ウルスラは邁む

ジャンル:ライフ / テーマ:ひとりごと / カテゴリ:あ・論廻 [2018年01月29日 01時30分]
アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin)が2018年1月22日に死んだ。私にとってル=グウィンは、アースシーではなくてハイニッシュサイクルの人である。
 ウルスラは邁む (1)
 
 《さまざまな幻想的ビジョンを通じて、夢見ることの極限を追求したアーシュ
  ラ・K・ル=グィンのSFは、アメリカの女流SFのなかでも孤絶した存在で
  ある。(略) 彼女の声価を決定的に高めたのは一九六九年に発表され
  た『闇の左手』である。(略) この惑星の住民である両性具有人には男・
  女というもう一組の異文化理解が託されているが、この部分でも作者は
  性急な結論には至らず、ヒューマニズムと非ヒューマニズムの極限で、
  相互理解の可能性を示すだけである。(略) 『所有せざる人々』(一九七
  四年)では、隣り合う二つの惑星に資本主義と社会主義という二つの体
  制が仮託されている。この小説が提起しているのは、単にどちらがよい
  かという社会体制の得失だけではない。むしろそれが目指しているのは
  社会と人間の関わり方そのものの探求である。》 (新戸雅章 「アーシュ
  ラ・K・ル=グィンの孤独」/ 『SFとは何か』 笠井潔:編著/日本放送
  出版協会:刊 1986)
 
だから、《しかし彼女の最も予見的な言葉はその著作ではなく、2014年11月に全米図書賞を受賞した際のスピーチで述べられたものかもしれない》(「追悼、アーシュラ・K・ル=グウィン──困難な世界から「未来」を見通していた作家」/Web 『WIRED』 News 2018年1月25日)などという寝惚けたような評には首肯しかねる。他の新聞各紙などもスタジオジブリ制作のアニメーション映画『ゲド戦記』(2006)に引っ張られてか、ル=グウィンを「ゲド戦記の作者」と説くこと一辺倒で訝しい。どうせジブリ映画を引くならば、アニメ版『魔女の宅急便』(1989)のウルスラ(Ursula)に触れて、原画である〈星空をペガサスと牛が飛んでいく〉(1976)の《さまざまな幻想的ビジョンを通じて》アンシブルでル=グウィン作品と繋げる…くらいの芸当がほしい。
 
西部邁が2018年1月21日に死んだ。私にとって西部邁は、まったくでたらめな、実にいやな男だった。
 ウルスラは邁む (2)
 
 《「まったくでたらめな、実にいやな男だった、死んでもらってほんとに嬉しい」
  という伝わり方もあれば、「いろいろ失敗も錯誤もあったが、まあなかな
  か一生懸命格闘して、いいこともやったり言ったりして死んでってくれた
  男だ」という伝わり方もあって、どっちを選ぶかという選択問題があった
  時に、僕はどう考えても後者を取りたいと思う。ところで今日のこのコー
  ヒー、あなたにご馳走してもらえるんでしょう?(笑) 例えばあなたがおご
  ってくれるコーヒーについて、僕は二つのことが言えるんですよね。「よく
  もまぁ、こんなうまくもねぇこんな店、なんで選んだんですか?」とごねるこ
  ともできる。人様にまともな記憶を残したくないということを選んだとしたら、
  それでいいのかもしれないね。(略) つまり、真善美を求めないような生
  き方が考えられないのならば、それを遺さずに死ぬという死に方もまた
  考えられないのではないかと、やはりこれも「論理的」に、そうなります。
  「死」について言えば、死ぬべき時に死ぬっていうのが一番正しい。》
  (西部邁:談/「「言葉」を持って、矛盾の中へ。」/Web「ブッククラブ回」
  interview)
 
 《今日は核武装の話です。私は核武装の話は怖くていやなんですが、当ゼ
  ミナールの西部先生が「核武装の話のない防衛論は、クリープのないコー
  ヒーどころか、カフェインのない似非(えせ)コーヒーだ」といってききませ
  ん。》 (小林麻子:談/『西部邁ゼミナール』 「核武装論に本気で取り組め
  ─日本が核武装しなければならない理由」/TOKYO MX 2013年3月
  2日放送)
 
だから、《かといって西部がビビットかというとそうでもないんだけど。彼だって立場に固執するだけの話だからさ、伝統がどうしたこうしたとか》(康芳夫:談/竹熊健太郎 『篦棒な人々』 太田出版:刊 1998)などと評されていた通りに、《社会と人間の関わり方そのものの探求》に疲れたのだろう、西部邁は自裁した。「よくもまぁ、こんなうまくもねぇ死に方、なんで選んだんですか?」とごねることもできるが、それが《死ぬべき時に死ぬっていうのが一番正しい》のであれば、どう考えても《死んでもらってほんとに嬉しい》という伝わり方を取りたいと思う。但し、(煙草に対する姿勢と同様に)コーヒーに関しては、カフェインのないものを‘似非’(えせ)と言い切るところがでたらめではなかった。
 
 ウルスラは邁む (3)
アーシュラ・K・ル=グウィンと西部邁、二人の死は1960年代から1970年代までの思想の多様化と停滞が、また一つ遠のいていく現実を象徴している。けれども、《単にどちらがよいかという社会体制の得失だけ》は《いろいろ失敗も錯誤もあった》ままに放置して、〈虹の上をとぶ船〉でウルスラは邁(すす)むのである。
 
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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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