素子作って魂入れず

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年04月14日 01時30分]
ビートたけしは、《「もしかするとアニメ・コミックの実写版で最初に成功した例ではないか」というような意見があって、「唯一の失敗作は荒巻じゃないか」っていう噂もあるし、その辺は言わないようにって言っておりますけど…》と語った(映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』来日記者会見 2017年3月16日)。草薙素子は《本当に観たい映画は一人で観に行くことにしている》ようで、私も『攻殻機動隊 新劇場版』(2015)を一人で観た。それほど観たくない映画の場合に草薙素子は《観ないわ》と言っていたが、でも、「攻殻機動隊」実写映画化作品を観てみろって囁くのよ、私のゴーストが…
 素子作って魂入れず (1)
 
『ゴースト・イン・ザ・シェル』(Ghost in the Shell) 観賞後記
 
 《面白くするために押井守的な世界にするためにキャラをわざわざ弱
  くしたのに、スカーレット・ヨハンソン版の『ゴースト・イン・ザ・シェル』
  は、「(略)たった1つ足りないものがあるネ。なんだろ? それは強
  いキャラだよ。ハリウッド風の強いキャラを足してみよう」というよう
  なことをやっちゃったのが、今回の大失敗なんですけれども》 (岡田
  斗司夫/Web動画「岡田斗司夫ゼミ」#173表 2017年4月9日)
 
 《本作をより広い観客に理解させ、娯楽作品としての価値を高めるた
  め、とにかく分かりやすくしよう、感情移入させようという意図を強く
  感じる》 (小野寺系/Webサイト『Real Sound 』映画部 作品評
  2017年4月13日)
 
 《日本で制作された『攻殻機動隊』にあって、実写版『ゴースト・イン・
  ザ・シェル』にないもの、それは「曖昧な情感」です》 (ニコ・トスカー
  ニ/Webサイト『oriver.cinema』 レビュー 2017年4月13日)
 
 《近未来モノをやる上で一番避けて通れない生々しい臨場感とか、架
  空の世界の世界のリアリティとか。だから今回のはそう言うのに真
  っ向から挑んだ作品でもある。でもブレードランナーほどうまくいっ
  てるわけではない。(略)結果的にそうなったのか意図してかどうか
  は別として、今作はスクリーンの世界にゴーストが吹き込まれてい
  る。僕に言わせれば相当奇妙な映画だと思うよ。まあ僕は余計な
  とこばっか見てるから、正直なところ、見終わった後にこれ大丈夫
  なのかと思った》 (押井守/Webサイト『GIZMODE』 インタビュー
  2017年4月6日)
 
 素子作って魂入れず (2)
今般の映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、《曖昧な情感》を排した《ハリウッド風の強いキャラを足して》、《とにかく分かりやすくしよう》と、押井守とそれ以後のアニメーション作品をハリウッド映画化したものだった。日本の『攻殻機動隊』シリーズのアニメ作品は、士郎正宗の原作漫画を昇華していても消化不良を起こさせる、そこが面白い。対して、ハリウッドの実写版は、アニメ版を消化していても昇華されたとは言えない。何だかわからない消化不良を楽しみに新たな「攻殻機動隊」を観たはずが、きわめてわかりやすく真っ当なSFサスペンスアクションを観せられた、そこが《相当奇妙》なのである。つまり、私が『攻殻機動隊 新劇場版』を観た時に感じた《“サイバー・オペラ”に堕す危険性》、または《「攻性の幻想」に全て回収されてしまう暗示》、それを今般の映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』は見事に具現化させてしまった。
 
 素子作って魂入れず (3)
押井守は《今作はスクリーンの世界にゴーストが吹き込まれている》などと持ち上げているが、私はそう思わない。スカヨハ(スカーレット・ジョハンソン)にゴーストが吹き込まれていたのは、『LUCY/ルーシー』(2014)であって今作ではない。スカヨハにとって『ルーシー』と今作は、リュック・ベッソンとルパート・サンダース、どちらも女優を食い散らかす癖が抜けない監督の下で演じたことだけが通じている。そして、今作でゴーストが吹き込まれていたのは、草薙素子の母(桃井かおり:演)だけだった。
 
 《確かにいい映画といえなくもないわね。でも、どんな娯楽も基本的に
  は一過性のものだし、また、そうあるべきだ》   《夢は現実の中
  で闘ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは、
  死んだも同然だ》 (草薙素子/『攻殻機動隊 STAND ALONE
  COMPLEX』 第12話「タチコマの家出 映画監督の夢」)
 素子作って魂入れず (4)
 
監督ルパート・サンダースの夢は、何だったのだろう? 草薙素子は電脳の中で散ってこそ意味がある。素子の墓に現実を投影しているだけでは、死んだも同然だ。今般の実写映画化作品『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、「素子(もとこ)作って魂(たましい)入れず」だ。
 
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セルビアの種馬

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年03月31日 01時00分]
「ただのコーヒーフィルムじゃない。夢を追う美しさ、あきらめないで泥臭く一所懸命にやることがどれだけ素晴らしいことなのかをダイレクトに伝えてくれる映画」…井崎英典は2016年10月26日に日本初の上映会を主催してそう語った。その映画『THE COFFEE MAN』が「TOKYO COFFEE FESTIVAL 2017 Spring」の会場内で再び上映されるという…東京でコーヒー遊びのついでに観てみよう!
 セルビアの種馬 (1) セルビアの種馬 (2)
 
『THE COFFEE MAN』 観賞後記
 
 《スペシャルティコーヒーの魅力に取り憑かれたひとりの男の物語 ─
  その男の名前は、ササ・セスティック─。1996年、激化するボスニ
  ア紛争の煽りを受け、移民としてオーストラリアへ。その後ハンドボ
  ールのオーストラリア代表として、シドニーオリンピックへ出場。コー
  ヒーとの出会いが彼の人生をまた大きく変える。2015年アメリカ・
  シアトルにて開催された、52か国が参加するコーヒーのオリンピッ
  ク“World Barista Championship”にて優勝を果たすまでの激
  動の物語。》 (Good Coffee 上映案内)
 セルビアの種馬 (3)
《ただのコーヒーフィルムじゃない》…料金1500円の有料鑑賞だから、その通りだった。そして、欺瞞に満ちた『おいしいコーヒーの真実』(2006)や傲慢が臭う『A Film About Coffee ア・フィルム・アバウト・コーヒー』(2014)などよりも、『THE COFFEE MAN』(2016)はドキュメンタリー映画としてずっと良い出来具合だ。エチオピアへ行って野生のゲイシャを探すとか、ホンジュラスへ行って農園を買うとか、コロンビアへ行ってスーダン・ルメをカルボニック・マセレーションするとか、主人公の奇行は面白いが話のキモはそこにない。製作のローランド・フラヴァル(Roland Fraval)と監督のジェフ・ハン(Jeff Hann)が1年半に渡ってササ・セスティック(Sasa Sestic/1978-)にただただ張り付いてただただ85分にまとめた、その知恵も工夫も説教も瞞着も何もないただただ粗雑な作品であることが好い。《ただのコーヒーフィルムじゃない》…《あきらめないで泥臭く一所懸命にやる》ただのドキュメンタリーフィルムなのだ。
 
 セルビアの種馬 (4)
『THE COFFEE MAN』の中でササ・セスティックは語る…《僕は当時最年少のハンドボールオリンピアンだった。21歳、22歳そこらさ。でもスカウトの誰ひとり、オリンピックの後に連絡をしてこなかったんだ》と。それはそうだろう、と思う。2000年のシドニーオリンピックで開催国チームであるオーストラリアの男子ハンドボールチームは、全6試合に敗れて参加12ヵ国中で最下位だった。その中で、ササ・セスティックはシュート成功率が最低(30.4%)の出場選手だった。最後の最下位決定戦(対キューバ戦)でもササ・セスティックはシュートを2本だけ放って無得点だったのだから。今般の映画では、こうした事実は語られないまま、15年後にササ・セスティックが世界バリスタチャンピオンとなる姿が映し出される…《あきらめないで泥臭く一所懸命にやる》ただのドキュメンタリーフィルムなのだ。
 
 セルビアの種馬 (5)
『THE COFFEE MAN』を観た翌日、私から映画の筋を聞いた友人は「つまり『ロッキー』だね」と言った。なるほど、前チャンピオンがコーチに付いて新チャンピオンが誕生する。アポロ・クリードが井崎英典で、ロッキー・バルボアがササ・セスティックという話だ。なるほど、‘イタリアの種馬’ではなくて、‘セルビアの種馬’の話だ。「どうりで毒にも薬にもならない映画として良い出来だったわけだ」と私は得心した。フィラデルフィアにロッキー・バルボア像が置かれたように、キャンベラにササ・セスティック像を置く日が来るのだろうか? ラズベリーキャンディのようなカプチーノとかドライアプリコット風味のエスプレッソとか、ササ・セスティックらバリスタと称する似非バリスタ連中の嗜好はさっぱり理解できないが、ササ・セスティック像が置かれたならば観にいこう。
 
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毒物でも手落ち

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年02月19日 01時30分]
《通常のドリップコーヒーは約10グラムの豆を使い、140シーシーのコーヒーを抽出する。僕の好むのは30グラムで70シーシー、つまり通常の6倍の濃度のコーヒーです。淹れる際、60度の低温のお湯を使い、ネルドリップで手落としする。蒸すだけで6分、抽出に3分、そうして淹れたコーヒーは、まるでビターチョコのような甘さがある!》と、冠城亘は言い立てる(「相棒」14 第2話「或る相棒の死」)。だが、その《手落とし》は3秒で70シーシーに達しそうなほど手を抜いた注湯であり、どうみても《ビターチョコのような甘さがある》とは思えない。冠城亘が抽出する液体こそが、新たな劇場版の予告編で《1リットルの液体が気化すると50万人分の致死量となります》と言われている毒物ではないのか?
 毒物でも手落ち (1) 毒物でも手落ち (2)
 
『相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断』 観賞後記
 
 毒物でも手落ち (3) 毒物でも手落ち (4)
『相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン』(2008)で《打つべき手は打った。責任を負う必要は無い》とでも思ったのか、《僕の進む道を変えるわけにはいきません》と『相棒 -劇場版II- 警視庁占拠! 特命係の一番長い夜』(2010)で興収と動員を3割も落とし、《何をしたんですかぁ》と言いたくなる『相棒 -劇場版III- 巨大密室! 特命係 絶海の孤島へ』(2014)で興収と動員を第1作の半分以下にして《まさかこんなことになろうとは》…監督の和泉聖治と脚本の戸田山雅司・輿水泰弘はクビ? で、太田愛の脚本で橋本一を監督にした今般の『相棒 -劇場版IV-』は、昔日に日本政府の‘高度な政治的判断’で事件を闇に葬られて見捨てられた者がスポーツ関連の催事で無差別大量殺人を企む復讐劇だ…って、1作目の焼き直しじゃないか! こんな風に相棒の物語を粗末にしてはいけない。たとえネタ枯れであっても、スタッフは最後の時まで慮るべきです、いや、慮ってください!
 
 毒物でも手落ち (5) 毒物でも手落ち (6)
国際犯罪組織「バーズ」の首魁レイブンを追う「国連犯罪情報事務局」元理事マーク・リュウがレイブンだとは言わないで特命係に案内役をさせる警視庁総務部広報課長の社美彌子(仲間由紀恵:演)、国際犯罪組織の最後のシゴトがテロ‘未遂’事件を起こすことだったレイブンことマーク・リュウこと天谷克則(鹿賀丈史:演)、9億円の身代金を要求する動画で鷺沢瑛里佳(山口まゆ:演)が持つ新聞の「世界スポーツ競技大会閉幕」の見出しに反応しないまま捜査して殺人を繰り返してきた天谷克則を命懸けで守って《到底許されることではありませんよ》とは言わない警視庁特命係係長の杉下右京(水谷豊:演)…「相棒」の劇場版は設定の矛盾を無視した。今回観てみれば、大勢の人々が見守る中で、映画人の誇りが砕け散っていた。『相棒 -劇場版IV-』は、社会派を気取っても手落ちのある「相棒」らしいドラマとして佳作である。だとすれば、冠城亘(反町隆史:演)がTVシリーズで《手落とし》した《あまり高くない豆をブレンドして、ブルーマウンテンに近い風味を再現してみました》というコーヒーも、映画と同様に毒物でも手落ちだろう。いずれも、一笑に付そう。
 
 毒物でも手落ち (7)
今般に『相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断』を観賞した映画館「春日井コロナシネマワールド」は、2017年2月26日に閉館する。1983年3月19日に複合施設「春日井コロナ会館」の映画館として開設され、2001年4月に「コロナワールド」へ改装されたが、33年余にわたって続いた(シネコンと称してシネコン臭がしない)「映画館」が消えていく。この映画館で何百本の映画を観たのだろう? ‘最後の決断’として『相棒 -劇場版IV-』を選んで「春日井コロナシネマワールド」のシネマ1(定員302人)で観た。‘人質は50万人!’の映画の観客は10人! こんな風に映画館の命を粗末にしてはいけない。たとえ不振の身であってもコロナは最後の時まで生きるべきです、いや、生きてください!
 
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ノマド、イェイ

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2017年01月08日 01時30分]
「のーま、のーま、のーま、のーま」と《世界一に4度輝いたレストラン》として連呼されて「イェイ」と騒いでいる映画の予告編を見た。…む゛? コレ前にも見たゾ。映画『ノーマ、世界を変える料理』(NOMA my perfect storm/2015年)と同じじゃねぇか! 「のーま」で「イェイ」って、‘のまネコ’の「恋のマイアヒ」か、てぇの。もっとも、O-Zone(オゾン)が‘Dragostea Din Tei’(邦題「恋のマイアヒ」)をリリースした年、クラウス・マイヤーがレネ・レゼピと「ノーマ」を開業した年、いずれも2003年でかぶっているな。前の映画ではレネ・レゼピが《後がないんだ しっかりしてくれ》とか言っていたが、はてさて今般の映画はどうよ? ♪ Noma, Noma iei, Noma, Noma, Noma iei ♪
 ノマド、イェイ (1) ノマド、イェイ (2)
 
『ノーマ東京 世界一のレストランが日本にやって来た』(Ants on a Shrimp) 観賞後記
 
《世界初の試みとして「ノーマ・アット・マンダリン・オリエンタル・東京」を期間限定で開店するために来日》とか《6万2000人がウェイティングリストに名を連ねた》とか、フライヤーやWebサイトで意味不明のゴタクを並べた映画だ。ノーマは、2012年にロンドンのホテルで10日間の出店をしていた。その頃のコペンハーゲンのノーマは、月間約10万件の予約照会を受けていた。ノーマ東京では蟻が乗った「長野の森香るボタンエビ」を会期の途中からシバエビで誤魔化していたが、このドキュメンタリーでは惹句にならないゴタクを宣伝にして誤魔化している。新鮮な食材の探求を撮っても、それを配給する姿勢が腐っていたのだ。
 ノマド、イェイ (3) ノマド、イェイ (4)
そして、このドキュメンタリー自体も酷い。遠慮がちで工夫のないカメラワーク、質の悪い音録り、レネ・レゼピへの讃辞ばかりの採録、何が主題なのかもわからない構成…最低の部類に属する作品だ。前の映画ではノロウイルスが病因の集団食中毒をノーマで出したレネ・レゼピが《最悪だよ どうにもならない》とか言っていたが、今般の映画『ノーマ東京 世界一のレストランが日本にやって来た』こそ《最悪だよ どうにもならない》と私は断ずる。今作でレネ・レゼピが吐いている《作り直しだ、これじゃお客には出せない》や《失敗するなんてガッカリだ、全部やり直せ》という言は、監督モーリス・デッカーズへ向けられるべきだ。
 
 《「…次善のものに甘んじて満足せよなどといわれるのは、芸術家にとって
  は恐ろしいこと、耐えられぬことだとおっしゃったのです。芸術家が次善
  のもので喝采を受けるのは、恐ろしいことなのです。あのかたはおっしゃ
  いました。芸術家の心には、自分に最善をつくさせてほしい、その機会
  を与えてほしいという、世界じゅうに向けて出される長い悲願の叫びが
  あるのだと」》 (イサク・ディーネセン 『バベットの晩餐会』/桝田啓介:訳
  筑摩書房:刊)
 
 ノマド、イェイ (5) ノマド、イェイ (6)
概して20世紀のデンマーク料理は、クリスティーネ・マリエ・イェンセンの“Frk. Jensens Kogebog”(イェンセンの料理本/1901年)だけで《甘んじて満足せよなどといわれる》に等しい状況だった。そこへノーマが登場して、その躍進と影響は‘Nomanomics’(ノマノミクス/Webサイト“Roads & Kingdoms” 2012年10月)とまで評された。2013年2月に集団食中毒を起こしたレネ・レゼピは、《機会を与えてほしい》と願うバベットほど慎ましやかではないので、デンマークを離れて打って出た。2015年に東京で37日間の出店、2016年にシドニーで68日間の出店、2017年もメキシコのトゥルムで47日間の出店を予定。2016年末に閉めたコペンハーゲンの店は郊外へ移転して再開するらしいが、これもレネ・レゼピの‘コロニヘーヴ’程度に捉えるべきか? そして、既にシドニー出店のドキュメンタリーも発表されているが、おそらくメキシコ出店やコペンハーゲンでの移転の映像作品も作られるだろう。もう、ウンザリだ。ノーマは変わってしまった。以前に《レネ・レゼピの素顔はヴァイキングである》と言ったが、こう言い直そう…レネ・レゼピは遊牧民である。店の名は「ノーマ」(Noma/nordisk+mad)ではなくて、「ノマド」(Nomad)が相応しい。ノマド、イェイ!
 
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されど映画じゃないか!

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年12月30日 01時30分]
『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本を題材にした映画の予告編で、黒沢清がアルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックを評して《作家性という点でみると、極端に端っこにいる人》と言っていた。「ヒッチは端だが役に立つ」といったところか? ウフフ。
 されど映画じゃないか! (1)
 《…『映画術』という本が日本語で出ていて、これを案外大勢の人が読んで
  いたりする。(略) 『映画術』、作者本人が自作について語ったんだから、
  これはもうやりきれないくらい由緒正しい書物な訳で、ちょっとうっかりした
  ことは言えなくなってしまう。(略) サスペンスとかエモーションとかマクガ
  フィンだとかいった言葉を駆使して、結局のところ「面白ければいいじゃな
  いか」という断定。それは、例の「たかが映画じゃないか」という名文句と
  相まって、ひとつの思想にまで発展する。これはどういう事態か。》
  (黒沢清 「ヒッチコック/ロメール」/『シネアスト 映画の手帖』1:[特集]
   ヒッチコック 青土社:刊 1985年)
 されど映画じゃないか! (2)
確かに『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(フランソワ・トリュフォー:著/日本語版 山田宏一・蓮實重彦:訳 晶文社:刊 1980年 増補改訂1991年/原書“Le Cinéma selon Hitchcock”1966 増補改訂1983)が出版されて以来、「たかが映画じゃないか」などと《ちょっとうっかりしたことは言えなくなってしまう》羽目になった。これはどういう事態か。このヒッチ本を出したトリュフォーの「筆致はマジだが役に立つ」の蔓延であり、シネフィル(cinéphile)にとっても「本人が説いた フィルは死ね」の‘死ねフィル’であり、ヒッチ作品に無意味なマクガフィン(MacGuffin)を探しながら観て‘幕がFin’というやりきれない事態である。
 
『ヒッチコック/トリュフォー』(HITCHCOCK/TRUFFAUT) 観賞後記
 
 《このドキュメンタリーの唯一の、そして最大の効用は、見終わった瞬間、
  断片的に挿入されたヒッチコックの全ての作品を見たい!という猛烈な
  飢餓感に襲われることだ。だからこそ、「映画術」へのオマージュとして
  はまったく申し分のない出来栄えである。》
  (高崎俊夫/Webサイト『映画.com』 映画評論 2016年11月30日)
 されど映画じゃないか! (3)
いいや、私は‘飢餓感’なんて少しも覚えなかった。この映画は、先行した『映像の魔術師 オーソン・ウェルズ』(Magician: The Astonishing Life and Work of Orson Welles/2014)と同じく、チャールズ・S・コーエンの注文に応じて作られた。ウェルズ映画の監督に起用されたチャック・ワークマンと同様、ヒッチ映画の監督に起用されたケント・ジョーンズも、巨匠を意識し過ぎるあまり思うように身体が動かなくなるような、そんなぎこちない作りに堕した。2つの映画は共に、「編集は映画の持ついくつかの様相の一つではない。それは正に映画の様相なのだ」とウェルズが遺した言を活かしていないし、「台詞と視覚的な要素をはっきりと区分し、つねに、できるかぎり台詞にたよらずに、視覚的なものだけで勝負することがかんじんだ」とヒッチコックが遺した言も活かしていない。さらに言えば、映画『ヒッチコック/トリュフォー』が《「映画術」へのオマージュとして》作られるのだとすれば、「映画館のウィンドーの写真とかポスターを見て、これは面白そうだとか、詰まらなそうだとか判断する、そういう人達を無視してはならない」とフランソワ・トリュフォーが遺した言を活かして、トリュフォーを主眼に追うべきだったのだ。『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本の真の語り手は、ヒッチコックではなくてトリュフォーなのだから。
 
 《そもそもすべては友人のフランソワ・トリュフォーからの電話で始まった。
  パラマウントのフェリー夫人が「カイエ」の同人を、ホテルジョルジュ・V
  (サンク)のヒッチコック自身の部屋で行なわれる記者会見に招待すると
  いうのである。そこで我々は念入りに準備を整えたのだった。一方の手
  には以後必需品となるテープレコーダーを、もう一方の手には紙を、そし
  て胸には希望よりは不安を抱いていった。(略) トリュフォーの顔を伺うと、
  彼もこちらを見返してきた。(略) 会見がこういう調子のままなら我々は
  手ぶらで帰るしかない。だから私は何とか彼に面白い事を言わせるよう
  な質問をすることにした。少し考えたあと質問をした。「アメリカでの作品
  のうちで、どれが出来が悪いとあなたはお考えですか」 質問の罠にかか
  るまいとして考え込むのを満足の面持ちで私は見ていたが、答えを聞い
  てまた袋小路においやられ、私はくさってしまった。哄笑とともに「全部だ
  よ」と言い放ったものである。(略) 会見のしめくくりの言葉として今のは
  ぴったり決まったので、彼はほかに質問が出るのを懼れ、今にも別れの
  言葉を言いそうになった。(略) 今度こそ終わりだった。皆立ち上がり、
  引上げてゆく。彼はめいめいに握手をし、さながら葬儀が終わったかの
  ようだった。事実我々はヒッチにうまいこと葬られてしまったわけである。
  我々は彼に感謝の言葉を述べ、彼もまた我々に同じことばを返してくれ
  た。トリュフォーと私は情けない顔をして最後に部屋を出た。廊下でフラ
  ンス・ロッシュが「マーヴィン・ルロイだって最後にはまじめなことを言った
  わよ」とがっかりしていた。うなだれて「カイユ」の事務所に戻った。》
  (Claude Chabrol ‘Histoire D'une Interview’ “Cahiers du
   Cinéma”/クロード・シャブロル「ヒッチコック会見記」 『カイエ・デュ・
   シネマ』39号 1954年/鈴木圭介:訳/『シネアスト 映画の手帖』1)
 されど映画じゃないか! (4)
フランソワ・トリュフォーらがアルフレッド・ヒッチコックに《うまいこと葬られてしまった》この1954年6月28日の会見から2968日後、ユニバーサル・スタジオの会議室でインタビューが始まった。ヒッチコックに「たかが映画じゃないか」と翻弄された8年後に、トリュフォーが「されど映画じゃないか」と敗者復活戦に挑んだ成果、それが『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』である。だから、この本を題材にして作る映画では、その後を追う映画監督らに語らせるべきはヒッチコックについてではなくてトリュフォーに対してなのだ。だが、今般の映画はそうでないので、観ているうちにウフフと笑う気力も失せた。自分の本が映画『ヒッチコック/トリュフォー』になったと知ったならば、当のトリュフォーは《情けない顔をして》こう言うのではないか? ‘salle de cinéma’(映画館)のウィンドーの写真とかポスターを見て、これは面白そうだとか、詰まらなそうだとか判断する、そういう人達を無視してはならない…「されど映画じゃないか!」
 
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弄愚壱

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年12月17日 01時30分]
‘A long time ago, in a galaxy far, far away....’で始まる映画を、遠くもない昔、はるかかなたでもない近場の映画館で観てから1年弱が過ぎた…
 弄愚壱 (1)
 《二十二年前、『スター・ウォーズ』第一作を見た小説家として、今回の新作
  を見るにあたっての危惧がふたつあった。第一作における、あの神話素
  の集積としての封建的ロマンが再現できるのかというのがひとつであり、
  第一作で物語の歴史的背景をうすぼんやりと感じたがゆえの、あの物語
  の重層性が、サーガの濫觴である今回の新作では当然なくなるのでは
  ないかというのがふたつめの危惧だった。 (略)この他にも「より大きな最
  終的な冒険にたどりつく筈の一連の小さな冒険」つまり「探求」であるとか、
  自分がヒーローであることの証明とか、祭儀的な死とか、龍退治とか、第
  一作にはすべてが揃っていた。今度の新作にはそれが欠落しているか、
  あるいは第一作の焼きなおしになっている。》
  (筒井康隆 「『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』について」
  /『文學界』1999年8月号/『文学外への飛翔』 小学館:刊 に収載)
 弄愚壱 (2)
筒井康隆が抱いた‘危惧’は、エピソード1(TPM)・2(AOC)・3(ROS)を通じてその全てで現実のものとなり、さらにエピソード7『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(TFA)でも現(うつつ)となった。ノースロップ・フライによれば「神話/ロマンス/叙事詩・悲劇/リアリズム小説・喜劇/アイロニー」という順序で西欧叙事詩文学が類型を移してきた、と筒井康隆は前掲の稿で引いていたが、結局に《神話素の集積としての封建的ロマン》はエピソード4(NH)・5(ESB)・6(ROJ)の旧3部作に限られていたのである。そこへ、《もうひとつの、スター・ウォーズ》を名乗るスピンオフ作品が生み出された…何だか嫌な予感がするが、さて?
 
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(ROGUE ONE: A STAR WARS STORY)
観賞後記
 
クリス・ワイツの脚本にもギャレス・エドワーズが監督であることにも何らの期待をしていなかったし、さらにディズニーによってトニー・ギルロイが投入された撮り直しを耳にしていたので、エピソード7(TFA)以下の駄作を覚悟して『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を観始めた。親の死によって旅立つ主人公…またも《第一作の焼きなおしになっている》、もう駄目だ。ところが…
 弄愚壱 (3)
 《また新作では、第一作ほど豊かには、異形の者が登場しないのも物足り
  ない。神話性を持つ異形の者はロマンスでは主に身体障害者だが、こ
  れは異世界を描く時にはさらに重要である。 (略)だとすればわれわれ
  のこの新作に対する興味は、第一作にたどりつくまでの、例えばなぜア
  ナキン・スカイウォーカーがダース・ベーダーになったのかといったことで
  しかない。 (略)ここはやはり第一作との類似を避けたプロットが書ける
  協力者も必要だった筈である。それによって第一作との細部の異なりが
  さほど目立たず、比較されることも避け得た筈なのだ。》
  (筒井康隆 前掲稿)
 弄愚壱 (4)
何と新作『ローグ・ワン』は、捨て身の特攻部隊「ローグ・ワン」の全滅死を描いた単なる戦争映画だった。《祭儀的な死とか、龍退治とか》の冒険譚は何もない。《なぜアナキン・スカイウォーカーがダース・ベーダーになったのか》という興味と比べれば極めて低俗な「なぜデス・スターは脆弱だったのか」という謎だけで推す。身体障害者のチアルート・イムウェ( ドニー・イェン:演)やソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー:演)はなかなか面白いが神話性は薄いし、彼らや主人公が唱える‘フォース’はまるで念仏やシャハーダである。つまり、神話素を有したロマンス英雄のサーガを捨てて、リアリズムやアイロニーへ重心を移した2時間ドラマにしてしまった。いわば「もうひとつの、『ディープ・インパクト』または『アルマゲドン』あるいは『永遠の0』」である。物語の重層性さえ失って《比較されることも避け得た》映画『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』は、エピソード1(TPM)・2(AOC)・3(ROS)・7(TFA)などよりもずっと好い、物語を弄ぶ愚かさを作品自体が教えてくれるから。この全く神っていない安いディズニー映画を、弄愚壱(ローグ・ワン)として観賞を可とした。物語は、死んだ──。
 
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函館どうでしょう

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2016年10月24日 01時30分]
3年連続でコーヒー絡みのご当地映画(?)が公開された。2014年は安房を舞台にした『ふしぎな岬の物語』、2015年は珠洲を舞台にした『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』、そして2016年は函館を舞台にした『函館珈琲』。《時にはほろ苦く、甘酸っぱい、まるで珈琲のような映画が函館から誕生しました》…あ~またやばそうな雰囲気だが、『函館珈琲』どうでしょう?
 函館どうでしょう (1) 函館珈琲初日来場ポストカード
  
『函館珈琲』 観賞後記
 
 《会社に勤めながら執筆を続ける名古屋市天白区の脚本家、いとう菜のは
  さん(46)の作品「函館珈琲」が映画化され、22日から名古屋シネマテー
  ク(同市千種区今池)で上映される。(略)公募された函館イルミナシオン
  映画祭の2013年シナリオ大賞グランプリ作品。(略)北海道函館市にあ
  る古い西洋風アパートを舞台に、ガラス職人やテディベア作家、写真家な
  どの若者が、葛藤と向き合いながら新しい一歩を踏み出していく群像劇。
  (略)実は、いとうさんは函館に行ったことがなかった。著名な映画監督ら
  が「オープンセットのような街」と形容する街に憧れ、「想像力を働かせて
  書いた」という。授賞式と昨夏のロケの際に訪問し、「いろいろな過去や
  傷を抱えた人を受け入れてくれる、澄んだ空気はイメージ通り」だと実感
  した。(長谷部光子)》 (『毎日新聞』 2016年10月21日)
 函館どうでしょう (2)
函館といわれても、百貨店の「棒二森屋」とソフトクリームの「きくち」とハンバーガーの「ラッキーピエロ」それにクローヨくらいしか思い浮ばないので、映画『函館珈琲』を観に行こうにも気怖じしそうだった。だが、《函館に行ったことがなかった》いとう菜のはが脚本を書いているので気が楽になった。コーヒーノキを育てる生産者からみればコーヒーを飲む消費者は永久に客体であるのと同様に、映画の舞台となる‘ご当地’函館からみれば観客は永久に客体なのだから。その主客の差違は絶対であるが、いとう菜のははどっちなんだろう? 『函館珈琲』どうでしょう?
 
黄川田将也(桧山英二:役)やAzumi(藤村佐和:役)や中島トニー(相澤幸太郎:役)の演技に力みが見えてキャラぶれが激しい幼さがあるのは残念。片岡礼子(堀池一子:役)や夏樹陽子(荻原時子:役)やあがた森魚(マスター:役)は可もなく不可もなく。それでも『函館珈琲』は、『ふしぎな岬の物語』や『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』よりもドラマ映画としてずっとマシだった。演出が良いとは思えないが、何となく浮ついた違和感が函館の風景に似合っている。これが桧山のいう《函館は時間の流れ方が違う》ということなのか? 『函館珈琲』どうでしょう?
 
 《撮影の思い出といえば、打ち合わせで「パーコレーター」という方法で珈琲
  を淹れることになって、何件もの珈琲店で視察、勉強、実践して準備しま
  した。ところが、函館の現場に入ったら、急に「ネルドリップ」に変更になっ
  て。いろいろな淹れ方を勉強はしましたけど……これが現場の怖くも楽し
  いところですね。》 (黄川田将也:談/『Pause シネマで広がる女性の快
  適ライフ』Facebook 2016年10月4日)
 函館どうでしょう (3)
コーヒー映画としての『函館珈琲』は、全く話にならない。桧山英二の抽出は、注湯の最初から最後までドボドボジョバジョバと乱暴で湯溜まりだらけ。透過法になっていないネルドリップ、怖くて楽しくない。その桧山が納品先のコーヒー屋で生豆を摘まんで《新鮮なあかしですね》と言うと、マスターが《お、わかってるね》と答える。グリーンビーンズを気軽に摘まめるほどむき出し開け晒しで店頭に放置している、全くわかっていない。幕切れで桧山が開いた店では、《当店で抽出している各国から届く珈琲豆は全て自家焙煎です》と黒板に書いてあったが大丈夫なのか? 店頭に「函館珈琲」などと掲げるよりも、店名を「不完全な月」とでもした方が相応しかったのでは? 『函館珈琲』どうでしょう?
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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