君よ憤怒の皮を被れ

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月10日 01時30分]
夜に新宿で駅の東口側から角筈ガードを潜ると刑事に追われているんじゃないか、西口側へ抜けると旧青梅街道を馬が集団で駆けてくるんじゃないか、そういう気分になったことは何度もある。だが、追っていた下川辰平(1928-2004)も追われていた高倉健(1931-2014)も死んでもういない。そして、原田芳雄(1940-2011)も大滝秀治(1925-2012)も死んでもういない。駆けてきた馬に乗った気分でスキャットを口ずさみながら新宿西口を南下したくても、沢田靖司(1939-2017)も昨年4月18日に死んでもういない……《男にはね、死に向かって飛ぶことが必要な時もあるんだ》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 君よ憤怒の皮を被れ (1) 君よ憤怒の皮を被れ (2)
 
  ダーヤラーダヤララダヤララー ダーヤラーダヤラダダヤララー
  ダヤラーヤラダーヤラダーヤラー ダヤラーヤラダーダヤラーァー ♪
 
『マンハント』(追捕) 観賞後記
 
 君よ憤怒の皮を被れ (3)
このリメイク映画は、始まってスグに主役のドゥ・チウ(チャン・ハンユー:演)が「孤独の逃亡」(杜丘之歌/『君よ憤怒の河を渉れ』主題歌/青山八郎:作曲)を口ずさみ、敵役のレイン(ハ・ジウォン:演)とドーン(アンジェルス・ウー:演)とも『君よ憤怒の河を渉れ』の台詞を話題にする。直後にレインとドーンが服をはためかせて背中合わせに拳銃をぶっ放してヤクザを皆殺しにする待ってましたの‘ジョン・ウー・アクション’、そのBGMは「孤独の逃亡」。ジョン・ウー監督、よくやった! 泣けてくるぜ! …ん? チョット待て? 『マンハント』の杜丘(ドゥ・チウ)は「濡れ衣を着せられて逃げる杜丘(もりおか/高倉健:演)と追う矢村(原田芳雄:演)と助ける真由美(中野良子:演)」という映画を熟知している上で、同名の矢村(福山雅治:演)や真由美(チー・ウェイ:演)と一緒に逃亡劇を再現していくのか? オカシイだろ、ジョン・ウー! 《なぜだ、なぜなんだ》……《あなたが好きだから》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 
 君よ憤怒の皮を被れ (4)
大映を倒産させた永田ラッパ雅一が製作(新・大映と永田プロ)で佐藤純彌と高倉健が東映を外れて初に監督と主演で配給は松竹という映画『君よ憤怒(ふんど)の河を渉れ』(1976)は、整合の欠片も無い無茶苦茶な痛快娯楽作品だった。そのリメイク映画(実際は西村寿行の原作小説『君よ憤怒(ふんぬ)の河を渉れ』の映画化権再取得)である中国映画『マンハント』(追捕/2017)は、ある意味で旧作の続編のようだ。意味もなく武闘に強すぎる中国人弁護士、湯川学比古清十郎にしかみえない捜査一課係長、中国(大陸本国も香港も台湾も含めて)へも日本へもウケを狙った八方美人の演出、整合の欠片も無い無茶苦茶な痛快娯楽作品に仕上がっていた……《見たまえ、あの青い空を。歩いていくんだ。君はあの青い空に溶け込むことができる》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 
 君よ憤怒の皮を被れ (5)
映画『マンハント』は、オール日本ロケの中国映画でもスケール感は弱いし、アクションはともあれ情感で追い込みまくって爆発させる‘ジョン・ウー節’も中途半端だが、何故だか‘憤怒’しきれない愛嬌のある作品だ。ちなみに、女優陣は全員どヘタクソだが愛嬌がある。ここを「マンハント」じゃなくて「ウィミンハント」して、「追捕」じゃなくて旧作の「追補」版と捉えて、「君よ憤怒の皮を被れ」と勝手に改題しておこう。
 
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怒りは笑いを来す

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月07日 01時30分]
エビング広告社のレッド・ウェルビー(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ:演)は、“A Good Man Is Hard To Find”(善人はなかなかいない)を読んでいた。
 怒りは笑いを来す (1)
 
 《犯罪のほうは問題じゃないんだ、人殺しでも、タイヤをはずして盗んでも、
  なにをしようとね。どうせおそかれ早かれ、自分のしたことは忘れてしま
  って、ただ罰を受けるだけになるんだ。》 (フラナリー・オコナー 「善人
  はなかなかいない」/『善人はなかなかいない』 横山貞子:訳/筑摩書
  房:刊 1998)
ミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド:演)は、後悔の自責をすり替えて他人を攻める気狂(きちが)いクソババアである。STILL NO ARRESTS?…
 
 《もし、イエスが言ったとおりのことをやらなかったとすれば、おれたちとし
  ては、残されたわずかな時間を、せいぜいしたいほうだいやって楽しむ
  しかないだろう──》 (フラナリー・オコナー 「善人はなかなかいない」
  /前掲書) 
ビル・ウィロビー(ウディ・ハレルソン:演)は、身勝手な善良を演じて独りよがりに自滅していく末成(うらな)りグズ保安官である。HOW COME, CHIEF WILLOUGBY?…
 
 《人生に疑問をもたずに一生すごす人もいれば、なぜ人生がこうなのか、
  わけを知りたがる人もいるもんだ。》 (フラナリー・オコナー 「善人はな
  かなかいない」/前掲書)
ジェイソン・ディクソン(サム・ロックウェル:演)は、求めるべき正義も判らない劣等と愚鈍の鼻摘(はなつま)みバカ巡査である。RAPED WHILE DYING…
 
 怒りは笑いを来す (2)
ミルドレッドとウィロビーとディクソンの人生は‘ebbing’(漸次的下降中)である。だから、3つの看板広告が掲げられた田舎町は‘Ebbing’(エビング)だったのかもしれない…
 
『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri) 観賞後記
 
 《私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受けいれ
  る準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭
  は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実と
  は、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。》
  (フラナリー・オコナー 「自作について」/『秘義と習俗』 上杉明:訳/春
  秋社:刊 1999)
 
 怒りは笑いを来す (3)
このフラナリー・オコナーの言は、映画『スリー・ビルボード』をつくったマーティン・マクドナー(脚本・監督・製作)の企図と読み換えてもよいだろう。その企図を舞台演劇の劇作家らしい脚本に載せたマーティン・マクドナー、馬小屋自殺や鹿遭遇や兎スリッパ問答などの‘エビング’な俗っぽい演出には興を殺がれたが、結果として傑作。
 
 怒りは笑いを来す (4)
この『スリー・ビルボード』という作品では、‘anger begets anger’(怒りは怒りを来す)という真実だけが《われわれが立ち戻るべきなにか》を示している。ウィロビーは末成りのまま死に、ディクソンは鼻摘みのまま暴力の対象を人種から犯罪へすり替え、ミルドレッドは気狂いのまま孤軍奮闘から共闘へ移る。それらは皮相な手段の変更であって、‘改心’などでは全くない。また、救済だの啓示だの恩寵だのと言っても、それらは神の意志そのものではなくて、人間の欲を投影したいわば3つの看板広告でしかない。‘神の恩寵’は神のものであり、‘怒りは怒りを来(きた)す’という真実は人のものであり、この二つに繫がりはない。神は無責任であるが、人間はさらに無責任なのだ。「善人はなかなかいない」という意味はそういうことであり、ブラックコメディ映画『スリー・ビルボード』の効き目もそこにある。怒りは笑いを来す。
 
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ラストオーダー

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年12月23日 01時30分]
フォースの興醒め」(The Force Chills)と私が名付けたエピソード7(TFA:2015)、その公開から約1年後の2016年12月27日にキャリー・フィッシャー(レイア・オーガナ:役)が死に、翌28日に母デビー・レイノルズが死んだ。その最期から約1年後の2017年12月14日に「スター・ウォーズ」の映画制作会社20世紀フォックスはファースト・オーダーたるウォルト・ディズニー社の傘下となることが発表され、翌15日にエピソード8『最後のジェダイ』(TLJ)が公開された。キャリー・フィッシャーが1987年に上梓した「崖っぷちからのはがき」(Postcards from the Edge/映画化邦題『ハリウッドにくちづけ』1990)から30年が経っていた。エンドアの戦いからも30年が経ち、オク・トーの崖っぷちに立つ最後のジェダイ。エピソード8(TLJ)は、30年をタイムトラベルする映画『LOOPER ルーパー』(2012)と同様にライアン・ジョンソンが脚本と監督を担った。何だか嫌な予感、いや悪寒(chills)がする…
 ラストオーダー (1) ラストオーダー (2)
 
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(STAR WARS: THE LAST JEDI) 観賞後記
 
 《「スター・ウォーズ」は、善玉敗退の部分なので、気分はハッピーといいか
  ねるが、スペクタクルと特撮技術を満喫した。このままつづくと、ルーク・
  スカイウォーカーとレイア姫の役者さんが老けてしまうのではないかと案
  じていたが、この二人は次の作品で出演を終え、全九作にぶっ通して出
  るのは、ロボットのみときいて、頭のいい作り方だと感心した。》
  (小林信彦 『地獄の観光船 コラム101』/集英社:刊 1981)
 
1980年にエピソード5『帝国の逆襲』(ESB)を観た小林信彦は折角《頭のいい作り方だと感心した》が、スバラシイ(?)、その言葉の全てが間違っている。2017年のエピソード8『最後のジェダイ』(TLJ)は、《ルーク・スカイウォーカーとレイア姫の役者さんが老けて》出てきたし、《気分はハッピーといいかねる》上に《スペクタクルと特撮技術を満喫》できなかった。シリーズ最長の152分となった『最後のジェダイ』は、『帝国の逆襲』と同様に《善玉敗退の部分なので》、世界観の膨らませ具合を落ちついて追えるだけに退屈は少ない。しかし、ローズ・ティコ(ケリー・マリー・トラン:演)にしろアミリン・ホルド(ローラ・ダーン:演)にしろDJ(ベニチオ・デル・トロ:演)にしろポーグにしろ、新キャラを物語に載せることへ気張った割に結局は有効に使えていない。この点では、全滅死を描いた単なる戦争映画『ローグ・ワン』(2016)にさえ劣る。《失敗こそ最高の師》というヨーダの教えは、これまでのエピソードで活かされてこなかったが、ライアン・ジョンソンへも届かなかった。
 
 ラストオーダー (3) ラストオーダー (4) ラストオーダー (5)
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』では、カイロ・レン( アダム・ドライバー:演)の正体が前エピソード7(TFA)と後エピソード9の監督であるJ・J・エイブラムスであることを見抜いて、スノークが《お前はダース・ベイダーじゃない。マスクを被ったただの子供だ》と真を突く。そして、ファースト・オーダーの指導者であるスノークが死に(?)、ジェダイ・オーダーのマスターであるルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル:演)も死んで、闇と光、双方の騎士団(オーダー)を操る最高指導者が20世紀フォックスまで闇へ引き込んだディズニー社であることも明瞭となった。遠い昔のはるかかなたの「おとぎ話」シリーズが、地球上の生臭い話にされてしまったのである。「スター・ウォーズ/ラスト・オーダー」(STAR WARS: THE LAST ORDER)と改題するべきであろう…このサーガのラストオーダー(打ち止め)は何時だ?
 
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希望なき世界

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年12月13日 05時30分]
MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の映画に興味はないが、DCEU(DCエクステンディッド・ユニバース)の映画は一つ置きに観てきた。第1作『マン・オブ・スティール』(2013)と第3作『スーサイド・スクワッド』(2016)は観ないで、第2作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)と第4作『ワンダーウーマン』(2017)を観た。ガル・ガドットの‘大穴’(ダイアナ)が観られたから、それでよかった。だから、『DCスーパーヒーローズ vs 鷹の爪団』(2017)の予告編を観てこれが第5作だと思った私は、本編が公開されても劇場へ行かなかった。そして、第6作であろう作品を観に行って、その映画『ジャスティス・リーグ』が観てはいけない本当のDCEU第5作と気付いた。まぁいい、ガル・ガドットの‘大穴’が観られるから、それでよい。
 希望なき世界 (1) 希望なき世界 (2)
 
『ジャスティス・リーグ』(Justice League) 観賞後記
 
 希望なき世界 (1) 希望なき世界 (3)
この映画は、カル・エル(ヘンリー・カヴィル:演)が死んだ『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の続編だと思っていた。だが、追加撮影とポスプロの最中にザック・スナイダーが監督を降板したのは、2017年3月20日に長女オータム・スナイダーが‘suicide’(自殺)したからで、つまり『ジャスティス・リーグ』は『スーサイド・スクワッド』の続編でもある。予告編では‘World without hope’(希望なき世界)という見出しのデイリープラネット紙、これはザックとデボラのスナイダー夫妻に相応しい。また、本編の冒頭では‘Did they return to their planet?’(彼らは星に帰ったのか?)という見出しのメトロポリスポスト紙、カル・エルを挟んでデヴィッド・ボウイ(2016年1月10日没)とプリンス(同年4月21日没)が掲げられていた。並べるならば、カル・エルよりもレナード・コーエン(2016年11月7日没)こそが相応しい。そのレナード・コーエンを冒瀆するように、オープニングでシグリッドが「エヴリバディ・ノウズ」を歌っていて耳障り。さすが、監督を引き継いだMCU『アベンジャーズ』陣営のジョス・ウェドン、DCEU作品も唾棄すべき軽薄へと落とした。
 
 希望なき世界 (5) 希望なき世界 (6) 希望なき世界 (4)
映画『ジャスティス・リーグ』の救いは、DCEU前4作よりも短い120分であったことと、ダイアナ・プリンス(ガル・ガドット:演)がカッコイイことだけである。「ペット・セメタリー!」と言ったバリー・アレン(エズラ・ミラー:演)には「そう責めたりいな」と笑えたし、「ドストエフスキー!」という「白痴」的挨拶にも笑ったが、とにかく他のキャラが喋り過ぎ。ヘタな大喜利でウンザリさせられる近来の「笑点」のようだ。『ジャスティス・リーグ』は、やはり『スーサイド・スクワッド』の続編としか言いようがない、パラデーモンより雑喉っぽい映画だった。さて、次のDCEU第6作は「希望なき世界」を脱するのか?
 
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ロボット刑事の続き

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年11月01日 23時30分]
リック・デッカードは最初のブレードランナーではない。アラン・E・ナースの“The Bladerunner”が刊行された1974年、フィリップ・K・ディックは自ら「2-3-74」と呼ぶ幻覚を体験した。その後、ナースの作品を元にウィリアム・S・バロウズが映画ではない“Blade Runner (a movie)”を著した(1979年/日本語訳版は1990年)。さらに、その名を借りて、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年/日本語訳版は1969年)を原作とした映画『ブレードランナー』が1982年の夏に公開された。その115日前の同年3月2日、フィリップ・K・ディックは映画『ブレードランナー』を観ることなく死んだ。
 ロボット刑事の続き (1)
 《行年五十三歳。死と救済をテーマにしたヴァリス二部作をかたみに、白玉楼
  中の人となったのか、阿迦奢に安らいだのか、問いかけても答える声は聞
  こえない。伝統の先端に立つディックは常に前衛でありつづけたが、それ
  は同時に誤解されつづけたことをも意味する。(略) 作家の死に哀悼の意
  を表するにはその作家と正面きって対決するしかない。われわれにはその
  作業が残されているのである。》 (大瀧啓裕 「Adversaria 追記」/フィ
  リップ・K・ディック 『ヴァリス』 サンリオSF文庫 1982)
 ロボット刑事の続き (2)
幻覚「2-3-74」に端を発して著され《死と救済をテーマにしたヴァリス二部作》、そのサンリオSF文庫版のカバーは藤野一友の絵が飾った。藤野一友とアラン・E・ナースとフィリップ・K・ディックは同じ1928年に生まれたが、藤野はディックより早い1980年に死んでいた。《作家の死に哀悼の意を表するにはその作家と正面きって対決するしかない》…1982年の夏、私は映画『ブレードランナー』を観た。サンリオSF文庫の『ヴァリス』と『聖なる侵入』の2つを携えて…2つで充分ですよ、わかってくださいよ。
 ロボット刑事の続き (3)
 《この辺で僕らはすでに、たとえばハンフリー・ボガートやアラン・ラッドが四〇
  年代に主演していた、中近東もしくは極東スパイアクション物を思い出し、
  なんとなくニヤニヤしてしまう。(略) これはつまりは、例の『アウトランド』
  を第一作とした、アラン・ラッド・ジュニア率いるラッド・カンパニーの、いたっ
  て当然な展開であろう。なぜならば、イオの鉱山町での暴力沙汰を描いた
  あれが、いたってダシール・ハメット的であったように、しがない特捜員の、
  自省まじりの捜査を描いたこれが、レイモンド・チャンドラーを思わせる事
  しきりだからであって、つまりラッド・カンパニーのSF映画作りとは、そうい
  う風なのである。》 (石上三登志 「ブレードランナー」/『キネマ旬報』 19
  82年8月上旬号/『SF映画の冒険』 新潮文庫に収載 1986)
 ロボット刑事の続き (4)
 《もうむしろその未来の世界がどよ~んとしてこりゃビチョビチョビチョビチョ濡
  れている、そのこの凄さの中からこの一つの映像世界がクッキリとこう浮か
  び上がってくるという、そういう作品です。(略)で、 そういう点ではむしろこ
  れはあのアメリカのハードボイルド小説の骨法を踏まえているという、こう
  いうことを言ってらっしゃるこの評論家もおられまして、私これは卓見だと思
  うんですけれども、もう一つ、この作品は実はあの1920年代の終わり頃
  から30年代のあのヨーロッパ映画、特にあのドイツなんかで作られたこの
  SF的な怪奇映画、あの伝統が非常に見事に新しい映像に活かされている、
  これが私素晴らしいと思いますね。(略) そして、この映画に出資しました
  のは香港の邵逸夫(ランラン・ショウ)でした。》 (荻昌弘 「月曜ロードショー」
  『ブレードランナー』 TV放映解説 1986)
 ロボット刑事の続き (5)
フィリップ・K・ディックの行年に達した私は、2017年の秋、映画『ブレードランナー 2049』を観る前に、そのプリクエル(前日譚)をWeb動画で観た。私は、ウィリアム・S・バロウズの祖父が作ったバロウズ社にランラン・ショウあたりが出資してローゼン協会やタイレル社を名乗っていると思っていた。だが、そのタイレル社も倒産してウォレス社に買収されていた、「ブレードランナー ブラックアウト 2022」と「2036:ネクサス・ドーン」と「2048:ノーウェア・トゥ・ラン」という短編3つによれば…2つで充分ですよ、わかってくださいよ。
 ロボット刑事の続き (6)
 
『ブレードランナー 2049』(Blade Runner 2049) 観賞後記
 
♪ さけぶサイレン ライトはまわる 事件だ‘ジョーカー’空飛ぶパトカー
  ネクサス・エイトは邪道の天使 世界を悪に染める者
  さがせとらえろロボット刑事 ロボット その名はK K ロボット刑事K ♪
 ロボット刑事の続き (7)
Kは人間のブレードランナーではない。K(KD6-3.7/ライアン・ゴズリング:演)が乗るスピナー(空飛ぶパトカー)の名は‘ジョーカー’である。Kには‘ジョー’という名も与えられていたので、これは当然である。ロボットは機械だと人は言う。だがKは違う。Kは人間の感情を持っている。Kは思いやりも持っている。Kに恥じないだけの人間がどれだけいるだろうか? ──『ブレードランナー 2049』は、『ブレードランナー』の続編というよりもスピンオフであり、正しくは特撮TV番組『ロボット刑事』(1973)の44年ぶりの続編であった。
 
映画『ブレードランナー 2049』は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ(監督)がハンプトン・ファンチャー(原案・脚本)の筋立てをロジャー・ディーキンス(撮影)の映像で描き上げた佳作である。リドリー・スコットが昔に『ブレードランナー』を不朽の傑作とした功績は大きいが、近来は『エイリアン』(1979)の前日譚を駄作で穢し続けている。だから、今般は監督にならなくて本当によかった、と私はつくづく思う。ネクサス6型であるリドリー・スコットの無知なる混沌の臭いを‘リタイア’させた『ブレードランナー 2049』、そのネクサス9型であるヴィルヌーヴの力量には脱帽するしかない。巷間では映像とともに音場を褒めている声も多いが、私にはハンス・ジマーの音楽が『ダンケルク』(2017)に続いて過剰で煩(うるさ)い。それでも間延び必至のショットを音で延ばし繋げて、163分を長尺と感じさせなかったところは見事。
 ロボット刑事の続き (8)
 《にもかかわらず、僕らの“生”は、どう考えてもSF的な時代にあるがゆえに、
  むしろレプリカントたちのそれに等しいと、とにもかくにも屈折する。そう、
  リック・デッカードが結局気付いたように……。》
  (石上三登志 「ブレードランナー」/前掲書)
 ロボット刑事の続き (9)
「知る覚悟はあるか──。」…どうでもよい愚かな問いかけだ。エドワード・ガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス:演)が折り紙で‘ユニコーン’を作ってから‘羊’を作るまでに30年が経っていた。私が『ブレードランナー』を観てから『ブレードランナー 2049』を見るまでに35年が過ぎていた。その《“生”は、どう考えても》《世界がどよ~んとしてこりゃビチョビチョビチョビチョ濡れている》《SF的な時代にあるがゆえに》《とにもかくにも屈折する》。私はオマエら人間には信じられぬ映画を観てきた。そういう思い出もやがて消える、時が来れば、雨の中の涙のように、雪の中の模造記憶のように。何を知ろうが知るまいが、フィリップ・K・ディックは死んでいる。『ロボット刑事』の続きの映画を想い返し、フランク・シナトラでも聴きながらジョニ黒を飲もう。
 
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ふたつの悪の物語

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年10月04日 01時30分]
エコテロリズム映画『ザ・コーヴ』(The Cove:2009)と国粋竜田揚げ映画『ビハインド・ザ・コーヴ 捕鯨問題の謎に迫る』(Behind “The Cove”:2015)とは捕鯨問題で衝突したが、さて対消滅したのだろうか? いずれにしても、映画の舞台となった和歌山県太地町にとっては、目の上のコーヴであろう。そして、ふたつの‘Addle-cove’の物語の前後にも、ふたつのクジラ映画がある。
 
 《だからといって「クジラは捕ってもいいんだ」という映画にもしたくなかったん
  です。捕鯨と反捕鯨というふうに、白か黒かどちらかひとつだけと決着を
  つけるべきではないと思っていましたから。(略) それぞれの価値観を認
  め合って、ともに生きていけるような状況が、映画を見せることで探れれ
  ばと思っているんですけどね。》 (梅川俊明:談/インタビュー「海の男た
  ちの労働を描く」/『労働新聞』 1999年1月1日)
 ふたつの悪の物語 (1)
 《問題は、捕鯨やイルカ漁に賛成か、反対かではないのです。特定の動物を
  巡って、なぜ私たちは対立し、憎しみ合うのか。今世界で起きていること、
  みなさんの人生に起きていること、どうすれば私たちは分かり合えるのか。
  そのヒントをこの映画から見つけて貰えれば嬉しいです。》 (佐々木芽生:
  談/映画『おクジラさま ふたつの正義の物語』Webサイト 「監督からの
  コメント」)
 
『鯨捕りの海』(1998)と『おクジラさま ふたつの正義の物語』(2017)、その監督2人の言葉は入れ替えても通じるほどに趣意がよく似ている。時間差はあるが、さて対生成したのだろうか? 『おクジラさま』の英題は“A Whale of a Tale”、だからといって、カーク・ダグラスが歌う映画(『海底二万哩』:20000 Leagues Under the Sea:1954)でもないだろうし、カーク船長?(ウィリアム・シャトナー)が出てくる映画(A Whale of a Tale:1976)でもないだろうが…まぁ、観てみよう。
 ふたつの悪の物語 (2)
 
『おクジラさま ふたつの正義の物語』(A Whale of a Tale) 観賞後記
 
 《皆、もやもやしてどうしたらいいのかわからないという気持ちになって。(略)
  もやもやしてどうしたらいいかわからないとみてくれれば、それが一番い
  いかなと。》 (佐々木芽生:談/鈴木款 「「シーシェパードの真実」と「私の
  真実」。なぜか片方しか伝えない日本」/『ホウドウキョク』Webサイト
  2017年7月10日)
 
映画『おクジラさま』は、佐々木芽生監督の目論見通りに私をモヤモヤさせた。ビートたけしは、《イルカ漁を巡って太地の港を右往左往する人間たちのコメディ》と本作を評した。確かにそうだが、それは狂言回しとして登場した日本世直し会の中平敦あっての話。それ以外の《右往左往する人間たち》は面白くもなんともないので、《もやもやしてどうしたらいいかわからない》。グローバリズム対ローカリズム、世界のあちらこちらで《対立し、憎しみ合う》分断や排除、そうした《今世界で起きていること》の縮図が太地町にも見えること、だから《白か黒かどちらかひとつだけと決着をつけるべきではない》という描写、そこはモヤモヤしない。
 
 《この映画の大きなテーマですね、日本の情報発信の拙さは。(略) 相手の
  言うことのほうが正しいということになる。(略) だから捕鯨をやめろという
  短絡的なものではなくて、捕鯨にはアカウンタビリティという、説明責任が、
  日本として発生していると思うんです。国際社会に対して、それを果たし
  ていないのはすごく怠慢です。》 (佐々木芽生:談/鈴木款 「「シーシェ
  パードの真実」と「私の真実」。なぜか片方しか伝えない日本」/『ホウドウ
  キョク』Webサイト 2017年7月10日)
 
私がモヤモヤするのは、《説明責任が、日本として発生している》として《情報発信の拙さ》を《すごく怠慢》と断ずる佐々木芽生監督の姿勢だ(作中ではジャーナリストのジェイ・アラバスターが代弁している)。小型鯨類の追い込み漁をする太地いさな組合の漁師は大声で叫べないのか?叫ばないのか? 太地町の住民は情報発信をできないのか?しないのか? たとえ説明責任を県や国に求めるとしても、言われたら言い返さなくては怠慢なのか? …冗談じゃない! 《なぜ私たちは対立し、憎しみ合うのか》…沈黙したまま滅びる道を悪しと断じて、コミュニケーションを強要するからだろう。そこを半端にして描き切らない映画『おクジラさま』に、私はモヤモヤする。
 ふたつの悪の物語 (3)
「正義の反対は悪ではなく別の正義」…そうだろうか? ならば「悪の反対は正義ではなく別の悪」とも言えるだろう。《どうすれば私たちは分かり合えるのか》…それは、「ふたつの正義の物語」を実は登場人物が‘全員悪人’であるアウトレイジな映画である、と捉え直すことから始まる。太地町におけるクジラ映画の「ふたつの悪の物語」、その一つ目は『鯨捕りの海』ではなくて『おクジラさま』であり、そして二つ目は『ボクはボク、クジラはクジラで、泳いでいる』(2018年夏公開予定)であってほしい。
 
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1週間・1日・1時間

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年09月21日 21時30分]
映画『ワンダーウーマン』は第一次世界大戦の話で、映画『ダンケルク』は第二次世界大戦の話。両者の舞台は共にBEF(イギリス海外派遣軍)が苦戦する西部戦線の戦場で、その空間は近接していた。両者の物語は約21年7ヵ月の差で隔てられていたが、映画の封切りは共に2017年夏で、その時期は近接していた。共に小船やら戦闘機やら列車やらが物語を運んでいるし、『ダンケルク』は『ワンダーウーマン』の続編なのか? 観てみよう。
 1週間・1日・1時間 (1)
 
『ダンケルク』(Dunkirk) 観賞後記
 
 《5月29日  一九四〇年のこの日からダンケルクからの英・仏軍の撤退が
  本格化した。ドイツ軍は、海岸に密集した英・仏軍に空襲を加え、砲撃を
  繰り返した。海上には輸送船、漁船など大小の船が兵士たちを収容して
  いる。直撃弾で沈没する船も多い。フランス軍のマイヤ軍曹(ジャン=ポ
  ール・ベルモンド)もここまでは逃げのびてきた。砂浜で二日間、この地
  獄絵を目撃し、体験する。フランス人の目でダンケルクの悲劇が再現さ
  れた数少ない作品の一つだ。 この脱出は、あくまでも英国軍が優先され
  た。マイヤは、暴徒と化した兵から娘を助けたりしながら脱出の機会を待
  ち続けた。六月四日までに英国に脱出できたのは三十四万人。マイヤは
  そこに入っていなかった。》 (「ダンケルク」 監督アンリ・ベルヌイユ 一九
  六四年フランス映画/石子順 『映画366日館』 社会思想社:刊 1985
  年)
 1週間・1日・1時間 (2)
1週間──ダンケルク。共にダイナモ作戦(ダンケルク大撤退)中の「1週間」を描いた映画でも、2017年の映画『ダンケルク』は、その53年前の映画『ダンケルク』(Week-end à Zuydcoote:1964)とは視点も趣旨も全く異なっていた。ダンケルクの戦いは、イギリスにとってはバトル・オブ・ブリテンへ繋がる栄誉の撤退であるが、フランスにとっては首都放棄と降伏へ繋がる屈辱の敗走である。映画『史上最大の作戦』(The Longest Day:1962)では、ソード海岸へ上陸するイギリス兵が「ダンケルクの仇をとるぞぉ」と叫ぶ。これに対してトルコ出身のフランス人であるアンリ・ヴェルヌイユ監督は、「なぁにが『史上最大の作戦』だ。Dデイの4年前に何があったのかわかってんのかぁ」という意気で1964年の『ダンケルク』を作ったのではないか?…そう私は臆見する。
 
 《敵が侵攻した最初の24時間で勝敗は決する。その日は敵にとっても我々
  にとっても「いちばん長い日」(Der längste Tag=The Longest Day)
  になるだろう。》 (エルヴィン・ロンメル)
 1週間・1日・1時間 (3)
1日──史上最大の撤退作戦。ダイナモ作戦(ダンケルク大撤退)中の「1日」とネプチューン作戦(ノルマンディー上陸)のDデイとのどちらが「いちばん長い日」だったのか、それは判らない。判っているのは、2017年の映画『ダンケルク』を作るきっかけは二十数年前にドーバー海峡を小船で19時間を要して渡った経験だとクリストファー・ノーラン監督が騙っていることだ。だが、本当のきっかけは海峡を渡った後にある。スティーヴン・スピルバーグ監督が「いちばん長い日」を描いたもう一つの映画『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan:1998)だろう…そう私は臆見する。
 
 《この映画に取り掛かる前に、スタッフと一緒にいくつか映画を観ました。そ
  の一本が(激しい戦闘描写でも知られる)『プライベート・ライアン』。スピ
  ルバーグとは親しくしていて、とても美しいフィルムを貸してくれたんです。
  強烈な体験でした。(略) まず、あの完璧な傑作と競争をしたくないという
  ことに気づけた。それに、僕たちはあの映画とは違う、もっとサスペンス
  に基づいた“強烈さ”を求めていたこともわかりました。》 (クリストファー・
  ノーラン/Web『シネマトゥデイ』 映画ニュース 2017年8月6日)
 1週間・1日・1時間 (4)
1時間──プライベート・トミー。クリストファー・ノーラン監督が《あの映画とは違う、もっとサスペンスに基づいた“強烈さ”を求めて》たどりついたのは、ダイナモ作戦(ダンケルク大撤退)中の「1週間」と「1日」を描いた映画から「1時間」を引き抜くことだった。監督作品の前作『インターステラー』(Interstellar:2014)で当初のスピルバーグ版脚本にメロドラマを1時間ほど足していたが、今作『ダンケルク』では『プライベート・ライアン』からメロドラマを1時間ほど抜いて尺を短くした。ノーランは、《とても美しいフィルムを貸してくれた》スピルバーグに「プライベート・トミー」(Surviving Private Tommy)としての『ダンケルク』を返却したのではないか? ヴェルヌイユやスピルバーグは歴史を映したかったが、ノーランは映画を撮りたかった…そう私は臆見する。
 
 1週間・1日・1時間 (5)
1週間と1日と1時間という3つの時間の縮尺の違い、陸と海と空という3つの空間の視点の違い、それら3つの階層が繋がって収束していく映画『ダンケルク』の構成は面白い。そこは、私が‘ザ・タイム・マン’と名付けたクリストファー・ノーランらしい仕上がり。けれども、『インセプション』(Inception:2010)や『インターステラー』ほどの臨場感や没入感を私は得られなかった。‘虚無’(Limbo:辺獄)や‘テサラクト’(Tesseract:四次元立方体)へは何度でも行きたいが、嘘臭いアトラクションみたいな‘ダンケルク’は一度限りで充分な感じ。構成は良かったがドラマツルギーで滑っている『ダンケルク』、そういう映画からは撤退するしかない。そして、『ダンケルク』は『ワンダーウーマン』の続編ではなかった。さて、『ダンケルク』の続編は『人生はシネマティック!』なのか?
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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