日本のカフェのみある記 後篇

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年07月09日 01時00分]
承前〕 『コーヒーと日本人の文化誌 世界最高のコーヒーが生まれる場所』(メリー・ホワイト:著 有泉芙美代:訳 創元社:刊 2018)は、どう読み解かれるべきなのだろうか? 角度を変えて、話を続けよう。
 日本のカフェのみある記 (1)
 
 《「東京式殺人」にはガイジンの深いあきらめが漂っている。日本への嫌
  悪と憧れが攪拌されずに残ってもいる。そしてそれは現在のわたし自
  身の忠実な反射である。日本を学びつづけることをあきらめないわた
  しの内部もまた謎に満ちている。》 (アラン・ソーモン 「「東京式殺人」に
  ついて」/関川夏央・谷口ジロー 『海景酒店』 双葉社:刊 1986)
 日本のカフェのみある記 (4) 日本のカフェのみある記 (5)
『コーヒーと日本人の文化誌』を読んだ私は、外国人の視点から日本のヤクザ社会を描いた漫画「東京式殺人」(『コミックモーニング』1984年11月1日号 講談社:刊/後に単行本『海景酒店』 双葉社:刊 1986 所収)を思い出した。「東京式殺人」はAlain Saumon(アラン・ソーモン)が原作者で、関川夏央が翻訳・潤色して谷口ジローが作画を担当した短編である。アラン・ソーモンもまたメリー・ホワイトと同様に海外から日本を訪れて、《観察、経験、記憶の活用》によって日本スタイルの社会の一断面を自国で説くために記した。もっとも、フランス人アラン・ソーモンは関川夏央がつくった架空の人物であり、メリー・ホワイトが実在のアメリカ人であることとは異なる。だが、『コーヒーと日本人の文化誌』と「東京式殺人」、2つの作品には共通して《ガイジンの深いあきらめが漂って》いて、《日本への嫌悪と憧れが攪拌されずに残ってもいる》ように私には感じられるのだ。日本語版の『コーヒーと日本人の文化誌』に対して感じる違和を別の例であげれば、リドリー・スコット監督の映画『ブラック・レイン』(Black Rain:1989)を日本語吹き替え版で観た場合に近い。つまり、以上のいずれも日本を舞台に外国人の視点で描いているが、それを作品として届ける対象の想定は日本人ではない。『コーヒーと日本人の文化誌』には、著す者の視線の先に自分がいない感じ、‘蚊帳(かや)の外’にされたようなもどかしさを覚える。読み手である私の方にも、《深いあきらめ》と《嫌悪》が残るのである。
 
 《ところで問題はスターバックスである。(略) マグカップで淹れてくれと頼
  むと「マグカップを盗んでゆくお客さんが多いので紙で出します」という
  返事が返ってきたものだった。(略) たまにエスプレッソを頼むと「エス
  プレッソを小さいカップに淹れますがそれでいいでしょうか」「エスプレッ
  ソは濃いですがよろしいですか」などといちいち講釈をされる羽目にな
  った。(略) 世界共通のエスプレッソを注文するたびにそれが何である
  かを講釈するバカがどこにいるだろうか。(略) 思えばもう廃れた個人
  喫茶店文化の華やかだった私の学生時代、朝の時間を楽しませてく
  れた店ではこうしたトラブルはまったくなかった。長い外国生活でも然
  りである。スターバックスは学生街の店から「お勉強をされている方は
  店から出て行っていただきます」という張り紙をきれいさっぱり剥がし
  去り、一杯の時間を楽しみにきた客を怒らせる馬鹿げた講釈を即刻や
  めよう。(略) いいや、カフェはヨーロッパでは知と公共性の最前線で
  あり(ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』を味読せよ)、
  しばしば革命はカフェから始まったことをこそ知るべきである。》 (小島
  亮 「編集後記」/『アリーナ 2010』第8号 中部大学:発行 2010)
 
『コーヒーと日本人の文化誌』の「訳者あとがき」で有泉芙美代は、《中部大学でご指導いただいた小島亮教授》の「古い友人が日本の喫茶店について書いた本がある」という《この言葉が、原書を知るきっかけとなった》と言う(p.207)。私は、中部大学が発行する『アリーナ』で有泉芙美代の書評(8・9・10・19の各号掲載)を読んでいた時に、小島亮が「編集後記」で語ったカフェ論(?)を知った。日本のスターバックスコーヒーに腹を立てて店員に食ってかかって口論する、小島亮は面白くも厭味なオヤジである。と同時に、‘古い友人’メリー・ホワイトの‘日本の喫茶店について書いた本’に欠けているもの、それを私に覚(さと)らせた。例えば、『コーヒーと日本人の文化誌』にはスターバックスコーヒー京都三条大橋店が「勉強されるのでしたら、川床でやらないでください」と高校生の客へ注意した話題が登場する(p.191/p.194)が、メリー・ホワイトは高校生側の反応や心情を掲げていない。本書には、店が商品やサービスや規制を客へ強いる例を多く示すが、それに反応する消費者の意見は拾われていない。なるほど、日本のカフェには‘戦うオヤジ’(?)小島亮のような利用客は稀であり、日本のカフェの静かな(?)現実に革命など始まりようもない。であるならば、変遷していくカフェにも唯唯諾諾と追従する日本人の姿まで描いてこそ、メリ・-ホワイトの著述は真正の‘ethnography’(エスノグラフィー)になり得たのではないか、私はそう覚った。
 
 日本のカフェのみある記 (6)
『コーヒーと日本人の文化誌』は、カフェ・ド・ランブルの関口一郎(1914-2018)を「コーヒーづくりの伝道師」として取り上げ、(日本語版の訳者による補足で)《二〇一八年三月、一〇三歳で亡くなった》と記す(p.90)。ところが、本文にも度々登場させて《圓尾先生は、私の指導者であり、コーヒー全般に関する情報の源泉だった》(p.200)とメリー・ホワイトが「おわりに」で謝辞を述べている相手、その圓尾修三(1941-2013)がとっくに他界していることには触れていない。アラン・ソーモンは《日本を学びつづけることをあきらめないわたしの内部もまた謎に満ちている》と言っていたが、「日本のカフェのみある記」を正体とする『コーヒーと日本人の文化誌』の内部もまた謎に満ちている。
 
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コメント

メリー・ホワイトの本について
小島亮 URL [2018年11月18日 06時47分] [編集]

ご指摘の小島です。実はこの訳本は創元社第一編集部M氏のでっち上げです。有泉はサンプル試訳(ホンの僅かな時間で)を出しただけのつもりが、それをM氏がそのままゲラにし、校正は誤字訂正のみ、書き換え不可、初校だけ3日で、でっち上げ出版しました。誤訳、珍訳300箇所以上に及び、翻訳者にされてしまった有泉と一緒に創元社に抗議に行き、改訳の出版を約束されました。という次第で、今少しお待ちを。全責任は無茶苦茶な出版をした創元社にあり、訳者も原著者ももっと別な本を書いております。ご指摘心からありがたく拝受しました。素晴らしい読みに感服いたします。

to:小島亮さん
帰山人 URL [2018年11月18日 22時04分]

コメントありがとうございます。恐縮です。旧友が著して門生が訳した本に言いたい放題ですいません。それにしても、私が読んだ訳本が実は馬鹿げた狼藉の果てとは…改訳が出たならば、もう一度読み直したいと存じます。今後とも、よろしくお願いいたします。

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Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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