レディ・プレイヤー1941

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年04月22日 05時30分]
スティーヴン・スピルバーグの映画、というだけでは劇場(映画館)へ行かなくなって随分と経つ。製作作品では『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2014)を観に行ったのが『ポルターガイスト』(1982)以来で32年ぶりだったし、監督作品では『宇宙戦争』(2005)を最後に劇場で観たものがない。
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 《最初に見たスピルバーグ作品は、「ジョーズ」だった。観たのは冬のとても
  寒い午後、パリのクリシー広場にある映画館だった。終ってから隣りのカ
  フェに駆けこんで、熱いワインを飲んだのを憶えている。》 (笠井潔 「動
  物パニックの類型学」/『シネアスト 映画の手帖』5:[特集]スピルバー
  グ 青土社:刊 1986)
 
私も劇場で《最初に見たスピルバーグ作品は、「ジョーズ」》だった。小学6年生の時に正月映画として『ジョーズ』(1975)を観た私は、スピルバーグの次の映画を待ち望んだ。中学2年生の時に「日曜洋画劇場」が再放送した『激突』(1971)を自宅の居間で坐って観た。終わってから痺れが切れた足で立ち上がると、よろけて障子へ‘激突’して腰板を蹴破ってしまったのを憶えている。その翌年に劇場で『未知との遭遇』(1977)を観てからは、『1941』(1979)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)・『E.T.』(1982)とスピルバーグ監督作品というだけで劇場へ観に行った。私のスピルバーグ熱の風向きが変わったのは、大学3年生の時だった。地元の二番館へ『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)を観に行くと、2本立て併映のロバート・ゼメキス監督作品『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(1984)の方が圧倒的に面白かった。その後、『カラーパープル』(1985)を観てからは、スピルバーグの映画を待ち望む気は失せた。
 
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 《おそらく、『レイダース』や『インディ・ジョーンズ』、そしてさらに、いまでは
  “スピルバーグ調”とでも言うべき映像と音響に慣れた知覚からすると、
  『1941』は、ひどくおとなしい、シニカルな映画に見えるかもしれない。
  しかし、これは一九七九年の時点では、その“内容”よりも、その映像の
  スピード感が特に目立つ映画だった。一旦はスピルバーグを酷評した
  キャンビーは、次の週の日曜版で、この点に関して次のような修正意見
  を提出している。 「『1941』は、陰気な未来の本質を純粋に抽出した映
  画コメディである。それは、小さなスクリーンの『サタデー・ナイト・ライブ』
  のバカ騒ぎ的ユーモアをぎりぎりのところまでもってゆこうとする試みな
  のだ」(『ニューヨーク・タイムズ』、79年12月23日号)。》 (粉川哲夫
  「七〇年代の影」/『シネアスト 映画の手帖』5:[特集]スピルバーグ
  青土社:刊 1986)
 
『1941』は、公開時から38年前の世界を舞台にした映画だった。今から38年前に『1941』を観て《バカ騒ぎ的ユーモア》に笑った高校2年生の私、あれがスピルバーグ熱の頂点だった。「VRワールドの快楽と危険性を『1941』級に崩壊したパワーバランスで描く」(尾崎一男/Webサイト『映画.com』 映画評論 2018年4月10日)と評されたスピルバーグの新作『レディ・プレイヤー1』(2018)は、どのような映画なのだろう?
 
 《いやでも俺ねすごくこれ今回面白かったんですけれども『レディ・プレイヤー
  1』、これでいいのかなっていう気持ちにもなりましたよ、やっぱり。(略) こ
  れがね、ディスコのシーンになるとかかるんですよ。これが『サタデー・ナ
  イト・ライブ』という、あ、『サタデー・ナイト・フィーバー』という映画の音楽な
  んですけどね、「ステイン・アライヴ」っていう。でも、これって80年代じゃな
  くて70年代の音楽なんですけどね。でも、これって現在から考えると何年
  前ですか? 40年前ですよ。40年前のことが今の映画に出てきたってい
  うのを、僕はその当時のリアルタイムで知ってるけども、娘を連れて行っ
  て見ているんですけど、娘からするとどんな感じなんだろうって思ったんで
  すよ。だからね、僕がガンダムとかに会ったのは79年なんですよね。それ
  から40年前っていうと何年かっていうと、1939年なんですよ。真珠湾攻
  撃前ですよ。俺、世界のサブカルチャーってなんかおかしくなってねえか
  ってちょっと思いましたよ観ていて。だってガンダムの時代に真珠湾攻撃
  前の文化を見たら変だと思ったですよ、僕。》 (町山智浩:談 「アメリカ流
  れ者」/『たまむすび』TBSラジオ 2018年4月17日放送)
 
町山智浩の論評を聴いて、私は《これでいいのかな》、《なんかおかしくなってねえか》って思った。『レディ・プレイヤー1』における《40年前のことが今の映画に出てきた》というズレを《ガンダムの時代に真珠湾攻撃前の文化を見たら変》と例えられても、そのガンダムの時代に公開された『1941』という映画の中で真珠湾攻撃直後の文化を観ていたのだから。同様に「30年前のことが今の映画に出てきた」スピルバーグの製作総指揮作品として『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)が挙げられることも論を俟(ま)たない。だから、映画で描かれる舞台が過去か近未来かという違いを除けば、スピルバーグはまたも《陰気な未来の本質を純粋に抽出》して《崩壊したパワーバランスで描く》映画を作ろうとした、それが『レディ・プレイヤー1』であることは観る前から容易に察せられる。では、『シネアスト 映画の手帖』5のスピルバーグ特集全てを32年ぶりに読み返してから、『レディ・プレイヤー1』を劇場で観てみよう。
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『レディ・プレイヤー1』(Ready Player One) 観賞後記
 
 《いわゆるスピルバーグ映画の最大のスタアが、毎回、毎回、スピルバーグ
  自身というのは、クロサワ映画に登場する俳優たちが黒澤明の影で少し
  も目立たないのと同様、いささか滑稽で退屈である。》 (北川れい子 「メ
  ッセンジャーたちの饗宴」前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《それにディズニーの長篇アニメのダンボやバンビ、従来のミッキー・マウス
  やドナルド・ダッグ同様、人間の大スターではなくて、つくられたものがス
  ターのかわりをしているところなんぞもディズニーとスピルバーグは兄弟
  分ではないか。》 (今江祥智 「面白さの次にくるもの」/前掲『シネアスト
  映画の手帖』5)
 
 《そう考えたとき、スティーヴン・スピルバーグの映画における人物とは、物
  語の歯車にすぎず、ジャン・ルノワールの『牝犬』の冒頭にあるギニョー
  ル劇の人形たちを越えるものではありえない。》 (梅本洋一 「人物を照ら
  す光」/前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《過去のハリウッド映画等を引用しまた絶えず自己引用をしたスピルバー
  グのかつての一連の映画はスクリーン・メモリーの二重性と無気味な恐
  怖感にひたされていた。》 (大橋洋一 「スクリーン・メモリー」/前掲『シネ
  アスト 映画の手帖』5)
 
 《たしかにスピルバーグの映画は、映画についての映画である。それはここ
  に書いたように、スピルバーグの映画、映画体験のイノセントな状態の至
  福を謳歌し続けているからばかりではない。(略) たとえば映画の中でか
  つて見たある一つの怖いイメージに直面するとき、それがいままた怖いイ
  メージとして追体験されるのではなく、かつてそれを怖い思いで見たとい
  う体験の記憶にのみ還元されてしまうような事が起るのである。》 (波多
  野哲朗 「落下と飛翔」/前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《スピルバーグが、凄く怖い映画が撮れず、適度に怖い映画しか撮れない
  のも、スピルバーグ映画を観終わって映画館から出てきたときに、自分
  の視野が、映画館に入る前と少しも変わっていないのも、そのためだろ
  う。》 (鈴木晶 「自分のなかの子ども、子どものなかの自分」/前掲『シ
  ネアスト 映画の手帖』5)
 
 《かくしてスピルバーグは映画を作り続け、七〇年代にフェミニズム運動や
  ゲイ・ムーブメントとともにほの見えた家族を越える新しい連帯の萌芽は
  八〇年代になって完璧に抑止されるのであり、“スモール・イズ・ビューテ
  ィフル”も単に新しいトランジスターやICを開発するためのマキシムになっ
  てしまうのである。》 (粉川哲夫 「七〇年代の影」/前掲『シネアスト 映
  画の手帖』5)
 
 《スティーヴン・スピルバーグの作品は、「レイダース」や「インディ・ジョーン
  ズ」などを除いて、その舞台が郊外の住宅地である。(略) しかし、厳密
  にいえば、スピルバーグは彼の作品に登場する郊外居住者(サバービ
  ア)やそのライフ・スタイルを通して日常を描いてはいない。彼は、郊外の
  町というトポスが内包する病理を描いているのだ。》 (大場正明 「郊外居
  住者の病理」/前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《わが「スピルバーグの政治」にあっては、残念なことに、エンツェンスベル
  ガーの言う「抑圧的メディア作用」が余りにも支配的だ。「一人の伝達者、
  多数の受容者」という中枢司令プログラムはスピルバーグ自身をも代行
  表現者としてのみ送り出され、今のところ権力分散的プログラムに基づく
  「各受容者は潜在的伝達者」という「解放的メディア作用」に取って代わら
  れる気配はない。》 (松田政男 「スピルバーグと政治」/前掲『シネアスト
  映画の手帖』5)
 
 《彼の映画は衰退しつつある映画興行にとって一種の特効薬である。そして、
  抗生物質の投与し過ぎが、生体の抵抗力を弱めて行くように、スピルバ
  ーグの映画ばかりを人々が見続けているうちに、映画は緩やかに死に近
  づいて行く。》 (石田タク 「一九八六年に一九七九年の「1941」を見る」/
  前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 レディ・プレイヤー (5) レディ・プレイヤー1941 (4)
私は、『1941』がスピルバーグ映画の最高傑作であると思っている。そんな私が今般に観たかったのは、《バカ騒ぎ的ユーモアをぎりぎりのところまでもってゆこうとする》、いわば「レディ・プレイヤー1941」とでも言うべき映画だった。だが、実際の映画は《いささか滑稽で退屈》なものであり、《観終わって映画館から出てきたときに、自分の視野が、映画館に入る前と少しも変わっていない》のである。その『レディ・プレイヤー1』の出来具合は劇場へ行く前からVR(仮想現実)として私が予見した通りであり、スピルバーグの映画が、いやスピルバーグ自身が《緩やかに死に近づいて行く》ことを感じさせる作品だった。君はガンダムで行け、俺は伊19で行く!
 
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コメント

No title
t.matsuura URL [2018年05月14日 16時58分]

僕が映画を観ながら思い浮かんだのは
グーニーズ(1985)でした。
完成度や余韻も含めて。
それはそれで、過去の映画体験を思い出すことが
できて楽しい体験でした。
(残念ながら1941は未見です)

そしてブログに引用された「映画の手帖5」の
スピルバーグ評は、
そのまま「レディ・プレイヤー1」の評価で
感嘆しました。
まぁ、スピルバーグが変わっていないおかげで、
今回の追体験ができたのですが。
(シャイニングのパロディは酷かったですけど)

それでも原作を読んでみようという気になったので
観て良かった作品でした。

to:t.matsuuraさん
帰山人 URL [2018年05月15日 00時56分]

『映画の手帖』5で鈴木晶はこう言っている…《『グーニーズ』は最初から最後までひたすら退屈してしまった》と。酷評のようだけど、『レディ・プレイヤー1』にも通ずるものだろうと思う。言うまでもなく、『グーニーズ』はJ・M・バリーの『ピーターパンとウェンディ』を下敷きにしているわけだが、当時のスピルバーグは「ヤッパリ自分で監督したい」と思ったんだろうな、で、ちょっと大人ぶって『フック』を出したわけだ。だが、結局は「子ども目線の物語」でしか生きられないスピルバーグ、それが今回の『レディ・プレイヤー1』でよくわかるね。楽しいけれども退屈なネバーランドの住民なんですよ、スピルバーグは。

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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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