いやげ者
そもそも‘いやげもの’とはなにであろうか? いったい‘のこりもの’ともちがうのであろうか?
《土産物とは、そもそも買った者も貰った者も大喜びする前提で作られるべき
ものなのですが、どうもイマイチ。いや、それどころか“一体、誰が買うんだ
ろう?”と、店先で疑問を投げかけてくる物があります。それがすなわち『い
やげ物』であって、私は何十年にも渡り日本各地を回って集めてきました。》
(みうらじゅん/「いやげ物展」)
「とんだオミヤゲだな」…畢竟‘みやげもの’は迷惑な物、その全てが‘いやげもの’である。
「国宝みうらじゅん いやげ物展 in NAGOYA」 (名古屋パルコ西館 パルコギャラリー)
《京都の人って、観光客が抱く京都のイメージを損なわないよう、正しい京都人を演じているんです。本音と建て前でいえば、建て前を重視する世界。でも、それはオレの知っている本当の京都じゃないんですよ。》(みうらじゅん:談/『フライデー』2013年7月5日号)…それは、みうらじゅんが育った地、京都に限ったことではない。どこの観光地でも、いいや、どこの土地の人でも、観光客や外来の人つまりヨソ者に対して、建て前を演じているのだ。つまり土産物とは、そもそも売る者が自らの本音ではどうもイマイチ要らないもの、なのである。みうらじゅんがワザワザ集めなくても、土産物はことごとくが‘いやげ物’なのである。
もっとも、‘いやげ物’である土産物は、旅の思い出が詰まっている物ですらない。観光や風来の記憶である‘のこりもの’は、訪ねた土地ではヨソ者だった人の脳にこそあるから…ボケたら‘いやげ物’ですらない、ただのゴミだろ。《自分にとっては、老化=進化だと思っています。(略)年をとることをある種の進化ととらえて、日々の変化を笑いたいですね。》(前出『フライデー』)というみうらじゅん自身、ボケたら‘いやげ者’になるのだ、それで好い。《自身も漫画家であり、また横尾忠則に影響を受けたイラストレーターであり、そして古今の文化に深い造詣とこだわりを持ったみうらは、自分自身も「へうげもの」であると語る。》(「みうらじゅんが教える、『ない仕事』の作り方」/『モーニングはみだし3兄弟@CINRA出張所』2013年10月31日)…‘へうげ者’だって? いや、‘いやげ者’だろ、それで好い。
だから、土産物が《買った者も貰った者も大喜びする前提で作られるべきもの》という規定も、みうらじゅんの建て前であって本音ではないハズ。この「国宝みうらじゅん いやげ物展」自体も、そもそも観せる者も観た者も大喜びする前提で作られた催事ではないハズ。この催事自体が‘のこりもの’を並べただけの、‘イヤガラセ’とシノニムでもあろう‘いやげもの’なのであって、集めた‘いやげ物’ではなくて集まった‘いやげ者’を笑うべきだろう、と思う。会場でコレクションを見ながら「なんで?」「どうかしてる!」と声をあげている観衆が多数いたが、生真面目というよりもバカである。これらバカ観衆も‘いやげ者’であり、それで好い。
そもそも‘いやげもの’とはなにであろうか? この世界は‘のこりもの’として存在しているが、人類はこの世界の‘あまりもの’であり、また‘いやげもの’である…そう学ぶ‘いやげ’催事。
《土産物とは、そもそも買った者も貰った者も大喜びする前提で作られるべき
ものなのですが、どうもイマイチ。いや、それどころか“一体、誰が買うんだ
ろう?”と、店先で疑問を投げかけてくる物があります。それがすなわち『い
やげ物』であって、私は何十年にも渡り日本各地を回って集めてきました。》
(みうらじゅん/「いやげ物展」)
「とんだオミヤゲだな」…畢竟‘みやげもの’は迷惑な物、その全てが‘いやげもの’である。
「国宝みうらじゅん いやげ物展 in NAGOYA」 (名古屋パルコ西館 パルコギャラリー)
《京都の人って、観光客が抱く京都のイメージを損なわないよう、正しい京都人を演じているんです。本音と建て前でいえば、建て前を重視する世界。でも、それはオレの知っている本当の京都じゃないんですよ。》(みうらじゅん:談/『フライデー』2013年7月5日号)…それは、みうらじゅんが育った地、京都に限ったことではない。どこの観光地でも、いいや、どこの土地の人でも、観光客や外来の人つまりヨソ者に対して、建て前を演じているのだ。つまり土産物とは、そもそも売る者が自らの本音ではどうもイマイチ要らないもの、なのである。みうらじゅんがワザワザ集めなくても、土産物はことごとくが‘いやげ物’なのである。
もっとも、‘いやげ物’である土産物は、旅の思い出が詰まっている物ですらない。観光や風来の記憶である‘のこりもの’は、訪ねた土地ではヨソ者だった人の脳にこそあるから…ボケたら‘いやげ物’ですらない、ただのゴミだろ。《自分にとっては、老化=進化だと思っています。(略)年をとることをある種の進化ととらえて、日々の変化を笑いたいですね。》(前出『フライデー』)というみうらじゅん自身、ボケたら‘いやげ者’になるのだ、それで好い。《自身も漫画家であり、また横尾忠則に影響を受けたイラストレーターであり、そして古今の文化に深い造詣とこだわりを持ったみうらは、自分自身も「へうげもの」であると語る。》(「みうらじゅんが教える、『ない仕事』の作り方」/『モーニングはみだし3兄弟@CINRA出張所』2013年10月31日)…‘へうげ者’だって? いや、‘いやげ者’だろ、それで好い。
だから、土産物が《買った者も貰った者も大喜びする前提で作られるべきもの》という規定も、みうらじゅんの建て前であって本音ではないハズ。この「国宝みうらじゅん いやげ物展」自体も、そもそも観せる者も観た者も大喜びする前提で作られた催事ではないハズ。この催事自体が‘のこりもの’を並べただけの、‘イヤガラセ’とシノニムでもあろう‘いやげもの’なのであって、集めた‘いやげ物’ではなくて集まった‘いやげ者’を笑うべきだろう、と思う。会場でコレクションを見ながら「なんで?」「どうかしてる!」と声をあげている観衆が多数いたが、生真面目というよりもバカである。これらバカ観衆も‘いやげ者’であり、それで好い。
そもそも‘いやげもの’とはなにであろうか? この世界は‘のこりもの’として存在しているが、人類はこの世界の‘あまりもの’であり、また‘いやげもの’である…そう学ぶ‘いやげ’催事。