珈琲いっぱいの世界史

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年10月18日 01時00分]
珈琲いっぱいに歴史を描くと、どうなるのか? 例えば、‘世界商品’である茶・コーヒー・砂糖・カカオ(チョコレート)など、これらの歴史を描いた日本における新書判の名著には、『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(角山栄:著/中央公論社 1980)、『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』(臼井隆一郎:著/中央公論社 1992)、『砂糖の世界史』(川北稔:著/岩波書店 1996)、『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』(武田尚子:著/中央公論新社 2010)がある。これらの本は、全き通史としては網羅に欠けるものの、各々の‘世界商品’の歴史を魅惑と露悪で活き活きと描いている。
 珈琲いっぱいの世界史 (1)
 
 《このように、モノをつうじて歴史をみることで、どんなことがわかるのでしょ
  うか。大事なことが二つあります。ひとつは、そうすることによって、各地
  の人びとの生活の具体的な姿がわかります。(略)そうした具体的な生
  活の局面がわからなければ、私たちは、その時代、その地域の人びと
  と共感しあうことができません。歴史を勉強する大きな目的のひとつは、
  そうした共感を得ることなのですから、このことはたいへん重要なので
  す。(略) モノからみた歴史のもうひとつの特徴は、世界的なつながりが
  ひと目でわかるということです。とくに「世界商品」の場合は、まさしく世
  界に通用した商品ですから、その生産から消費までの過程を追うこと
  で、世界各地の相互のつながりがみえるのです。(略) 歴史学というの
  は、たんに昔のことを調べる学問ではありません。いまある世界がなぜ
  このようになっているのか。ここにくるまでにはどのような歴史的変遷が
  あって、いまこのようになっているのか。そういうことを研究するのが歴
  史学なのです。》 (川北稔 『砂糖の世界史』 「エピローグ モノをつうじて
  みる世界史」pp.202-204)
 
 珈琲いっぱいの世界史 (2) 珈琲いっぱいの世界史 (3)
珈琲いっぱいに歴史を描くと、どうなるのか? 例えば、コーヒーの歴史を漫画で描いたものに、「マンガでたどるコーヒー歴史物語」(『HOT』 バッハコーヒーグループ:刊 1987・1988)がある。この漫画による試みは、掲載冊子の休刊により計2話8ページで半端に終わった。それから30年を経て未完の残念を晴らすかのように、田口護氏(珈琲屋バッハ)を仰ぎみる旦部幸博氏がコーヒーの歴史を描くことに挑んだ。それは、旦部氏自身が《ここにくるまでにはどのような歴史的変遷があって、いまこのようになっているのか》を自らで語ることでもある。
 
 珈琲いっぱいの世界史 (4)
『珈琲の世界史』 (旦部幸博:著/講談社現代新書 2445/講談社:刊)
 
旦部さんが前著『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』に続いて今般に著わした『珈琲の世界史』は、臼井さんの『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』とは情趣も胸懐も全く異にする。
 
 《コーヒーの歴史を知ることは、その「物語」を読み解くことに他なりません。
  歴史のロマンを玩味するにせよ、知識欲の渇きを潤すにせよ、深く知れ
  ば知るほどに、味わいもまた深まるというもの。(略) …私は一人のコー
  ヒー好きとして、せっかく味わうならば「本物の物語」を味わいたいのです
  ──誇張や脚色などの混ぜ物がない、本物のコーヒーの物語を。それ
  がこの本を執筆した動機でもあります。(略) そこで、「本が無いなら書
  いてしまえ」と、先史時代から今現在に至るまで、コーヒーが辿った歴史
  を、起源に関する再新仮説なども交えながら、できるだけわかりやすく
  本書にまとめました。》 (旦部幸博 『珈琲の世界史』 「はじめに」pp.3-8)
 
 《本書で試みたのは、コーヒーにその思うところを語らせることであった。と
  はいえ商品の常として、コーヒーもまた率直な物言いをしない。その言い
  草は思わせぶりで、まわりくどい。商品は、社会の価値本質をそれ自体
  で透かし見せる象徴的存在なのではなく、それが直接表現できない価値
  本質の方向を、別のことを語りつつ、指さすアレゴリカル(寓意的)な存
  在であるという、商品特有のひねこびた性格に由来するのであろう。コー
  ヒーの歴史から寄せ集めた事実の集積が、次第に寓話的な物語の体を
  整え始めたのは必ずしも筆者の恣意ではなかった。》 (臼井隆一郎
  『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』 「あとがき」
  p.233)
 
旦部さんは《誇張や脚色などの混ぜ物がない》「本物の物語」を求め、臼井さんは《コーヒーにその思うところを語らせる》「寓話的な物語」を追った。それを臼井さんは《筆者の恣意ではなかった》と弁明するが、『コーヒーが廻り世界史が廻る』には《その言い草は思わせぶりで、まわりくどい》ところがある。著者の《ひねこびた性格に由来するのであろう》とまで言えば臼井さんに怒られそうだが、だからこそ歴史をコーヒーに騙らせる面白さは群を抜いている。対して、旦部さんは《本が無いなら書いてしまえ》と吐露するが、『珈琲の世界史』には自らの《知識欲の渇きを潤す》ために腐心したきらいがある。《アレゴリカル(寓意的)な存在である》ことを懼れる著者の嗜癖とまで言えば旦部さんに怒られそうだが、だからこそコーヒーの歴史を語る確かさは抜きん出ている。想うことに筆を走らせた臼井本は、いわばチコリ入りのロブスタをドブ浸けで淹れて煮返したコーヒーの味わい。知ることに筆を尽くした旦部本は、いわば選び抜いたアラビカを紙フィルターで濾し淹れたコーヒーの香り。日本においてコーヒーの世界史を描いた本が対照で2冊揃ったことは、本当に喜ばしい。
 
 《つまり、専ら理系向けに書いた入門書が『コーヒーの科学』だとすれば、
  本書『珈琲の世界史』は、歴史好きな文系の皆さんに向けたコーヒーの
  入門書と言えるのです。》 (旦部幸博 『珈琲の世界史』 「はじめに」p.9) 
 
『珈琲の世界史』の帯(腰巻)には、‘Coffee ─A Cup of World History─’とある。この「コーヒー カップ一杯の世界史」との謳いは、《カップ一杯のコーヒーの中には、芳醇なロマンに満ちた「物語」の数々が溶け込んでいます》(p.3)という意味であろう。その描き出す手法を、《複数の国や地域間の関係性、コーヒーと社会や経済情勢との関係性など「横のつながり」にも着目する、いわゆる「グローバルヒストリー」方式》(p.11)とも旦部さんは述べている。確かに、『珈琲の世界史』にはネットワーク論やシステム論を意識した著述が随所に見受けられる。しかしながら、植民地主義や帝国主義やグローバリズムに対する批判的な語り口は少ない。旦部さんにすればあくまで俯瞰的に通史を編むのが目的であり、「グローバルヒストリー」といっても人類学やエスノグラフィをディシプリンの軸足としたものではない、といったところか? だからなのか、コーヒーに関して参与観察的に身近な体験を込めた記述は、前著の『コーヒーの科学』に比しても極端に少ない。結果として『珈琲の世界史』は、著者が化学や生物学など《専ら理系向け》のディシプリンに軸足を置いたままで《歴史好きな文系の皆さんに向けたコーヒーの入門書》、という新奇な本になった。 
 珈琲いっぱいの世界史 (5)
 
珈琲いっぱいに世界史を描くと、どうなるのか? 『珈琲の世界史』における俯瞰や客観に徹底する旦部さんの筆致は斬新で好い。けれども、「コーヒー カップ一杯の世界史」に込めた著者の思惑、言い換えれば旦部さん自身の‘史観’が私には見えてこない。では、それは著者の恣意や疎漏によるものか? いや、前著で《「コーヒーとはなんだろう」という根本的な、そして考えるほどに判らなくなる哲学的な疑問》(『コーヒーの科学』p.307)を自らに問うていた旦部さんが気付かぬはずはない。けれども、《歴史学というのは、たんに昔のことを調べる学問ではありません。いまある世界がなぜこのようになっているのか》と研究をすすめると、そこには自らの‘史観’あるいは‘歴史哲学’が思いのほか大きな存在と感じられるのだ。やや大袈裟に言えば、‘史観’や‘歴史哲学’は歴史学の背景ではなくて核心なのである。それに改めて気付いた旦部さんは、だからこそ‘史観’に繋がる《哲学的な疑問》を半端に語ることを抑えて今般は封印した、と私は捉える。《コーヒーの歴史を知ることは、その「物語」を読み解くことに他なりません》…そして、コーヒーの歴史を知ることは《「コーヒーとはなんだろう」という根本的な、そして考えるほどに判らなくなる哲学的な疑問》に近づくことでもあるのだ。その疑問の反芻は、私と同様に旦部さんにとっても、カップ‘一杯’にはとどまらず溢れんばかりに‘いっぱい’のはずだ。と同時に、旦部さんにすれば封印を解いて3冊目の単著を要することでもある。珈琲いっぱいに世界史を描くと、「コーヒーとはなんだろう」という疑問がますます迫ってくる。
 
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いつか魔法が解けるまで

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年10月12日 01時00分]
がいつか冷めるように、魔法はいつか解けるもの…そうなのか? そうかもしれない。話は違うが、冷めないうちにコーヒーを飲みほせないと幽霊になってしまう「フニクリフニクラ」という店さえあるのだから。また、女が取り仕切っているコーヒー屋は「ビレッジブレンド」に「小蔵屋」に「」に「タレーラン」に「ヨダカ」にと枚挙にいとまがない。だが、店主が「深煎りの魔女」とあだ名されているコーヒー屋の話となると、改めてその香味を確かめたくなる。Webサイト「小説家になろう」へ投稿された時には読み逃していたが、2017年10月の今般に加筆されて書籍になったので読んでみよう。
 いつか魔法が解けるまで (1)
 
『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち ロンドンに薫る珈琲の秘密』
(天見ひつじ:著/宝島社:刊)
 
 《自分がロンドンのカフェの戸を開き、漂う珈琲やアルコールや料理の匂い
  を嗅いだような気分になってくる。こまっしゃくれた配達少年や、新大陸
  帰りの成金親父や、老いた元炭鉱夫の声が聞こえてくるような気すらす
  る。》 《やはり最後の話がわかりにくいかもしれない。魔法をあやふや
  なものにして物語のファンタジックな雰囲気を増す手法は個人的には好
  みだが、謎解きものと絡めると難解さが増す気がする。》 (「二宮杯」主
  催 二宮酒匂の感想/Webサイト『小説家になろう』 2014年8月5日)
 
 《大英帝国・ロンドン。この街と、そこに暮らす人々を描き出す文章の巧み
  さにまず目を惹かれました。 翻訳小説を読んでいるかのような、ウィット
  に富んだ表現に、すこし小粋で心温まる人情の描写。さらには著者の
  コーヒーに対する深い知識も感じさせられます。》 (出版社講評/「ネッ
  ト小説大賞」Webサイト 2017年5月29日)
 
『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち』は、第5回ネット小説大賞(旧:なろうコン)で受賞した28作品の一つである。受賞後に「くろひつじ」から「天見ひつじ」へ名乗りが変って加筆された書籍を通読したが、先に掲げた2者の評ほどに巧みな臨場感を私は覚えなかった。しかし、例えば岡崎琢磨による「珈琲店タレーランの事件簿」シリーズでは鼻について仕方がない、そうした衒いも感じられない。もっとも、ファンタジーと謎解きが同居したオムニバスは、二宮酒匂が指摘する通りに《やはり最後の話がわかりにくい》。けれども、いわゆる「なろう系」にありがちな厭味が薄いので、全体を通じては爽快な佳作に仕上がっている。
 
 《カフェアルトなんかは特にそうで、あれは「わたしに書けるもの」ではあるけ
  ど、書店に並んでて食指の伸びるタイプの作品ではなかったりします。読
  めばおもしろいことはわかるけど、積極的に買うかどうかはわからない、
  くらいの位置づけ。》 (天見ひつじ Twitter 2017年8月26日)
 
 《ドリッパーにペーパーフィルターがセットされ、微粉になるまで挽かれた真っ
  黒な豆がメジャーカップからやや盛り上げるほどすくい入れられる。(略)
  「イタリアンブレンドのレイヴンロースト。気に入ってくれるといいのだけど」
  油分の浮いた漆黒の液体はいかにも苦そうで、男の人が好みそうなコー
  ヒーだった。(略) 「いいから、ためしに飲んでみて?」 しぶしぶうなずき、
  油分の浮くカップを吹き冷ましてから口にする。》 (「ロンドン塔の衛兵と
  おかしな秘密」/『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち ロンドンに薫
  る珈琲の秘密』 pp.137-138)
 
「夢がいつかさめる」ことを「覚める」や「醒める」ではなくて「冷める」と記す天見ひつじは、筆致自体に外連味が薄くて冷めているのだろう。《書店に並んでて食指の伸びるタイプの作品ではなかったりします》とまで言い切る姿勢、そこが好い。但し、《著者のコーヒーに対する深い知識》が充分かと問われたならば、かなり怪しいところもある。どれほど深煎りだろうが微粉に挽こうが多量に使おうが濃く淹れようが、ペーパーフィルターを透過させた液体に《油分の浮いた》状態は相応しくない。「深煎りの魔女」アルマから《油分の浮くカップ》を出されて《いいから、ためしに飲んでみて?》と言われても、私ならば紙濾しではあり得ない液体を吹き冷ます前に、胆を冷やして心も冷めるだろう。
 
 《…実はこの作品、リスペクトというかオマージュ元となった作品があります。
  それがこちらの「カフェ・ヘックス 魔女のいる喫茶店」
  (http://unisonia.jp/02a/)という楽曲で、各楽曲のタイトル名が
  カフェアルトの各話タイトルに対応しています。》 (くろひつじ 「カフェアルト
  こぼれ話」/Webサイト『小説家になろう』 2014年8月10日) 
 いつか魔法が解けるまで (2) いつか魔法が解けるまで (3)
 
さて、「カフェ・ヘックス 魔女のいる喫茶店」の楽曲7つの中で、『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち』の‘なろう版’は5話が対応していたが、今般の書籍版では2話が加筆されて(あくまで曖昧な表象としてではあるが)楽曲全てに対応が揃ったともいえる。深煎りのコーヒーを飲みながら、そして「カフェ・ヘックス 魔女のいる喫茶店」を聴きながら、『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち ロンドンに薫る珈琲の秘密』を読む、それも好ましい。コーヒーはいつか冷めるだろうが、いつか魔法が解けるまでは、「深煎りの魔女」の夢は決して冷めたりしない。
 
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みんぱく覘標

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年10月10日 23時00分]
2017年10月9日、国立民族学博物館(民博:みんぱく)のコーヒー催事を覘くために出向く。大阪府吹田市千里万博公園に駐車、太陽の塔を背後から眺めつつ平和のバラ園を散策。みんぱくが開場、まずは特別展示館で開館40周年記念特別展「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」を観る。国立歴史民俗博物館(歴博:れきはく)から始まった巡回展も翌日で全会期終了、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は日本のコーヒー史を語るに欠くべからざる人物でもある、ならば暇潰しに覘こう。
 みんぱく覘標 (1) みんぱく覘標 (2)
 
コーヒーが直接に関わる展示はなかったが、なかなかの見応え。良いけれども、続いて観た本館の地域展示・通文化展示が膨大な情報量…疲れる(笑)。シーボルトは、門人の高良斎に和訳させた『薬品応手録』(1826)の中で、《コッヒー 骨喜 胃ヲ健ニシ胸ヲ和ス 服量ニ㦮ヨリ八㦮マテ 又ヨク阿片毒ヲ消ス》とコーヒーを洋薬の一つとして紹介している。このシーボルトがコーヒー飲用を勧奨する意見を、奥山儀八郎は「シーボルト先生の珈琲販売論」と題して掲げた。
 みんぱく覘標 (3)
 
 《只珈琲飲用をすすめるに困難な事情が二つある。それは、珈琲焙煎は難
  しい技術のいること、日本人は生れつき、仏戒にふれることから牛乳を
  飲む習慣のないこと、乳は白き血にして、血を流すは罪にして、血を飲
  むことは更に罪となすことである。また日本人は無知半開からして、珈琲
  を焙煎するので、我々が賞美する飲料は味とともに炭になってしまうから
  である。それには次のようにする方法がよいと、余は蘭領印度政府に勧
  告したことがある。「毎年数千ポンドの珈琲を日本に送ること、それは焙
  り粉にしてきれいにカンかビン詰として、レッテルをはり、調理法と飲み方
  の指図書を記入すること」是れ余の切望する所なり。》 (奥山儀八郎 『珈
  琲遍歴』 旭屋出版:刊 1973年)
 
 みんぱく覘標 (4) みんぱく覘標 (5)
シーボルトは今から200年近く前の日本にコーヒー焙煎技術の駄目を出した(?)が、その約150年後に標交紀(1940-2007)は《コーヒーの味をきめるのは80パーセント以上、焙煎の技術なのだ》(『苦味礼讃』 いなほ書房:刊 1984)と言った。これは二人の意見が合っているのか? さあ、ナビひろばへ巡って、開館40周年記念新着資料展示「標交紀の咖啡の世界」を覘こう。このみんぱくに新着した「標コレクション」は、中近東文化センター附属博物館(2013年3月末から一般公開を止めて事業を縮退)への寄託品が行き場を失った挙句に回ってきたものだろう。展示の規模に、え?コレだけ?(笑) 中近東文化センター附属博物館でコレクション全品公開を謳った2011年の企画展示「咖啡がやってきた 中近東、ヨーロッパ、そして日本」どころか、それ以前に一部展示されていた時よりも貧相で、懐かしくも哀しい。
 みんぱく覘標 (6) みんぱく覘標 (7)
 
 《あそこまで味と品のある咖啡と、収集したアンティークの咖啡の道具は
  標の集大成です。神が咖啡の為に遣わした一人に違いありません。》
  (門脇祐希 「一杯の咖啡にかけるマスターの情熱。」/『しめぎさんの
  コーヒー話し』 2008)
 
 みんぱく覘標 (8)
「標交紀の咖啡の世界」の関連で催されるワークショップ「標交紀の咖啡とは?」の鼎談(門脇祐希:「コフィア」店主と菅瀬晶子:国立民族学博物館准教授と黒田賢治:国立民族学博物館現代中東地域研究拠点拠点研究員)を覘く。「昔からいつの時代もアメリカからさも最高かのようにコーヒーの潮流が入ってきた。その度に裏切り続けられたと思う人は多いのではないか」という門脇さんの正論に肯く。そのアメリカにおけるコーヒー史やスローフード運動などに標交紀のコーヒーを結びつけようと論を誘う菅瀬さんの妄言を嘲る。いずれにしても、師資に妄信し続けている使徒たる職人と皮相に解釈しようとする学者たる素人の対談が噛みあうはずもない、その漫才ぶりだけが楽しい。
 
 みんぱく覘標 (9) みんぱく覘標 (10)
コーヒーを飲めないコーヒー催事の会場を去り、コーヒーを飲むために京都の「カフェ デ コラソン」へ。ペルーを喫しながら店主(川口勝)と談議、マフィンを頬張りながらハイチのコーヒーも飲む、コレは美味いな。帰途、高速道路の渋滞の中で考える…さて、標交紀の珈琲とは何だったのだろう? 標交紀を「コーヒーの鬼」と呼ぶ限りは、標コレクションは鬼録や点鬼簿なのだろうか? それとも覘標(てんぴょう)? みんぱくは、「標コレクション」を覘標に出来ないまま持て余している。みんぱくで標を覘く…哀しくも楽しいコーヒーのみんぱく覘標を想い返した。
 
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コーヒースケッチ

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年10月01日 05時00分]
コーヒーの日」が社団法人全日本コーヒー協会によって制定された1983(昭和58)年、その日本における初の「コーヒーの日」の3日前、同年9月28日に丹羽小弥太が病死した。「コーヒーの日」の2日後、同年10月3日の『朝日新聞』に丹羽小弥太を追悼する記事「生と死 見つめて最後の言葉 力ふりしぼり歌を詠む」が載った。《最後の言葉》は聖パウロ女子修道会の月刊誌『あけぼの』による同年7月20日のインタビューに応じたもので、がんに侵されて余命幾許もない丹羽小弥太はコーヒーを語り、短歌を詠んだ。
 
 《コーヒーを飲むことが、自分の身体の状況を見る一種のバロメーターに
  なっている。好みのブレンドで入れて、ああ今日もコーヒーが飲めたか、
  やれやれと思う》
  コーヒースケッチ (1)
 「きょうもまた 朝の珈琲のみにけり ひと日重ねし事の嬉しさ」
 
初の「コーヒーの日」、その1983年10月1日に全日本コーヒー協会が発した新聞広告は、「「私のコーヒースケッチ」エッセイ・フォト・アイデア募集中。」というものだった。このコンテストの応募期間は「コーヒーの日」である10月1日から同年12月10日まで、エッセイと写真とアイデアの3部門に分かれていて、エッセイと写真の最優秀賞には(当時の芥川龍之介賞・直木三十五賞の副賞と同額の)50万円が贈られ、賞金の総額は750万円だった。
  コーヒースケッチ (2)
この翌秋、コーヒーに関する50篇のエッセイを収載した『私のコーヒー・スケッチ』(文藝春秋:編/文藝春秋:刊 1984年9月)が刊行された。
 
 《さて本書は、今春〔?ママ〕、社団法人全日本コーヒー協会が主催した
  「私のコーヒー・スケッチ」コンテストのエッセイ部門に全国から応募さ
  れた一万通近い作品の中から、コンテストとは別に“コーヒーと人々と
  の触れ合い”を主テーマに、小社出版部で選んだものであります。》
  (文藝春秋出版部長 鈴木經太郎 「あとがき」)
 
『私のコーヒー・スケッチ』には、『朝日新聞』に掲載された丹羽小弥太の短歌を引いて始まるエッセイも収められた。その作者である堀沢繁治は、脳性マヒの障害者だからこその‘極楽’を記している。
 
 《駒大の丹羽小弥太教授の死の直前の歌である。先生の置かれた状況
  に比べれば、お話にならない程、平穏であるが、日ごとの身体状態を
  知るバロメーターとしてコーヒーを飲むことは私も同じである。(略) 体
  調が良い時は三十分ほどで飲むに至る。一時間かかる日もあれば、
  それ以上を要し、放り出したくなることも、正直いってある。しかし、こ
  ういう時のコーヒーはうまい。コーヒーを入れるという肉体労働をした
  後の、渇いた喉元を通るホロ苦さは極楽以外の何ものでもない。この
  コーヒーのうまさは、苦もなく入れられる人には分かるまい。少々、不
  謹慎だが、だれにも聞こえないように、「様ァ見やがれ」と言ってみて
  は、ほくそ笑む。》 (堀沢繁治 「コーヒー・訓練・極楽」)
 
コーヒーを楽しむに、また《コーヒーを飲むことが、自分の身体の状況を見る一種のバロメーターになっている》ことに、障害者だろうが健常者だろうがそんなことは関係ない。そして、私にとって、「コーヒーの日」がコーヒー業界の《状況を見る一種のバロメーターになっている》ことも事実である。振り返ってみれば、全日本コーヒー協会による「私のコーヒースケッチ」コンテストは、協会が主催したキャンペーンの中で、僅有にしてほぼ唯一にまともだった活動であり、最初にして最後の佳局であった。いや、それも『私のコーヒー・スケッチ』という書誌へまとめられてこその好事、その点は《やれやれと思う》のであり、《「様ァ見やがれ」と言ってみては、ほくそ笑む》のである。
  コーヒースケッチ (3)
2017年10月1日、日本における35回目の「コーヒーの日」を迎えて、珠玉のエッセイ集『私のコーヒー・スケッチ』を読み返しながら、楽しくも苦しいコーヒーを味わう。
 「きょうもまた 朝の珈琲淹れにけり ひと日重ねし味の苦しさ」
 (鳥目散 帰山人)
 
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新・珈族ゲーム

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年09月26日 01時00分]
は~い! 呼ばれてないのにジャジャジャジャ~ン! …コーヒー牛乳とコーヒーコーラと、今昔とダブルカフェインで、ちょっと奇妙なゲームをまたやってみた。新たな「珈族ゲーム」…いいねえ~。
 
【新・珈族ゲーム1/雪印コーヒー 復刻版】
 新・珈族ゲーム (1)
雪印乳業(現:雪印メグミルク)は1955年に東京都内の食中毒事件を起こして、佐藤貢社長(当時)は《信用を得るには永年の歳月を要するが、これを失墜するのは実に一瞬である》(「全社員に告ぐ」)と誡めた。だが、その45年後、佐藤貢が死んだ翌年の2000年に同社は近畿一円で再び食中毒事件を起こした。「雪印コーヒー」55年記念Web限定ムービー「Now & Then」は、《昔から人は、幸せの甘さを知っている》と嘯いている。雪印メグミルクが知っているのは、《幸せの甘さ》ではなくて品質管理の甘さだろうに…。佐藤貢は《信用は金銭では買うことはできない》(前掲文)と言ったが、しかして5年8ヵ月ぶりに発売された「雪印コーヒー 復刻版」は150円で買うことができる。飲んでみよう。
 新・珈族ゲーム (2)
現行版…Camphoric(樟脳のような)、Creosol(ピリッとした苦み)、
    Roasted Peanuts(ローストピーナッツ)、Skunkly(悪臭)
復刻版…Walnuts(クルミ)、Piney(松のような)、Toast(トースト)、
    Mushroom(マッシュルーム)、Hay(干し草)
 新・珈族ゲーム (3)
当然というべきか残念というべきか、今般に「雪印コーヒー 復刻版」は2012年の「珈族ゲーム」で捉えた香味とほぼ変わらない。現行版には樟脳のような臭いがあって、復刻版の方がまだマシな香り。味は口に含んだ瞬間は復刻版の方が甘ったるいが、現行版はピリピリとした苦みがベットリと舌残りする。今般に私が飲んだ「雪印コーヒー 復刻版」は、2017年6月に学校給食の牛乳で異臭騒ぎ(衛生問題は無し)を起こしたいばらく乳業(雪印メグミルク子会社)の製造だった。しかし、コーヒー牛乳として異臭がするのは、現行版の方である。今般の復刻も、「雪印コーヒー牛乳」を発売した1963年から数えて55年記念としているが、再現したのは1970年にゲーブルトップ型パックで発売した「雪印ラクトコーヒー」である。つまり実際には48年記念? 滅んだハズの「雪印コーヒー」の5年ごとのキャンペーンは、もうゴメンだ。
 
【新・珈族ゲーム2/コカコーラ コーヒープラス】
 新・珈族ゲーム (4)
日本コカ・コーラは2011年11月に抹茶入り缶コーヒー「ジョージアクロス 和-STYLE」を発売した。その着想は大胆だったが香味は貧弱で、抹茶とコーヒーと双方の品格をサゲた。サントリーペプシコ・ベトナム・ビバレッジは2017年6月にベトナムで抹茶入り缶コーヒー「MY CAFÉ」を発売した。呆れて何も言いたくない。日本コカ・コーラは2017年9月に《コカ・コーラとコーヒーがひとつに!》と称して、「コカコーラ コーヒープラス」を自動販売機限定で発売した。炭酸とコーヒーの混成物は、2012年に発売されたサントリー「エスプレッソーダ」に限らずロクな飲料にならないが、近来は‘コールドブリューコーヒー’(水出しコーヒー)の延長にあるキワモノとして炭酸入りコーヒーが売り出されている。「コカコーラ コーヒープラス」は、これに影響を受けたのか? 売っている自販機を探して、130円で買った。飲んでみよう。
 新・珈族ゲーム (5)
現行オリジナル…Cappy(牛乳キャップ)、Kerosene(灯油)、
        Burnt(焦げ臭)、Onion(タマネギ)
コーヒープラス…Grady(庭のような)、Biscuity(ビスケット)、
        Lactic(乳製品)、Tarry(タール)
 新・珈族ゲーム (6)
当然というべきか残念というべきか、「コカコーラ コーヒープラス」は着想も香味も貧弱で、コーラとコーヒーと双方の品格をサゲた。対照に同じ埼玉工場で製造された現行オリジナルのコカ・コーラも缶入りで飲んだが、その刺激の薄い半端なコーラとも「コカコーラ コーヒープラス」は全く別物である。《アガる! ダブル・カフェイン》などと謳われているが、これならば「コカ・コーラ ゼロカフェイン」とは逆向きにカフェインだけを増量した方が、香味としてはまだマシだろう。コーヒーを足したというよりも、蒸れた庭土のような臭いと腐りかけた牛乳のような味がして、コーラでもコーヒーでもない不気味な飲料になっている。もっとも、「コカコーラ コーヒープラス」は炭酸飲料であってコーヒー飲料ではない。ならば、猿田彦珈琲監修でコーラ風味の缶コーヒー「ジョージア」をつくる? いや、想像しただけで吐き出したくなる飲料は、もうゴメンだ。
 
映画『家族ゲーム』(1983年)では主演(吉本勝:役)の松田優作がコーヒーを一気に飲み干していたが、30年後に制作されたTVドラマ『家族ゲーム』(2013年)では主演(吉本荒野:役)の櫻井翔が「ジャズ喫茶 ちぐさ」でケーキを食べたり(第2話)、「COFFEE PARK 神田白十字」でコーヒーを飲んでいた(第7話)…いいねえ~。しかし、今般の「新・珈族ゲーム」ゲームでもコーヒーを飲んだりケーキを食べたりしたくなるようなコーヒーに出会えなかった。次回作に期待す。
 
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健康は疎ましい

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年09月15日 05時00分]
私に言わせれば、コーヒーに健康を紐付(ひもづ)けて語るとロクなことはない。コーヒーにとって健康は疎(うと)ましい。
 
 《日本コーヒー文化学会は、今年12月に25年目を迎えます。この間の出来
  事を振り返ると、1995年にはアジア初の国際コーヒー科学会議(ASIC)
  が京都で開催され、コーヒーと健康問題に正面から向き合う契機となりま
  した。これ以降、有意義な研究成果が相次いで発表されています。96年
  には、今や世界を席巻するシアトル系カフェチェーンが日本に上陸し…
  (以下略)》 (『日本コーヒー文化学会ニュース』第73号 「事務局だより」
  2017年9月10日)
 健康は疎ましい (1)
この「事務局だより」の回顧談に、私は強い違和を覚える。「第16回 国際コーヒー科学会議 京都大会」(ASIC'95)でのオーラル(口頭)プレゼンテーションは計78本、そのうち生理学分野は11本(14%)だった。ポスター(掲示)プレゼンテーションは計64本、そのうち生理学分野は7本(10%)だった。本数や割合だけで意義を計ることはできないが、それでも農学分野の発表が全体の過半数を占めていたことからも、1995年のASICを《コーヒーと健康問題に正面から向き合う契機》などと括って振り返ることが私にはできない。コーヒーの消費拡大のために健康への効果を喧伝する、という業界利益の作為を感じ得る。これでは日本コーヒー文化学会(JCS)までがまるで卑しい全日本コーヒー協会(AJCA)のようであり、疎ましい限りだ。
 
 《コーヒーなしには一日が始まらぬ、仕事もはかどらぬ…という人は多かろう
  が、実はミツバチもカフェインが大好きだという。 英国の研究者らによると、
  コーヒーノキやレモンなどは、花の蜜にカフェインを忍ばせている。それを
  吸ったミツバチは花の香りを覚える記憶力が倍増し、同じ香りを求め探し
  回るようになるという。 それだけではない。タバコなどは花の蜜にニコチン
  を含ませているが、その蜜を吸ったマルハナバチは花の色を素早く覚える
  ようになることも分かった。植物は、ハチに効率よく花粉を運んでもらうた
  め、カフェインとニコチンを巧みに使っているわけだ。 働き蜂が、コーヒー
  とタバコの虜…とは微苦笑せずにはいられない発見だが、笑いを消し去る
  ような報告もある。ニコチンとよく似た構造を持つネオニコチノイド系農薬
  が、ハチたちを薬物依存症にさせているかもしれぬというのだ。 ただの砂
  糖水とネオニコチノイド系農薬が入った砂糖水を一緒に置くと、ハチは農
  薬入りのものを選ぶ傾向があった。ミツバチの記憶力を害し、命を縮める
  とされる農薬を好んで吸うというのは、立派な中毒ではないか。 欧米では、
  この種の農薬の規制が強化されつつあるが、わが国では使用が広がって
  いると聞く。働き手に、禁煙ではなく、喫煙を勧める。ミツバチたちが働か
  されているのは、そんな職場なのだ。》 (『中日新聞』 「中日春秋」/『東京
  新聞』 「筆洗」/共に2017年9月3日)
 健康は疎ましい (2)
この新聞朝刊のコラムに、私は強い違和を覚える。花の蜜に含まれているカフェインでミツバチの記憶力が向上することを、ジェラルディン・ライト氏らが科学誌『Science』で2013年に発表した。ある種のネオニコチノイド系農薬を含む蜜をミツバチが選好することを、ジェラルディン・ライト氏らが科学誌『Nature』で2015年に発表した。コラムの筆者は、《実はミツバチもカフェインが大好き》などと植物や虫には好感を示し、《立派な中毒ではないか》などと農薬や喫煙には嫌悪を露わにしている。威を借りんと研究者の報告を半端に掲げておいて恣意的で粗略な解釈を吐くとは、私には《笑いを消し去るような》コラムである。これではまるで曲解と詭弁のこじつけ集だった岩田リョウコ氏の『シアトル発 ちょっとブラックなコーヒーの教科書』のようであり、疎ましい限りだ。
 
 《「コーヒーはヒトの健康にどう影響するのか」……コーヒーの科学の中でも、
  この疑問ほど人々の興味を集めてきたものは他にないかもしれません。》
 《また積極的なアピールも考えものです。(略) ちょっと悲観的かもしれませ
  んが、コーヒーが悪者扱いされなくなる日はまだまだ先なのかもしれませ
  ん。》
 《いろいろなデメリットとメリットを天秤にかけ、「自分にとって無理のない量を
  楽しく飲む」のがいちばん健康に良い飲み方ではないでしょうか。》
 (旦部幸博 『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』 第8章「コー
  ヒーと健康」/講談社:刊 2016年)
 健康は疎ましい (3)
コーヒーに健康を紐付けて考える時に目安とするべき著述は、前掲に抄出した『コーヒーの科学』である。だが、私がコーヒーを《自分にとって無理のない量を楽しく飲む》場合は、《いちばん健康に良い飲み方》など露ほども思い遣らない。旦部幸博氏が言う通りに、《コーヒーの科学の中》では「コーヒーと健康」に巷間の興味が集まるのかもしれない。しかし、《積極的なアピールも考えもの》であることも旦部氏が言う通りである。いや、それ以上に、コーヒーの全ての中で「コーヒーとは何か?」を追究する見地では、《コーヒーが悪者扱いされなくなる日》を望むこともないし、そもそも「コーヒーと健康」など瑣末な課題である、と私は捉えている。コーヒーは嗜好飲料である。コーヒーがヒトの健康に悪影響を及ぼすことをわざわざ望みもしないが、健康に良くないと飲みたくない程度の嗜好であるならば、コーヒーなんぞ全く飲まない方がよいだろう。もちろん、営利を背負ったコーヒー業界が健康を語ることに耳を貸す必要も全くないし、語るコーヒー屋は滅(めっ)されるべきである。コーヒーに健康を紐付けて無理に語ること自体が、コーヒーを楽しく飲めない疎ましい事態なのである。
 
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よそばか走談

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2017 [2017年09月10日 23時00分]
2017年9月10日、「吉岡コーヒー」が出張喫茶店を開くらしい。「BIO Mart & Kitchen」曰く、《ネパールのコーヒー生産者ボダさんの来日中に合わせ、桜山にある「吉岡コーヒー」さんがBIOで出張喫茶を開店♪(略)ボダさん、池島さんの来店は15時前後の予定しています。ネパールでの様子など直接お話を聞くことができる貴重なひととき》と…行ってみよう!
 
 よそばか走談 (1)
陽がじりじりと射して、気温は摂氏30度を超えている秋晴れの昼下がり、自宅からゆっくりと走り始める。庄内川と矢田川を渡り、市街見物しながら南へ進み、斜めに交差する飯田街道を突っ切り、目的地へ約13.5kmを約1時間50分(信号待ち含む)。…ん? バックパックに塩が吹いている。それで好い、ココは塩付通なのだから(笑)。喫煙しながら汗が引くのを待って、「BIO Mart & Kitchen」を訪ねる。
 
 よそばか走談 (2)
昨2016年のコーヒー催事以来435日ぶりの池島英総氏に「お久しぶり」、ボダラジ・アリヤル氏には「初めまして」。出張喫茶で吉岡知彦氏の淹れたネパール・カレンダーラ(パルプトナチュラル)は、コクありキレよい甘苦で上出来。これを飲みながら、ネパールの豪雨災害や隣国インドのダージリン地方の紛争などの近況も交えて、ボダさんと談議。池島さんとも、シャンジャでのコーヒー以外の産品の流通に関して意見を交わす。私自身のコーヒー探究にとっても、意義ある時間だ。
 よそばか走談 (3)
 
 《約10年前、ネパール、シャンジャ郡は植栽されていた多くのコーヒーの木が
  切り倒されようとしていました。コーヒーの木は病気になりやすく、収穫して
  も豆はなかなか売れないといった理由で、「コーヒードリーム」を諦め、多く
  の村人は村を出て都市部や海外に出稼ぎにいってしまう状況でした。 そ
  んなシャンジャの村で、農業で村おこしをしたいと考える村人ラズさんのも
  とに、世界のコーヒーを飲んで回っていた一人の日本人がたどり着きまし
  た。「村に残って農業をするなんて、ばか者だ」と言われたラズさんと日本
  から来たよそ者池島さんが出会った瞬間です。 二人で村を奔走し、今で
  は180軒の農家がコーヒー生産に加わるようになりました。村のばか者と
  日本からのよそ者によるコーヒー生産をきっかけに村が変わっていく、そ
  んな彼らの経験は、途上国でのコミュニティ開発や日本国内の村おこしを
  考える上で様々な示唆を与えてくれるでしょう。》 (「〈よそ者〉と〈ばか者〉
  が村を変えた!? ~ネパールのコーヒー作りから学ぶ村おこし」/「シャ
  プラニール=市民による海外協力の会」 2017年9月18日催事案内
 
 よそばか走談 (4)
「吉岡コーヒー」の出張喫茶店を去って地下鉄で帰る途に、「星屑珈琲」でほろ苦いコロンビア(22g85cc濃厚ネルドリップ)を喫しながら、コーヒーの「よそ者」と「ばか者」について考える。池島さんは「よそ者」だろうし、ボダさんは「ばか者」だろうが、「よそ者」も「ばか者」も彼らだけではあるまい。世界中のコーヒー生産地域の植生にとって、栽培されるコーヒーノキは「よそ者」である。そのコーヒーの香味を嗜好して、品質やら技法やらを喧喧と燥ぐ人間は「ばか者」である。「よそ者」結構、「ばか者」上等。私もコーヒー界を走って談じて、「よそ者」と「ばか者」であり続けたい…コーヒー「よそばか走談」の半日を想い返した。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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