気狂いヴェルフリ

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2017年03月14日 05時30分]
気狂い(キチガイ)による芸術作品を「アール・ブリュット」(Art Brut/生の芸術)と呼ぶ。美術界における伝統や因習を徹底して忌み嫌ったジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet/1901-1985)が1945年頃に担ぎあげた概念である。これをロジャー・カーディナル(Roger Cardinal/1940-)は1972年頃に「アウトサイダー・アート」(Outsider Art)と訳した。要は伝統破壊や因習打破を叫ぶ者たちが、その旗幟として‘キチガイ芸術’を賛美したのである。その定義の恣意は実に生臭く、また解釈の混乱は実に生生しいので、まさに「生の芸術」と呼ぶに相応しい。そして、気狂い画家アドルフ・ヴェルフリ(Adolf Wölfli/1864-1930)の展覧会が名古屋に巡回してきた…観てみよう。
 気狂いヴェルフリ (1)
 
「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」 (名古屋市美術館)
 
 《その感想を一言で述べると、やはり「圧巻」の一言。妄想的イマジネー
  ションによるディープな物語世界が、凄まじい強度と執拗さで展開され
  ており、画面を埋め尽くす図柄、文字、楽譜から目が離せなくなる。一
  方、彼の作品にはある種の中毒性があり、没入するのは危険だとも
  思った。現在日本では、アール・ブリュットを単に障害者アートとして取
  り上げることが多い。そこでしばしば語られるのはSMAPの楽曲『世界
  に一つだけの花』的な心あたたまる世界だが、そんな価値観を持つ人
  にこそ、本展を見てもらいたい。アール・ブリュット(生の芸術)とは本
  来どういうものかが分かるはずだ。》 (小吹隆文 artscapeレビュー
  2017年1月11日/Webマガジン『artscape』 2017年2月1日号)
 気狂いヴェルフリ (2)
 《さまざまなことを考えさせられるヴェルフリの生涯と画業だが、名古屋
  市美術館で本展を担当する笠木日南子学芸員は「ヴェルフリがどん
  な人だったか、アール・ブリュットとは何か、そうしたことを知った上で
  作品を見ることにも意義があると思いますが、まず作品そのものを
  じっくり見てほしい」と語る。「粗末な紙に鉛筆や色鉛筆で手描きして
  いるのに、線や色がものすごく美しい。何を描いたものか理解しよう
  とするより、子どものように理屈抜きで見る方が楽しめるかもしれま
  せん」》 (三品信/「中日新聞」 2017年3月1日)
 気狂いヴェルフリ (3)
アドルフ・ヴェルフリには、《圧巻》を誤用する小吹隆文のようなワードサラダ(言語障害)がみられない。笠木日南子は《子どものように理屈抜き》というが、ヴェルフリに犯された幼女や少女の惨憺には理屈を抜けない。だが、確かに「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」は、《粗末な紙に鉛筆や色鉛筆で手描きしているのに、線や色がものすごく美しい》し、《ディープな物語世界が、凄まじい強度と執拗さで展開されており》、観て気圧された。ヤァさすが気狂いの連想はスゴイ、という感じ。いただけないのは、ネジ止め丸出しの貧相な額装で抑揚なく延延と並べた陳列。狂気の美術には狂気の展示で応えるべきだろう。
 気狂いヴェルフリ (4)
展覧会の副題は「二萬五千頁の王国」と仰仰しいが、「2億4千万の瞳」ほどまばゆいくらいエキゾチックではない。また、予想ほどには《ある種の中毒性があり、没入するのは危険》という感じがしない。怪異や奇矯の破綻が小さくて猟奇の不気味さが淡いので、常軌を逸した胆力というよりも伝統工芸の職人気質みたいな依怙地がみえて、違和感が足りない違和感。本当にスキゾフレニア(いわゆる‘糖質’)だったのか? 気狂いにおける分裂と偏執を読み誤っていないか? エルカ・シュペリによる「ヴェルフリの形態語彙」なども悪くはないが、もっと精神医学で細密に解き明かしたヴェルフリ論も欲しい。
 気狂いヴェルフリ (5)
面白かったのは、アドルフ・ヴェルフリの遺作「葬送行進曲」を朗読したヴィデオ。「ヴィーガ…ギーガ…スティーガ…スチーガ…」という真言は、例えば夢野久作の「キチガイ地獄外道祭文」などよりもバンビーノの「ドゥヴィザ、ウィザキソウザ、シュヴィナ、ウィザキコウザ…」という呪文に近い。聴きながら、気狂い画家ヴェルフリのタチの悪さは、虚栄心と顕示欲にまみれた芸人の長すぎるネタと大差ないことだ、と笑う。
 
 《人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから
  正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨
  むは尋常(よのつね)なり。(略) 狂人の真似とて大路を走らば、即
  ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥
  の類ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、
  賢といふべし。》 (卜部兼好 『徒然草』 第八十五段)
 
悪人の真似とて人を犯さば、即ち悪人なり。狂人の真似とて画を描けば、即ちアール・ブリュットなり。偽り飾りて賢を学ぶは、愚かといふべし。《アール・ブリュット(生の芸術)とは本来どういうものか》…さっぱりわからない。《人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず》…それは「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」を観てわかった。
 
 ※本稿の「気狂い(キチガイ)」という表現については、精神障害及び精神遅滞にある人を蔑視する悪意はない。
  但し、「キチガイ」という表現を良識ぶって軽々しく厭う者には存分に悪意を向ける。偽善者の顔見てご覧なさい、
  目はつり上がってるしね、顔がぼうっと浮いているでしょ、これキチガイの顔ですわ。

 
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鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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