地界の殺戮

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2015年01月17日 05時46分]
‘その時’が来た朝、目が覚めた私は、いつも通りにマンデリンを淹れて喫しながら、不穏な気を感じていた。年末年始をはさんで3週ほど前から読み進めていた本を、読み終えようと開いたものの、全局が特別報道番組になったテレビの画面から目が離せなくなった。『ゼノサイド』(オースン・スコット・カード:著 “Xenocide”/ハヤカワ文庫 1994年8月)の後に読んでいた『天界の殺戮』(グレッグ・ベア:著 “Anvil of Stars”/ハヤカワ文庫 1994年10月)は終盤を迎え…だが、現実の‘地界の殺戮’が報じられ、本は閉じられた。
 地界の殺戮 (1)
 
‘その時’1995年1月17日5時46分52秒に発生した兵庫県南部地震は、阪神・淡路大震災を引き起こした。この当時に、私が自宅で飲んでいたコーヒーは、(欠かさず毎朝にネルドリップするマンデリンを別とすると)‘遊ブレンド’と名付けたものが最も多かった。スマトラ・マンデリンとコロンビアとグァテマラとモカ・マタリを3.5対2.5対2.5対1.5に配合したもので、これは砧の「タカノ」(高野徳太郎)のスペシャルブレンドや、それに倣った藤枝の「」(中山孝)のハイブレンドを、さらに倣い、但し混合(プレミックス)焙煎で独自に深煎りしたものである。この1995年当時の抽出方法は、(毎朝のネルドリップを別とすると)松屋式によるペーパードリップが最も多かった。1992年1月30日に、西尾の「フレーバーコーヒー」(中川正志)を初めて訪ねた際に、(Dブレンド‘静かな夜’と共に)松屋式の金枠を購入して以来、約3年の間、その松屋式の技法を独自に追究していた。しかし、震災が発したその日に、私が飲んだコーヒーは、朝のマンデリン1杯だけだった。
 地界の殺戮 (2)
その1週前の1995年1月10日には、開業して間もないコーヒー店を訪ねた。出色のコーヒーを飲ませる稀代の迷店(?)となる「東明茶館」(都築直行)である。この当時に、私が自宅で焼いていたコーヒーは、手網による直火焙煎(最大約400g投入)が最も多かった。「東明茶館」が使用する焙煎機を見た‘その時’、私は「あっ!」と喫驚の声を上げた。手網をそのまま釜型にしたような、私が理想とする極めて簡素な構造の約1kg容量の直火式焙煎機だったから。後日、この「東明茶館」の焙煎機に倣って、パンチングメッシュの釜部はそのままに電動モーターを止めて手廻しにした仕様を、同じ富士珈琲機械製作所(寺本一彦)へ特注をした。この特製の手廻し釜の焙煎機を私が入手したのは、1996年2月26日である。だが、震災が発した頃の私には、「東明茶館」の釜が垂涎の的だった。
 地界の殺戮 (3)
‘その時’1995年1月17日の約1ヵ月半前、1994年12月3日に「日本コーヒー文化学会」の第1回設立記念集会(現:年次集会の始原)に参加した。「珈琲屋バッハ」に寄って田口護・文子夫妻や中川文彦氏と歓談した後に、田口護氏とタクシーで記念集会の会場(お茶の水スクエア)へ乗り付けた。文化学会の事務局が置かれた神戸の「UCCコーヒー博物館」のあるポートアイランドが、翌月の地震で液状化するとは誰も予測できなかった。
‘その時’1995年1月17日の約3ヵ月後、1995年4月10日~14日には「国際コーヒー科学会議」の第16回京都大会(ASIC'95)に参加した。オウム真理教による‘地界の殺戮’である「地下鉄サリン事件」から3週後の開催であった。「国際コーヒー科学会議」の参加で京都にいる間に私が淹れたコーヒーは、毎朝に宿で飲んだマンデリン1杯だけであった。そして、「地下鉄サリン事件」の日に私が自宅で淹れたコーヒーも、マンデリン1杯だけだ。
 
 地界の殺戮 (4)
‘その時’1995年1月17日の4日後、1月21日に名古屋の松坂屋美術館へ「ロートレック展」を観に行った。‘Tremblement de Terre’(Earthquake:地震)と呼ばれるカクテルを愛飲したアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、自らを「大きな注ぎ口のついた小さなコーヒーポット」(大きな性器を持つ小人の身体障害者の喩え)と称した、と伝わる。この日、帰宅後に私は‘遊ブレンド’を焙煎した。だが、阪神・淡路大震災の、誰に、どのように、思いを寄せればよいのか、わからない…その頃でも、何か不穏な気を感じていた。いわゆる戦後の50周年を迎えた1995年の‘地界の殺戮’、それでも、たとえ日に1杯でも、コーヒーを喫していた。戦後の100周年、阪神・淡路大震災の50周年を迎えるまで、どれほどの‘地界の殺戮’が続くのであろうか?…その時にもコーヒーは喫されているか?
 
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ある種の冷たいコーヒーの飲み方について

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2012年08月15日 23時00分]
僕の琲後の小さな風景
  ──或いは、ある種の冷たいコーヒーの飲み方について
 
 その午後にはアート・ペッパーのサックスが流れていた。マスターの奥さん
が冷たいコーヒーの入ったグラスを僕の前に置いた。やや厚地の、立ち呑
み酒に使う、小さな受け皿がセットになったガラスの器で、テーブルに置く時
にカチンという気持の良い音がした。ビーカーに落ちた水出しコーヒーの滴
のように、その音は僕の耳にずっと残っていた。僕は大学生で、外は晴れ
た夏空だった。
 それは隣町で、店の外にはいつもコーヒーを焼く匂いがした。一日何度も
マスターがコーヒーを炒り、僕は何度もそれを覗きこんでパチパチと爆ぜる
豆の音を聞きながら焙煎室を飽きずに眺めたものだった。たとえそれが雨
の日でも、僕はぐっしょりと濡れながらバイクを走らせて隣町まで出かけて
いた。カウンター席の他にはテーブルが四つほどの小さなコーヒー店があっ
て、天井に取りつけられたスピーカーからジャズが流れていた。目を瞑ると、
閉じこもった気持ちが薄暗い店内に散らばり広がるようだった。そこにはい
つもコーヒーの優しい香りがあり、常連たちの親密な会話があった。
 僕の本当に気に入っていたのは、コーヒーの香味そのものよりはコーヒー
の風景だったのかもしれない、と今では思う。僕の前にはあの青年期特有
のギラギラと光る鏡があり、そこにはコーヒーを琲(つらぬ)き究める僕の姿
がぼんやりと映し出されていた。そして僕の琲(はい)後には四角く切り取ら
れた小さな風景があった。水出しの冷たいコーヒーは闇のように黒く、ジャ
ズの響きのように厳しかった。僕がその小さな世界を飲み干す度、風景が
僕を反覆した。
 それはまた、小さな街で愛好者がコーヒー狂になっていくための密かな記
念写真でもある。ほら、手廻し焙煎機のハンドルを軽く右手に持って、肘を
引いて、自然に廻して………いいですよ、パチパチ。
 時には人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題、とリチャー
ド・ブローティガンがどこかに書いていた、と村上春樹がどこかに書いてい
たが、時には人生はグラス一杯のコーヒーがもたらす冷たさの問題、であ
る。冷たいコーヒーを扱う店の中でも、僕はあの店がいちばん気に入って
いる。
 
 
  ある種の冷コーヒー (1)   ある種の冷コーヒー (2)
 〔参考文献〕
  村上春樹:著「僕の背後の小さな風景」
  (別冊暮しの設計7号『珈琲・紅茶の研究PARTⅡ』/中央公論社/1981年)
 
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珈琲1Q87

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2012年02月18日 06時00分]
「以無法為有法 以無限為有限」截拳道創始者の李振藩が誕生してから47年後の朝、島田市の自宅を出た私はJRと近鉄を乗り継いで大阪に向かう…「ランズボローメイズグランプリツアー」でニュージーランドへと旅立つ前に、大阪の界隈でコーヒーを喫するために。天王寺博覧会閉幕から19日後、1987(昭和62)年11月27日のことだった。
 
 
【旅の前:大阪】
 
難波に到着し、なんさん通り裏筋の「オランダ」で、ブレンド(280円)を喫飲〔Acidが生かされ独特のRichさ有.Smooth.芳香弱〕。この店のコーヒーは、「打ち返し」の中でも「半返し」と呼ばれる12杯取りのネルドリップ抽出法である(「半返し」とは3段抽出の変則ダブルドリップで、例えば抽出総量1.8リットル(1800㏄)を得るに、注湯1段目でその3分の1量600㏄を抽出してこれを取り分けておき、注湯2段目で3分の2量1200㏄を抽出、この2段目の抽出液を3段目として「打ち返し」て再抽出後に、1段目の抽出液と合わせ混ぜる手法)。なんばCITYで不味いパスタを遅い昼食にし、吉見へ足を延ばして泉南メイズで遊んだ後、難波の繁華街に戻って「モカ珈琲」でロイヤルブレンド(350円)を喫飲〔ストロングのためかAcid少.Heavy.Smooth.独特のフレーバー有〕。ミナミに来たら必ず寄る千日前の「丸福珈琲店」で、ホット(ブレンド:320円)を喫飲〔濃厚Rich.ある意味で圧倒的に美味〕。この後、江坂へ移動して、宿「第1サニーストンホテル」にチェックイン、夕食はホテル近くの「Chalon」で摂った。
 
1987年11月28日朝、ホテル部屋で持参のマンデリンを抽出し喫飲、チェックアウト。池田の「珈琲倶楽部」に行くも休み!(現「讃喫茶室」を営む浅野嘉之氏のコーヒーを私が飲む機会は、後年に東京「会庵」を訪ねるまで待つこと…飲み損ね痛恨だ:笑) 梅田に行き、「蘭館珈琲ハウス」でバタートーストを食べ、マイルドブレンド(280円)を喫飲〔クセなくBalance良.Rich少.芳香弱〕。京橋の「珈琲道」で、ブレンド(280円)を喫飲〔ネルでドバッと注湯.むらしなし.Acid有.Mild〕。さらに、「心斎橋コーヒー院」の本店へ行き、スペシャルブレンド(280円)を喫飲〔サイフォン淹.Acidは意外と少.Body欠.Smooth〕。この後、マルビル前からリムジンバスで伊丹の大阪空港へ。旅立つ直前まで大阪のコーヒーを巡り飲み歩く、2日間でコーヒー屋7店を訪ね終了。
  ※上記〔〕内表記は当時の訪店喫飲した感想メモ文言である。
 
 
【旅の中:ニュージーランド】 
珈琲1Q87 珈琲1Q87 (1) 珈琲1Q87 (2) 珈琲1Q87 (3)
空路到着したニュージーランドの空港税関で「荷に食物はあるか?」と訊ねられ、面倒臭いので「Japanese Foodだ」と応じれば「開けていいか?」、「どうぞ」…あたり一面に拡がるは、コーヒーの香り。「バッハ」のマンデリン200g、「苑」のハイブレンド100g、買い足した「珈琲道」のブレンド100g、ネルドリッパー、ミル、注湯ポット、電熱湯沸器…「私はコーヒー愛好家だ」と言ったが、怪しまれたか独り別室に連行され、ツアーの一行を約半時間待たせて足止め(笑)。クライストチャーチのホテル、チェックインして早速に持参のコーヒーを淹れて味わう。ツアーの現地ガイドや在住者によれば(事前噂通り)ニュージーランドは紅茶主体でコーヒーはインスタントが多いらしい、許せん! 巡った旅先の都市や街、時にウロウロと裏通りや地元在住者の生活圏まで散策してみたが、気が効いた感じのカフェはどこも少なく、またコーヒーはどこで飲んでも不味い。袋詰めのコーヒー豆‘Old Mill’のAfter Dinner Roastをオークランドの食料品店で買った(帰国後淹れて飲んだが、焙煎度バラバラのブレンド、豆が古く香味に力がなく不味いコーヒーだった)。旅先で最も美味しかった食事はクィーンズタウン、肉専門店で買ってホテルのキッチンで焼いた約1.5ポンドのランプステーキ、最も不味かった食事はオークランド、有名レストランのロブスター…コーヒーも食事も自前で調理が一番か?
 
 
【旅の後:東京】 
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1987年12月5日夕、成田空港から京成スカイライナーで上野、すぐ「珈琲屋バッハ」へ向かう。マスター(田口護氏)は中米視察(訪時はメキシコ)で留守、店内クリスマスツリーの飾りつけを眺めながらバッハブレンドをおかわりし、ママ(田口文子氏)や小川氏・平田氏らとニュージーランド旅行を土産話に談笑。東京都内の妹のアパートを訪ね泊まり、翌12月6日朝を迎えれば外は積雪。東京駅で上京中の愛知県人3人(大学同期の友人とその妹)と落ち合い銀ブラ、「かるとっちょ」で昼食。代々木競技場に行き開局30周年記念のフジテレビが日本公演を主催したローラースケート・ミュージカル「STARLIGHT EXPRESS」(スターライト・エクスプレス)をアリーナ席で観賞後に帰宅。
 
巨大迷路・海外旅行・ミュージカル…忙しく楽しく味わい尽くした10日間「珈琲1Q87」。
 
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1995年の自然遺産

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2011年06月26日 06時00分]
「駅弁の日」が制定されて丸2年が過ぎた日の朝、『蕎麦打』(文庫版/加藤晴之:著)を新幹線の車中で読みながら私は京都に向かう…アジアで初めて開催される「国際コーヒー科学会議」に参加するために。兵庫県南部地震により発生した阪神・淡路大震災から83日経過、地下鉄サリン事件から21日後、1995(平成7)年4月10日のことであった。
 
  ASIC95.jpg
ASIC=‘Association Scientifique Internationale pour le Café’(当時名称/現在は‘Association for the Science and Information on Coffee’に改称)の「第16回 国際コーヒー科学会議 京都大会」(ASIC'95)は、京都グランドホテル(2階)で開催された。当時、UCC上島珈琲社長の上島達司氏は、兼任する全日本コーヒー協会の会長(1990年就任)として「国際コーヒー科学会議」の日本への招致開催を進めていた。前戯行事とも解せられる1992年「国際コーヒー文化会議」の翌月には、「1991年ミス・コーヒークイーン・コンテスト」特別賞を受けた草野世湖氏を全日本コーヒー協会秘書に広告塔として起用するなど精力的に活動し、運営実行委員長として「ASIC'95」を催した。ASIC大会の日本招致は先代UCC上島珈琲創業者の悲願でもあったが、その上島忠雄氏は京都大会の実現を見届けることなく、前前年(1993年)10月31日に死亡している。
 
ASICは「コーヒーの栽培や加工に関する技術開発やコーヒーと健康に関する研究の成果を科学者や専門家が発表する国際的な集いの場」であり、京都大会では世界36ヵ国から約450人が参加した。5日間の会期で、生理学・化学・食品工学・農学の4分野に関して、オーラル・プレゼンテーションとポスター・プレゼンテーションが実施された。私は、滞在して全てに参加を果たした、科学者でもなく業界人でもない(おそらく)唯一のシロウトであった。以下は会期中に聴講したときの、私のメモ抜粋(基調講演分のみ)である(敬称は略す)。
 
  ASIC95 (1)
【第1日:1995年4月10日】
 
参加登録後、開会式に。
故・上島忠雄氏を追悼、上島達司ASIC運営実行委員長他挨拶。
 
Physiology(6講演)
 
◎古賀 良彦 「コーヒーの香りが脳機能に与える影響」
 ⇒男<女がコーヒーの香りで認知機能が改善。
   アロマを嗅ぐだけでカフェインと同作用。
   コーヒーはアロマセラピーに使用可能、精神障害にも有用かも。
  
◎山本 卓二 「コーヒーの精神生理学」
 ⇒好む飲料がコーヒー…味覚>嗅覚>体性感覚>覚醒、紅茶…視覚を挙げる。
   アロマを嗅ぐだけ、味見だけ、飲用の各々の感情プロフィールに差異。
 
◎Martijn B. Katan 「コーヒーと循環器系との課題」
 ⇒ジテルペン含有量は、焙煎度で影響しない、抽出時間とも関係ない。
 
昼食は近鉄百貨店の「鶴喜そば」で大名定食(ざるそば+天丼)。
夕食はルネサンスの「ジオ・ジオーノ」でキノコとベーコンのスパゲッティ(クリームソース)。
 
 
【第2日:1995年4月11日】
 
Physiology(4講演)
 
◎鈴木 建夫 「コーヒーはどのようにして人間の健康に影響を及ぼすか?」
 ⇒日本の農水関連の研究スタッフは2800名余、うちコーヒーについては0名、
   国内で流通膨大でも生産向上に寄与しないコーヒーは研究するな、と言わ
   れる。
 
◎Silvio Garattini 「コーヒー、カフェインおよび健康」
 ⇒喫煙者にとってコーヒーは死亡率の低下作用を促すポジティブなものといえる。
   1980年発表の「1日2杯以上コーヒー飲用者の癌性死亡率は1.7倍」が
   誤り根本。
 
Chemistry(12講演)
 
◎Werner Grosch 「コーヒー揮発性成分の機器測定及び官能分析」
 ⇒roasty,musfyはアラビカ<ロブスタ、
   sweetish,buttery,smokeyはアラビカ>ロブスタ。
 
◎David C. Hinman
  「焙煎コーヒーと粉砕コーヒーにおける固形物とヘッドスペース間のアロマの分布」
 
◎本間 清一 「インスタントコーヒーの金属キレート性物質の特性」
 
昼食は近鉄名店街の「葵」で天ざる。
夕食前に出町柳の「カミ家珈琲」でコーヒー。
夕食はカミ家の隣の「響」でわりごそば。
 
 
【第3日:1995年4月12日】
 
Chemistry(10講演)
 
◎Gary Aubrey Reinecccius 「メイラード反応(モデル反応系で行ったフレーバーの研究)」
 ⇒フレーバー成分には前駆体(中間体)がある。肉やチーズのように低温でも
   微生物等による前駆体形成を利用すればコーヒー豆をローストしなくても
   フレーバー生成?
 
PMはエクスカーション(金閣寺~平安神宮~都おどり)で休講、私は不参加で大阪へ。
昼食はお初天神の「瓢亭」で夕霧そば(1斤半)。
千日前の「丸福珈琲店」でコーヒー。
夕食は(京都に戻り)東塩小路の「本家 第一旭」(たかばし)で特製ラーメン(麺硬・葱多)。
 
 
【第4日:1995年4月13日】
 
Food Engineering(13講演)
 
◎V. D. Nagaraju, K. Ramalaxmi, P. N. Srinivasa
  「インド産低級コーヒーの噴流層による熱風焙煎」 (基調講演外)
 ⇒インド産BBB(Black, Brown, Bits)低級コーヒーを新開発SBR
   (Spouted Bed Roaster)で焙煎。
 
Agronomy(14講演)
 
◎R. A. Muller 「コーヒー栽培の将来展望」
 
◎André Charrier 「Coffea arabica L.の起源と発生学的多様性
  DNA分子マーカーによる研究」 (基調講演外)
 ⇒arabicaの起源…DNA分析ではeugenioidesがarabicaに近い(AP22参照)。
 
昼食はポルタの「田ごと」でざるそば。 
夕食前に出町柳の「カミ家珈琲」でコーヒー。
夕食は東塩小路の「新福菜館 本店」で中華そば。
夜食に「てんぐ寿司」を持ち帰り。
 
 
【第5日:1995年4月14日】
 
Agronomy(15講演)
 
◎Wilson R. Opile 「アフリカ産コーヒー概観」
  「コーヒー遺伝子資源に関するACRNプログラムに用いるアクション・プログラム」
 ⇒1993年ACRN(アフリカ・コーヒー・リサーチ・ネットワーク)設立…主な生殖質は
   コートジボアール(カネフォラ)・エチオピア(アラビカ)・マダガスカル(マスカロコフェア)。
 
◎Bungaran Saragih 「インドネシアのコーヒー 実態、問題と展望」
 
昼食は駅西の「天下一品 八条口店」で中華そば(こってり)。
PM聴講後、閉会式。
その後、西本願寺前の「西利 本店」と「亀屋陸奥」で漬物と松風を買い、
滞在中に毎日通ったポルタの「イノダコーヒ」でコーヒーと共に70余の講演を味わい返して、
帰途へ。
  ASIC95 (2)   ASIC95 (3)
 
「第16回 国際コーヒー科学会議 京都大会」(ASIC'95)は、コーヒー業界団体である全日本コーヒー協会が実質の主催者であり、コーヒー消費振興に日本が注力する姿を示威する機会として画策されたものであったと思われる。だが、これを謗り蔑むべき口実は日本のコーヒー業界には与えられない。意図がいかなるものであれ、これほど内容の充実したコーヒー関連の科学催事が行われたことはその後の日本で(現在に至るまで)無い、恥ずべき実態である。世界のコーヒー業界では自然科学分野の研究が圧倒的な細分化と専門性で先進していることを忘れたかのように、その後の日本では一知半解で愚劣な営利催事ばかりを繰り返している。‘natura non facit saltum.’(自然は飛躍せず)どころか、コーヒーに関わる業界や愛好者が飛躍を止めてしまった? こうして、1995年の「国際コーヒー科学会議」は珈琲「自然遺産」となったのである。
 
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1992年の文化遺産

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2011年05月01日 01時00分]
「ジュリアナ東京」が開店して丸1年が過ぎた日の朝、『心理療法序説』(河合隼雄:著)を新幹線の車中で読みながら私は神戸に向かう…「国際社会におけるコーヒー飲用文化」をテーマとした3日間の国際会議に参加するために。前年末にUSSR(ソビエト連邦)が瓦解し、日本のバブル景気も終息が見え始めた頃、1992(平成4)年5月15日のことであった。
 
 国際コーヒー文化会議 (1)  国際コーヒー文化会議 (2)  国際コーヒー文化会議
「国際コーヒー文化会議」は、神戸ポートアイランドのUCC上島珈琲株式会社(本社ビル3階大会議室)で開催された。隣設したUCCコーヒー博物館の開館(1987年10月1日)5周年記念と、会場であるUCC神戸新本社ビル完成披露とに事寄せた史上初の大規模催事だ。(会期中の講演内容は後に『コーヒーという文化―国際コーヒー文化会議からの報告―』という本にまとめられている。以下は会期中に取った私の講評メモ抜粋、敬称は略す。)
 
 
【第1日:1992年5月15日】
 
病老を押して挨拶に立った上島忠雄氏(当時UCC会長:故)、祝辞というより執心の吐露。
 
◎木村隆吉 「戦後日本のコーヒー飲用」
 ⇒消費(需要)側のコーヒー受容のモチベーションに関する説明が薄い。
   流通(供給)側からの計数ばかりでは、飲用の文化論は成立しない。
 
◎高田公理 「缶コーヒー文化論」
 ⇒「缶」という形状・形態・材質・機能による缶コーヒーの影響分析が欲しい。
 
◎小松左京「日本の喫茶店文化の変遷」
 ⇒役所・郵便局・公園など公共的施設に喫茶店を作る提言は興味深い。
 
◎Bekele Engida 「エチオピアのコーヒーセレモニー」
 ⇒セレモニーが精神病の治療としても機能するらしい、文化的依存症候群に
   心理療法の場としてコーヒーセレモニーが関わっているのか?興味深い。
 
 
【第2日:1992年5月16日】
 
◎Peter Langhammer 「ウィーンのコーヒーハウスの始まり」
 ⇒チップ制がヨーロッパのカフェ経営の重要な要素(byにしむら珈琲:川瀬)
 
◎吉永陽三 「有田焼とマイセン焼」
 ⇒他所の陶石・陶土と混ぜる必要がないことが有田焼の磁器焼成先行理由…
   ナルホド。但、現在の有田焼は天草陶石を使用している…ナルホド。
   
◎Ian Bersten 「コーヒー抽出器具の発達史」
 ⇒浅く煎り薄く淹れるアメリカンコーヒーを決定付けたのがパーコレーター?
   アメリカにおけるパーコレーターの普及時期が重要な課題となる。
 
◎Daniela U. Ball 「コーヒーポットの変遷」
 ⇒トルコでのコーヒーカップの大きさに関して、BerstenとBallが激しく論争。
 
◎Keble A. Munn 「ブルーマウンテンコーヒー飲用の普及」
 ⇒Q:ブルマンの樽詰出荷はいつから何故? A:いつからか不明。船荷に適?
 
◎Alexandre F. Beltrao 「コーヒー飲用の文化的考察」
 ⇒クォータ制復活と機構の再編を目指すのは好いが早く、無駄無理になる。
 
 
【第3日:1992年5月17日】
 
◎石毛直道 「日本の茶とコーヒーの重層構造」
 ⇒スパイスでもミックスは七味だけの日本ではブレンドという概念が希薄…
 
◎Hernan Uribe Arango 「コロンビアコーヒー」
 ⇒Q:改良品種のフレーバー低下していないか? A:低下なし。品種より地域差。
 
◎Timothy J. Castle 「アメリカにおけるコーヒーの飲用」
 ⇒スペシャルティコーヒーの定義に特に定めはない。一つの目安は豆で販売。
 
 国際コーヒー文化会議 (3)  国際コーヒー文化会議 (4)  国際コーヒー文化会議 (5)
座長(コーディネーター)役の木村治美氏は「私はコーヒーについては全くの素人」を連発、ゲストスピーカーの専門的な説明を陳腐化し感覚で捉えて俗化する妨害進行に辟易する。参加登録費30,000円を払い安宿に連泊して3日全参加した素人研究家(私)は立腹、2日目は「にしむら珈琲店」(本店)で、3日目は「萩原珈琲」(珈琲倶楽部)で、癒される。
 
閉会後にUCCコーヒー博物館を見学、戯れでコーヒークイズに挑戦すれば偶然か当然か全問正解のサイレンが鳴り響き(当時の仕様)、気恥ずかしくも景品コーヒーカップを受く。会場を離れ、南京街の「老祥記」に行って豚まん40個を購入したが、帰途の新幹線内で八角弁当を平らげた後に、土産の豚まん半量を胃に入れてしまう毎度の失態を演じた。
 
「国際コーヒー文化会議」は、協賛名目のUCC上島珈琲が実質の主催者であり、完成した新本社ビルと同時に創業者・忠雄氏から長男・達司氏への承継体制を披露する機会として画策されたものであったと思われる。だが、これを謗り蔑むべき口実は日本のコーヒー業界には与えられない。意図がいかなるものであれ、これほど内容の充実したコーヒー関連の文化催事が行われたことはその後の日本で(現在に至るまで)無い、恥ずべき実態である。会期中に発表された「神戸 コーヒー宣言」の主旨、「国際コーヒー年」の設定も雲散霧消だ。1992年の「国際コーヒー文化会議」と「神戸 コーヒー宣言」は珈琲「文化遺産」となった。
 
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マッチはカジの元

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2011年01月23日 05時30分]
先日帰省の折、実家に置いてあった私物の整理を促された。私が学生だった頃に集まったマッチ(燐寸)20箱程度である。そんなものがあること自体忘れていた。居合わせた我が子の「どうしてこんなにマッチがあるの?」という反応に私が驚く。喫茶店・飲食店に行く毎にマッチが増えていく…無論の当然が昔日となっていた。自宅に戻って半ば埃をかぶった帽子入れを取り出し、久しぶりに蓋を開けてみた。

 珈琲店燐寸
 
そこには、甘酸っぱい感傷とせつない追懐が、無数のマッチの姿で詰まっている。ここ20年より以前に入手したものばかり、特にコレクターでもなかったのだが。店名だけ聞いてどこのどのような店か思い出せなくても、マッチラベル(燐票)を目にした途端に店の様子や感じた味、抱いた印象まで思い起こすから不思議だ。
  
 珈琲店燐寸 (1)
 
「あの香味がもう味わえないのは残念」、「マスターも意気盛んひたむきだったな」、今は無きコーヒー店には懐旧の情を、今も有るコーヒー店にも時の流れを、思う。コーヒー(に限らず飲食店で)は、当時の商品自体を残しても飲用(食用)に適わぬ、そう考えるとマッチラベルには写真や訪店メモとも異なる想起の力があるようだ。あの当時はマッチが店を体現するモノなどとは深く思っていない、心情の身勝手。
 
 珈琲店燐寸 (2)
 珈琲店燐寸 (3)
 
「マッチ一本、火事の元」なる俗な標語が世間の用に供したことも今は昔となった。だが無粋な100円ライターなんぞにその座をあけわたす前、また醜悪なる嫌煙の時流が来たる前には、マッチ一本でも、そしてマッチラベルも、タバコは勿論にコーヒーにもマッチして「マッチ一本、味(あじ)の元」であり「香時(かじ)の元」だった。
 
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その美味い店

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:回顧編 [2009年06月02日 01時00分]
その美味いコーヒーに出会ったのは、ずいぶん前のこと。
 
某日、私の高校時代の恩師に、彼の転勤先の近くの喫茶店を教えてもらった。
早速出向くと、紹介通りの落ち着いた雰囲気の喫茶店ではあったが、
(率直で申し訳ないが)肝心のコーヒーそのものは美味しくない。
私の後ろに座った中年男性二人が、近場の喫茶店のうわさ話をしている。
「そういえば市役所の近くでやっている店のコーヒーはウマイっけやあ」
「あぁ、あそこは自分ちで豆からいってるずらぁ」
盗み聞きするつもりはなくても聞こえる大声、その内容、聞き捨てならん。
 
そして、「市役所近く」を頼りに探し出して出逢った、自家焙煎コーヒーの店。
 
その前からもその後も、おそらく何百という珈琲店をめぐり歩いた。
自分で焼いたことも数知れない。
だが、自家焙煎では比較的浅めの部類に属するコーヒーで、
その芳香がその店を超えたコーヒーには出会えない。
当然、私はその店の常連となった。
今は、帰省の折に年数回訪ねるのが精一杯だが・・・
 
今日でも、
「日本国内の珈琲店であと1回だけコーヒーが飲めます。選んでください」
と言われたならば、「大坊」か「その」店か、迷うなあ。
私にとっては、そういう空間でそういう至福の一杯を味わえる店である。
静岡県藤枝市にあるコーヒーの「苑」(その)、美味い店である。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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