気狂いヴェルフリ再考

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2017年03月26日 23時30分]
気狂い(キチガイ)画家の作品展「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」を訪ねた時、私は笠木日南子の言に逆らって《ヴェルフリがどんな人だったか、アール・ブリュットとは何か》を考えながら観た。その後、「中日新聞」は「アールブリュットって何? 名古屋で代表的な作家の作品展」という記事を掲げた。
 気狂いヴェルフリ再考 (1)
 
 《専門的な教育を受けたわけではないのに、何かを作らずにはいられ
  ない。しかも他者からの称賛や報酬などをまるで求めずに─ そんな
  人たちによる創作を総称するのがアールブリュットといえようか。日
  本では「障害者のアート」という位置づけもされるが、リュザルディさ
  んは「まず作品を見てほしい。作家が社会的、身体的にどうであった
  かは興味がない。審美的な価値が第一」と指摘した。 美術批評を手
  がける名古屋芸術大の高橋綾子教授も、ヴェルフリが性犯罪者だっ
  たことなど作家を巡る副次的な情報にはとらわれず、作品自体と向
  き合うことを勧める。》 (三品信/「中日新聞」 2017年3月24日)
 
笠木日南子もマルティーヌ・リュザルディも高橋綾子も、《作家を巡る副次的な情報にはとらわれず、作品自体と向き合うことを勧める》。独り善がりの大きなお世話だ。
 気狂いヴェルフリ再考 (2)
 
 《デュビュッフェの定義する「アール・ブリュット」は、知的でない何か、
  制度的でない何か、という否定的な部分のかたちを既にとっている
  のであり、フーコーが『狂気の歴史』のなかで用いた言葉で言えば、
  理性の「消極性」(ネガティヴィテ)としてのかたちを既に成している。》
  (松井裕美 「狂気がかたちを成すとき ─二〇世紀初頭の芸術と図
  式的実現─」/芸術批評誌『REAR』(リア)38号 特集「障害と創造」
  p.45/リア制作室:刊 2016年11月)
 
 《(1972年)同年、ヴェルフリの作品がヴァルダウからベルン美術館
  に移管され、1975年には美術館内にアドルフ・ヴェルフリ財団が設
  立された。美術という制度の「アウトサイダー」として評価されたヴェ
  ルフリの作品は、その美術という制度の「インサイダー」の側に組み
  入れられたのだ。》 (笠木日南子 「アドルフ・ヴェルフリの作品とその
  受容」/前掲『REAR』38号 p.59)
 
おかしくないか? 笠木日南子もマルティーヌ・リュザルディも高橋綾子も、誰から何を守ろうとしているのだろう? ジャン・デュビュッフェが反知性・非理性の狂気を再発見する意で道具立てにした「アール・ブリュット」、その《消極性》から目を背けよというのか? それは、《美術という制度の「アウトサイダー」として評価されたヴェルフリの作品》を、《美術という制度の「インサイダー」の側に組み入れられた》視座に限らせようというのか? おかしいだろ、これ。
 
 《しかし、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートを障がい者の創作
  のことだと考えること(より正確に言えば、政策的ミッションのために
  意図的に誤読すること)は、障がいを社会モデル化する近年の福祉
  の理念に逆行する行為といえる。障がい者がアウトサイダーなので
  はない。美術に外側があるということの証左のひとつとして、障がい
  のある人の創作物があり、その内と外を隔てているものに対して私
  たちは常に敏感でなければならない。》 (服部正 「障がい者の創作
  行為を個人モデル化しないために」/前掲『REAR』38号 pp.28-29)
 
 《こうした、社会的排除に抵抗していながらも、単にマジョリティの価値
  観で「包摂」しようとすることで、新自由主義的な社会で再び排除の
  構造を作ってしまうという現象に対し、芸術の分野で言われている
  「社会包摂」はいかにも表面的だ。(略) 自分とは関係のないものと
  して他者化し、無自覚なマジョリティとしての視点から眺めているの
  では、結局のところ排除の構造から逃れることができない。》 (長津
  結一郎 「アール・ブリュットの先へ──「社会包摂」を手がかりに」/
  前掲『REAR』38号 p.32/p.34)
 
おかしくないか? 《作家が社会的、身体的にどうであったかは興味がない。審美的な価値が第一》というマルティーヌ・リュザルディの言は、《美術に外側があるということ》自体を否定する鈍感を示していないか? 《作家を巡る副次的な情報にはとらわれず》という高橋綾子の言は、《無自覚なマジョリティとしての視点から眺めている》に過ぎず、《結局のところ排除の構造から逃れることができない》のではないか? おかしいだろ、これ。
 
「障害と創造」を特集した『REAR』(リア)38号を読んで、私がもっとも好いと感じた話は、草間彌生に対する立岩真也の評だった。
 気狂いヴェルフリ再考 (3)
 
 《彼女は、あきらかにアタマが普通におかしいですよ。ブツブツの変に
  気持のいいカボチャとか、アタマがおかしいから創れているところが
  ある。それに感動する人がいて、それでいいなと思う。才能として、
  世に言うある種の障害が作用して出来ていることには、事実として
  認めざるを得なくて、それがよい作品を創っている限りにおいては、
  よいと言えば良い。》 (立岩真也/対談 「障害と創造をめぐって」/
  前掲『REAR』38号 p.18)
 
これは、おかしくない。《アタマがおかしいから創れているところがある》、それは草間彌生でもアドルフ・ヴェルフリでも同じだ。ところが、学芸員だの館長だの研究者だのという連中は、そこを曖昧にして遠ざける。連中はアタマがおかしいのではなくて、あきらかにアタマが普通に悪い。いったい、アドルフ・ヴェルフリが描いた「二萬五千頁の王国」は、《内と外を隔てているものに対して…》と言った場合に‘外’に位置付けられるべきなのか? そもそも、「アール・ブリュット」は、《障がいを社会モデル化する近年の福祉の理念》に従って捉えるべきなのか? 独り善がりの大きなお世話だ。
 気狂いヴェルフリ再考 (4)
 
《人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず》…芸術の関係者だか美術の専門家だか知らないが、愚かな連中の言説に耳を貸す謂れはない。こうした連中が《新自由主義的な社会で再び排除の構造を作ってしまうという現象に対し》、聖アドルフ2世が治める「二萬五千頁の王国」が狂気で芸術の分野を包摂することを私は望む。虐待も凌辱も蔑視も差別も排除も白日の下に晒して‘Zorn’(ツォルン/怒り)を撒き散らす気狂いが治める社会、その狂気に包摂された社会が具現した時にこそ、真の「アール・ブリュット」(生の芸術)が成される。
 
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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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