‘チェリオ’(乾杯)を叫んでいたのだろうか? …どんとせい!
 
 珈琲どんとせい (1)
長谷川利行が描いた油彩画「カフェ・パウリスタ」(1928)は、「第3回一九三〇年協会展」に出品された後に、谷中初音町の下宿先に利行が家賃代わりに置いていったとされている。それから79年後、下宿屋の経営者の子息である福井龍太郎によってテレビ番組「開運! なんでも鑑定団」(テレビ東京系/2009年2月24日放送)に出品され、永井龍之介の鑑定で1800万円の評価額が付された。そして、東京国立近代美術館が2009年度に1200万円で購入して修復された。利行が制作してから90年を経て、この油彩画「カフェ・パウリスタ」を私は「長谷川利行展」で観たが、描かれたカフェーパウリスタが銀座なのか浅草なのか神田なのか、どの喫店かは判らなかった…どんとせい!
 
 《そのとき注目されるのが、女給以外に人物が描かれていない点だ。これ
  は、カフェ・パウリスタが人気店だったことを考えると、実に奇妙な事態
  である。(略) なおカフェ・パウリスタは、女性ではなく少年が給仕するこ
  とで有名であったから、本作に女給が描かれていることを訝しく思う向
  きもあるかもしれない。しかし、カフェ・パウリスタに女給が全くいなかっ
  たというわけではなかった。酒井眞人は1929年に刊行された『カフェ
  通』において、「浅草のパウリスタが、いつの間にかウェイトレスを置い
  て、俄にカフェらしく盛り返して来たのも、鳥渡近頃の面白い現象であ
  る」と述べており、当時の競争の激しいカフェ業界において女給の存在
  はやはり不可欠であったことがわかる。本作は、その酒井の記述より
  一年ほど前になるし、何店を描いたかは不明ではあるけれども、美術
  (史)の立場からすれば、そうした実証性を云々するよりも、先述した
  「静けさ」の問題を考えることの方がずっと重要であるのは言うまでも
  ない。》 (保坂健二朗 「長谷川利行作《カフェ・パウリスタ》の調査報告
  ─来歴、「価格」、主題、修復、成分分析、X線透過写真について」/
  『東京国立近代美術館 研究紀要』第15号 2011)
 
 《珈琲を運ぶ給仕に、従来の女給ではなく、少年たちを採用したことも斬
  新だった。(略) 端正な美少年たちによる接客サービスは大正時代の
  日本人を驚かせた。》 (長谷川泰三 『日本で最初の喫茶店「ブラジル
  移民の父」がはじめた カフエーパウリスタ物語』 文園社:刊 2008)

珈琲狂の立場からすれば、長谷川利行の「カフェ・パウリスタ」に《女給以外に人物が描かれていない点》よりも、《女給が描かれていること》の問題を考えることの方がずっと重要であるのは言うまでもない。カフェーパウリスタについては、若い男性が給仕することで《大正時代の日本人を驚かせた》のかもしれないが、それ以前の‘明治期’と以後の‘昭和期’には女給も接客したのである。カフェーパウリスタの喫店第1号とみられる大阪の箕面店は、1911(明治44)年6月25日に開業した。この箕面店では、開店広告(『大阪朝日新聞』 1911年6月24日)や催事コーヒー券(「山林こども博覧会」 1911年10月)に女給の姿が描かれている…どんとせい!
 珈琲どんとせい (2)
 
 《明治44(1911)年7月10日の『菓子新報』にも「大阪だより」の欄で大谷
  生によるカフエーパウリスタ箕面店について次のような投稿がみえる。
   彼の設備は、実に小気味良く行き届いて居る、嫌味なくして清楚に、
   艶ならずして瀟洒に、若し夫れ山を下って、其の汗が玉をなすの時、
   楼に上り、欄に倚り、颯々たる涼風に吹かれ、其南面の景を眺望し
   つゝ、一椀のコーヒを喫すれば、魂は倏ち風塵里を去って楽園に逍
   遥するであろう、殊に之に侍するの女は、穢れに染まぬ素人の処女
   なるに於いてをやである (後略)》 (中牧弘允 「旧カフエーパウリスタ
  箕面店が提起する問題」/『JICA横浜 海外移住資料館 研究紀要』
  第8号 2014)
 
‘明治期’のカフェーパウリスタ箕面喫店には、女給が侍していた。次に、長谷川利行が描いた‘昭和期’のカフェーパウリスタに、《女給が描かれていること》の問題を考える。ここで注目されるのが、先の酒井眞人による《浅草のパウリスタが、いつの間にかウェイトレスを置いて、俄にカフェらしく盛り返して来た》という記述である。盛り返す前には頓挫や衰微があったわけで、それは‘大正期’のカフェーパウリスタに始まっていた…どんとせい!
 
 《一般に「大正パウリスタ」は、関東大震災と無償珈琲の打ち切りにより経
  営破綻を来したように言われていますが、実はそうではありません。大
  正八年六月のヴェルサイユ条約締結後、日本の景気も徐々に反動不
  況期に入っていきますが…(略) 大正一〇年に入り業容の縮小で不況
  を凌ぐしかないと判断した経営陣は、閉店しては肝心の珈琲の販売に
  支障が出るので、喫茶店の営業権を譲渡することとし、売上、利益とも
  順調に推移していた神田と浅草、それに発祥の地銀座の三店を手放
  すことになります。》 (岡本秀徳 「「大正パウリスタ」の終焉」/星田宏司・
  岡本秀徳 『「銀ブラ」の語源を正す カフエーパウリスタと「銀ブラ」』 いな
  ほ書房:刊 2014)
 
こうして、1910(明治43)年2月に水野龍らによって設立されたカフェーパウリスタ(当初は合資会社、1913年10月より株式会社)は、1924(大正13)年までに全ての直営喫店を失ってカフェ経営から手を引いた。1928(昭和3)年に長谷川利行によって描かれたのが何処の喫店であれ、それは‘大正期’とは運営の母体も方針も異なるカフェーパウリスタの姿であり、《本作に女給が描かれていることを訝しく思う》理由は何もないのである…どんとせい!
 
  オリエンタルの女給美くし 青年の夢に対する アダバナだ──
  三橋亭のウエトレスは 蛇にみえない伸びやかさだ
  エプロンの白さは 彼女の感情のブルモサだ
  なんと云ふ感情のよさだ 間違つたら御免なさい
  (長谷川利行 「キヤフェーを讃ふ」/『中央美術』昭和四年二月号 1929)
 
 珈琲どんとせい (3) 珈琲どんとせい (4) 珈琲どんとせい (5)
長谷川利行が訪れたカフェは、「パウリスタ」以外でも「オリエント」や「三橋亭」や「リリオム」や「モナミ」や「タイガー」など多数ある。その中には利行が油彩画で描いた店もあるが、さて、利行はコーヒーを飲みながら描いたのだろうか、それとも酒か? 利行はコーヒーを飲んでも‘チェリオ’(乾杯)を叫んでいたのだろうか? そもそも、長谷川利行にとって、コーヒーは芸術であるのか否か? …どんとせい!
 
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Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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