怨がる きっと、てくにかる

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年06月29日 01時30分]
ギータ・フォガトは、2013年の女子レスリング・ワールドカップ(ウランバートル)で栄希和に勝ったが、2015年の女子レスリングのアジア選手権(ドーハ)と世界選手権(ラスベガス)で伊調馨に敗れた。2018年1月25日、映画『ダンガル きっと、つよくなる』(2016)の試写会が日本レスリング協会関係者向けに開かれた。鑑賞後に伊調馨は「ギータ選手と妹さん(バビータ)との姉妹愛も印象に残りました。自分も姉(千春)がいる。いろいろ試練があっても、周りに正しい道に導いてくれる人がいるのは幸せなことです」と述べ、栄和人は「泣いた。一人の人間を育てる、その難しさと喜びを、指導者として、娘(希和)の父として痛感した」と言った。その後、『ダンガル きっと、つよくなる』は2018年4月6日に日本の劇場で公開され、同日に栄和人は伊調馨らへのパワハラ騒動で日本レスリング協会強化本部長を辞任した。新旧が混じり真偽が判らないレスリングの世界…怨(えん)がる きっと、てくにかる。
 怨がる きっと、てくにかる (1) 怨がる きっと、てくにかる (2)
 
『ダンガル きっと、つよくなる』(Dangal/दंगल) 観賞後記
 
 《ダンガルとはレスリングの意味。実話をもとに、インドの女子レスリングを
  飛躍させた姉妹とそれを育てた一徹親父をえがく。歌と踊りはないが、
  レスリングの描写がわかりやすく、非常に興奮させる。》 (宇田川幸洋/
  『日本経済新聞』夕刊 2018年4月6日)
 
 怨がる きっと、てくにかる (3)
この宇田川幸洋の簡潔な評で、テクニカルフォール。アーミル・カーン主演のスポ根ボリウッド映画といえば『ラガーン』(Lagaan/2001)になるのだろうが、あれはクリケット。クリケットのスポ根TVアニメといえば『スーラジ ザ・ライジングスター』(Suraj: The Rising Star/2012-2013)になるのだろうが、あれはインド版『巨人の星』。『巨人の星』の原作漫画を描いた川崎のぼるは、映画『ダンガル きっと、つよくなる』を観てこう言った。
 
 《はるか以前になりますが、私が週刊誌に「野球物」と「レスリング物」の連
  載を同時期に描いていた事がありまして、まるで自分が二つの作品を
  合体させたような気分で作画構成しているような感覚に陥り、次のシー
  ンは!次はどう展開して行くか?身を乗り出して最後まで飽きることな
  く観終えました。》 (川崎のぼる/Webサイト『ダンガル きっと、つよくな
  る』)
 
 怨がる きっと、てくにかる (4)
この川崎のぼるの評で、テクニカルフォール。週刊少年マガジン連載の野球漫画『巨人の星』(1966-1971)と週刊少年サンデー連載のレスリング漫画『アニマル1(ワン)』(1967-1968)、《二つの作品を合体させたような》映画、それが『ダンガル きっと、つよくなる』である。この映画の気分は、『アニマル1』よりも重いが『巨人の星』よりは軽い。劇中でギータ(ザイラー・ワシーム:幼少期演)が引いた‘コンダラ’は、「♪ 重いコンダラ 試練の道を」と星飛雄馬が引いたそれよりも軽い。
 
 怨がる きっと、てくにかる (5)
ギータとバビータの姉妹、その青年期を演じたファーティマー・サナー・シャイクとサニャー・マルホートラも悪くはないが、本人が演じてもイケたんじゃないか? いや、いっそのこと、父マハヴィル役がアニマル浜口で、姉妹を川井梨紗子・友香子、代表団コーチのプラモド役を栄和人でリメイクしてもイイかもしれない。新旧が混じり真偽が判らないレスリングの世界…怨(えん)がる きっと、てくにかる。
 
 怨がる きっと、てくにかる (6)
2012年にインド映画の制作大手UTVモーション・ピクチャーズを傘下に収めた時点で、ウォルト・ディズニー社へアテンション(注意)を私は課した。ディズニー社は2016年にヒンディー語の映画制作事業から撤退する方針を示したが、その前年から撮影された『ダンガル きっと、つよくなる』はディズニー社の資本で製作されていて、コーション(警告)を私は課した。2017年12月には、21世紀フォックスを買収したことでスポーツ娯楽番組を放映するスター・インディアも傘下としたディズニー社、同月、『ダンガル きっと、つよくなる』の日本公開をギャガと初の共同配給にしたのもディズニー社、私はコーションを2つ追加した。ディズニー社はコーション3つで失格、さっさと映画とスポーツの世界から消え去るべき…怨(えん)がる きっと、てくにかる。
 
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線引きは俗

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年06月11日 04時30分]
カンヌ国際映画祭は新たな線引きで2018年(第71回)のコンペティション部門からNetflix(ネットフリックス)作品を締め出した。この線引きにネットフリックスは反発してカンヌ国際映画祭から撤退した。そもそも‘映画’とは何か? 劇場公開の映画とネット配信の動画の間に線引きをするべきなのか否か? そんなことで揉めているうちに‘線引き’ではなくて‘万引き’を描いた映画がパルムドールを受賞した。…拾ったんです。捨てた人ってのは他にいるんじゃないですか?
 線引きは俗 (1) 線引きは俗 (2)
 
『万引き家族』 観賞後記
 
柴田初枝(樹木希林:演)・信代(安藤サクラ:演)・亜紀(松岡茉優:演)・りん(ゆり/じゅり/佐々木みゆ:演)ら「万引き家族」が住む家は、「富士珈機 東京支店」から50mにある空き古家だった。柴田治(リリー・フランキー:演)・祥太(城桧吏:演)の父子がコロッケを買ったのは、「カフェ・バッハ」から1kmにあるジョイフル三ノ輪商店街の「肉の富士屋」だった。コロッケは万引きされない。「肉の富士屋」でコロッケは不可視だからだ。…盗んだのは、絆でした。
 線引きは俗 (3)
 
 《…特に震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さを感
  じていました。絆って何だろうなと。だから犯罪でつながった家族の姿を
  描くことによって、あらためて絆について考えてみたいと思いました。》
  (是枝裕和:談/『万引き家族』Webサイト Director's Interview)
 
映画『万引き家族』を観たのは、監督(原案・脚本・編集)である是枝裕和の言に惹かれたからだ。私は《「絆(きずな)」を無闇に口にする直接に罹災されていない者者にも言っておこう、津波に流されてしまえ!》と思い、また《「絆」(きずな)の語を見ると反射的に「いいね!」ボタンを押す日本人は、国賊である》と思っていたし、今でもそう思っている。万引きは‘賊’であるが、安っぽい線引きも‘賊’である。
 
 《作品内にわかりやすく可視化されている監督のメッセージなど正直大した
  ものではないと僕は考えている。映像は監督の意図を超えて気付かな
  い形で「映ってしまっている」ものの方がメッセージよりも遥かに豊かで
  本質的だということは実感として持っている。》 (是枝裕和 「「invisible」
  という言葉を巡って 第71回カンヌ国際映画祭に参加して考えたこと」/
  Webサイト『KORE-EDA.com』 2018年6月5日)
 線引きは俗 (4)
 《「あなたにとって映画とは何ですか?」(それにしても愚かな質問ですね)
  と聞かれたら「知らないね」と答える人。「あなたはこの映画をつうじて
  何を訴えたいのですか?」と聞かれたら「べつに」と答える人。こういう
  人の映画を見ましょう。》 (内田樹 「黒澤明監督ご逝去」/Webサイト
  『おとぼけ映画批評』 1998/後に『うほほいシネクラブ 街場の映画論』
  文藝春秋:刊 2011 に収載)
 
 線引きは俗 (5)
是枝裕和監督の作品を今まで劇場で観たことが私は一度もなかったのだが、ともかく今般の『万引き家族』は観た。そして、「《犯罪でつながった家族の姿を描く》映画はどうでしたか?」と訊かれたら、私は「知らないね」と答える。「この映画を通じて何を感じたのですか?」と訊かれたら、私は「べつに」と答える。演者の芝居は悪くないけれど、映画としては《正直大したものではない》小さな物語だから。「ナントカ家族」の映画ならば、石井聰互監督の『逆噴射家族』(1984)とか周防正行監督の『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984)とかの方がずっと面白い。こういう線引きは‘俗’?
 
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レディ・プレイヤー1941

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年04月22日 05時30分]
スティーヴン・スピルバーグの映画、というだけでは劇場(映画館)へ行かなくなって随分と経つ。製作作品では『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2014)を観に行ったのが『ポルターガイスト』(1982)以来で32年ぶりだったし、監督作品では『宇宙戦争』(2005)を最後に劇場で観たものがない。
 レディ・プレイヤー1941 (1)
 
 《最初に見たスピルバーグ作品は、「ジョーズ」だった。観たのは冬のとても
  寒い午後、パリのクリシー広場にある映画館だった。終ってから隣りのカ
  フェに駆けこんで、熱いワインを飲んだのを憶えている。》 (笠井潔 「動
  物パニックの類型学」/『シネアスト 映画の手帖』5:[特集]スピルバー
  グ 青土社:刊 1986)
 
私も劇場で《最初に見たスピルバーグ作品は、「ジョーズ」》だった。小学6年生の時に正月映画として『ジョーズ』(1975)を観た私は、スピルバーグの次の映画を待ち望んだ。中学2年生の時に「日曜洋画劇場」が再放送した『激突』(1971)を自宅の居間で坐って観た。終わってから痺れが切れた足で立ち上がると、よろけて障子へ‘激突’して腰板を蹴破ってしまったのを憶えている。その翌年に劇場で『未知との遭遇』(1977)を観てからは、『1941』(1979)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)・『E.T.』(1982)とスピルバーグ監督作品というだけで劇場へ観に行った。私のスピルバーグ熱の風向きが変わったのは、大学3年生の時だった。地元の二番館へ『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)を観に行くと、2本立て併映のロバート・ゼメキス監督作品『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(1984)の方が圧倒的に面白かった。その後、『カラーパープル』(1985)を観てからは、スピルバーグの映画を待ち望む気は失せた。
 
 レディ・プレイヤー1941 (2)
 《おそらく、『レイダース』や『インディ・ジョーンズ』、そしてさらに、いまでは
  “スピルバーグ調”とでも言うべき映像と音響に慣れた知覚からすると、
  『1941』は、ひどくおとなしい、シニカルな映画に見えるかもしれない。
  しかし、これは一九七九年の時点では、その“内容”よりも、その映像の
  スピード感が特に目立つ映画だった。一旦はスピルバーグを酷評した
  キャンビーは、次の週の日曜版で、この点に関して次のような修正意見
  を提出している。 「『1941』は、陰気な未来の本質を純粋に抽出した映
  画コメディである。それは、小さなスクリーンの『サタデー・ナイト・ライブ』
  のバカ騒ぎ的ユーモアをぎりぎりのところまでもってゆこうとする試みな
  のだ」(『ニューヨーク・タイムズ』、79年12月23日号)。》 (粉川哲夫
  「七〇年代の影」/『シネアスト 映画の手帖』5:[特集]スピルバーグ
  青土社:刊 1986)
 
『1941』は、公開時から38年前の世界を舞台にした映画だった。今から38年前に『1941』を観て《バカ騒ぎ的ユーモア》に笑った高校2年生の私、あれがスピルバーグ熱の頂点だった。「VRワールドの快楽と危険性を『1941』級に崩壊したパワーバランスで描く」(尾崎一男/Webサイト『映画.com』 映画評論 2018年4月10日)と評されたスピルバーグの新作『レディ・プレイヤー1』(2018)は、どのような映画なのだろう?
 
 《いやでも俺ねすごくこれ今回面白かったんですけれども『レディ・プレイヤー
  1』、これでいいのかなっていう気持ちにもなりましたよ、やっぱり。(略) こ
  れがね、ディスコのシーンになるとかかるんですよ。これが『サタデー・ナ
  イト・ライブ』という、あ、『サタデー・ナイト・フィーバー』という映画の音楽な
  んですけどね、「ステイン・アライヴ」っていう。でも、これって80年代じゃな
  くて70年代の音楽なんですけどね。でも、これって現在から考えると何年
  前ですか? 40年前ですよ。40年前のことが今の映画に出てきたってい
  うのを、僕はその当時のリアルタイムで知ってるけども、娘を連れて行っ
  て見ているんですけど、娘からするとどんな感じなんだろうって思ったんで
  すよ。だからね、僕がガンダムとかに会ったのは79年なんですよね。それ
  から40年前っていうと何年かっていうと、1939年なんですよ。真珠湾攻
  撃前ですよ。俺、世界のサブカルチャーってなんかおかしくなってねえか
  ってちょっと思いましたよ観ていて。だってガンダムの時代に真珠湾攻撃
  前の文化を見たら変だと思ったですよ、僕。》 (町山智浩:談 「アメリカ流
  れ者」/『たまむすび』TBSラジオ 2018年4月17日放送)
 
町山智浩の論評を聴いて、私は《これでいいのかな》、《なんかおかしくなってねえか》って思った。『レディ・プレイヤー1』における《40年前のことが今の映画に出てきた》というズレを《ガンダムの時代に真珠湾攻撃前の文化を見たら変》と例えられても、そのガンダムの時代に公開された『1941』という映画の中で真珠湾攻撃直後の文化を観ていたのだから。同様に「30年前のことが今の映画に出てきた」スピルバーグの製作総指揮作品として『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)が挙げられることも論を俟(ま)たない。だから、映画で描かれる舞台が過去か近未来かという違いを除けば、スピルバーグはまたも《陰気な未来の本質を純粋に抽出》して《崩壊したパワーバランスで描く》映画を作ろうとした、それが『レディ・プレイヤー1』であることは観る前から容易に察せられる。では、『シネアスト 映画の手帖』5のスピルバーグ特集全てを32年ぶりに読み返してから、『レディ・プレイヤー1』を劇場で観てみよう。
 レディ・プレイヤー1941 (3)
 
『レディ・プレイヤー1』(Ready Player One) 観賞後記
 
 《いわゆるスピルバーグ映画の最大のスタアが、毎回、毎回、スピルバーグ
  自身というのは、クロサワ映画に登場する俳優たちが黒澤明の影で少し
  も目立たないのと同様、いささか滑稽で退屈である。》 (北川れい子 「メ
  ッセンジャーたちの饗宴」前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《それにディズニーの長篇アニメのダンボやバンビ、従来のミッキー・マウス
  やドナルド・ダッグ同様、人間の大スターではなくて、つくられたものがス
  ターのかわりをしているところなんぞもディズニーとスピルバーグは兄弟
  分ではないか。》 (今江祥智 「面白さの次にくるもの」/前掲『シネアスト
  映画の手帖』5)
 
 《そう考えたとき、スティーヴン・スピルバーグの映画における人物とは、物
  語の歯車にすぎず、ジャン・ルノワールの『牝犬』の冒頭にあるギニョー
  ル劇の人形たちを越えるものではありえない。》 (梅本洋一 「人物を照ら
  す光」/前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《過去のハリウッド映画等を引用しまた絶えず自己引用をしたスピルバー
  グのかつての一連の映画はスクリーン・メモリーの二重性と無気味な恐
  怖感にひたされていた。》 (大橋洋一 「スクリーン・メモリー」/前掲『シネ
  アスト 映画の手帖』5)
 
 《たしかにスピルバーグの映画は、映画についての映画である。それはここ
  に書いたように、スピルバーグの映画、映画体験のイノセントな状態の至
  福を謳歌し続けているからばかりではない。(略) たとえば映画の中でか
  つて見たある一つの怖いイメージに直面するとき、それがいままた怖いイ
  メージとして追体験されるのではなく、かつてそれを怖い思いで見たとい
  う体験の記憶にのみ還元されてしまうような事が起るのである。》 (波多
  野哲朗 「落下と飛翔」/前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《スピルバーグが、凄く怖い映画が撮れず、適度に怖い映画しか撮れない
  のも、スピルバーグ映画を観終わって映画館から出てきたときに、自分
  の視野が、映画館に入る前と少しも変わっていないのも、そのためだろ
  う。》 (鈴木晶 「自分のなかの子ども、子どものなかの自分」/前掲『シ
  ネアスト 映画の手帖』5)
 
 《かくしてスピルバーグは映画を作り続け、七〇年代にフェミニズム運動や
  ゲイ・ムーブメントとともにほの見えた家族を越える新しい連帯の萌芽は
  八〇年代になって完璧に抑止されるのであり、“スモール・イズ・ビューテ
  ィフル”も単に新しいトランジスターやICを開発するためのマキシムになっ
  てしまうのである。》 (粉川哲夫 「七〇年代の影」/前掲『シネアスト 映
  画の手帖』5)
 
 《スティーヴン・スピルバーグの作品は、「レイダース」や「インディ・ジョーン
  ズ」などを除いて、その舞台が郊外の住宅地である。(略) しかし、厳密
  にいえば、スピルバーグは彼の作品に登場する郊外居住者(サバービ
  ア)やそのライフ・スタイルを通して日常を描いてはいない。彼は、郊外の
  町というトポスが内包する病理を描いているのだ。》 (大場正明 「郊外居
  住者の病理」/前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 《わが「スピルバーグの政治」にあっては、残念なことに、エンツェンスベル
  ガーの言う「抑圧的メディア作用」が余りにも支配的だ。「一人の伝達者、
  多数の受容者」という中枢司令プログラムはスピルバーグ自身をも代行
  表現者としてのみ送り出され、今のところ権力分散的プログラムに基づく
  「各受容者は潜在的伝達者」という「解放的メディア作用」に取って代わら
  れる気配はない。》 (松田政男 「スピルバーグと政治」/前掲『シネアスト
  映画の手帖』5)
 
 《彼の映画は衰退しつつある映画興行にとって一種の特効薬である。そして、
  抗生物質の投与し過ぎが、生体の抵抗力を弱めて行くように、スピルバ
  ーグの映画ばかりを人々が見続けているうちに、映画は緩やかに死に近
  づいて行く。》 (石田タク 「一九八六年に一九七九年の「1941」を見る」/
  前掲『シネアスト 映画の手帖』5)
 
 レディ・プレイヤー (5) レディ・プレイヤー1941 (4)
私は、『1941』がスピルバーグ映画の最高傑作であると思っている。そんな私が今般に観たかったのは、《バカ騒ぎ的ユーモアをぎりぎりのところまでもってゆこうとする》、いわば「レディ・プレイヤー1941」とでも言うべき映画だった。だが、実際の映画は《いささか滑稽で退屈》なものであり、《観終わって映画館から出てきたときに、自分の視野が、映画館に入る前と少しも変わっていない》のである。その『レディ・プレイヤー1』の出来具合は劇場へ行く前からVR(仮想現実)として私が予見した通りであり、スピルバーグの映画が、いやスピルバーグ自身が《緩やかに死に近づいて行く》ことを感じさせる作品だった。君はガンダムで行け、俺は伊19で行く!
 
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Da!

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年04月04日 01時30分]
1903年、ヴァレリアン(カノコソウ)を配合した薬「命の母」を笹岡省三が完成させた。1914年、異星のモンドシャワン人がエジプトの神殿から4つの鍵石と5番目の要素を持ち去った。デヴィッド・ボウイの歌「スペイス・オディティ」が出たのは1969年、バンドデシネ『ヴァレリアンとローレリーヌ』の「千の惑星の帝国」も始まり、それは映画『バーバレラ』公開の翌年だった。ソユーズ19号とアポロ18号がドッキングして両宇宙船の乗員が握手した1975年、『ヴァレリアンとローレリーヌ』の「影の大使」が出て、アレハンドロ・ホドロフスキーはSF小説『デューン』の映画化を始動した。その翌年にデヴィッド・ボウイは映画で『地球に落ちて来た男』になったが、ミラ・ヨヴォヴィッチが‘地球に落ちて来た女’になったのは映画『フィフス・エレメント』で2214年だった。この間、2135年に異星人コータン・ダフークが地球圏へ来て握手し、その後も続々と異星人がやってきたので宇宙ステーションは肥大し、これを外宇宙へ放つことをレプリカントにして世界連邦大統領のルトガー・ハウアーが宣言した。それから400年が過ぎ、時は2740年…Da(だ)!
 Da! (1) Da! (2)
 
『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』(Valerian and the City of a Thousand Planets) 観賞後記
 
映画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』は冒頭で「スペイス・オディティ」をBGMに地球から宇宙への歴史が流れ、まるでTVドラマ『スタートレック:エンタープライズ』のオープニングクレジット(BGMはラッセル・ワトソンの‘Where My Heart Will Take Me’/原曲はロッド・スチュワートの‘Faith of the Heart’)のよう…Da! 惑星キリアンではローレリーヌ(カーラ・デルヴィーニュ:演)がヴァルカン・サリュートで挨拶しやがって(だがLLAPとは言わない)、非論理的…Da!
 
 《本来ならベッソンの弱点である幼稚と言われかねない精神性やストーリー
  運びの杜撰さが、まるで奇跡のように本作の雑然とした魅力に直結して
  いるのだ。(略) ダメなところは山のようにある。むしろ珍品だと思うが、
  こっちまでつられて笑ってしまうようなハッピーなバイブスにあふれたSF
  大作なのだ。》 (村山章/Webサイト『映画.com』 映画評論 2018年
  3月13日)
 
 Da! (3) Da! (4)
さすがリュック・あばらかベッソン、村山章の必死の尻押しも空しく、《幼稚と言われかねない》のではなくて明瞭に《幼稚》…Da(駄)! ジョージ・ルーカスは『フラッシュ・ゴードン』のリメイク権が手に入らなかったので、『スター・ウォーズ』(1977)を作った。リドリー・スコット(とダン・オバノン)はホドロフスキー版『デューン』が頓挫したので、『エイリアン』(1979)を作った。だが、リュック・ベッソンは自ら作った『フィフス・エレメント』(1997)を20年も経って焼き直して『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』(2017)を作る‘べけんや’…Da(駄)! 《むしろ珍品だと思うが、こっちまでつられて笑ってしまうようなハッピーなバイブスにあふれた》作品といえば、マイク・ホッジス版『フラッシュ・ゴードン』(1980)やデヴィッド・リンチ版『砂の惑星』(1984)に言えることで、あばらかベッソン版『ヴァレリアン』は笑えないしハッピーじゃないし「命の母」でもないの…Da, Da, Da, Da, Da, Da, Da, Da, Da, Da, Da, Da(駄)!
 
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よそ者への愛

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年03月10日 23時30分]
昔むかし、嘘や苦痛のない魔法の王国が地面の下にあった。その国の王女は人間の世界を夢見て地上へ出たが、全ての記憶を失って魂だけが少女オフェリア(イバナ・バケロ:演)に宿った。1944年、スペインの山間に王国の従者パン(ダグ・ジョーンズ:演)が現れてオフェリアへ3つの試練を与え、少女は幻想の国で永遠の幸せを探したが継父ヴィダル(セルジ・ロペス:演)に殺された。フランコ政権軍の大尉であるヴィダルはレジスタンスに殺された。パンはペイルマンからギルマンへ姿を変えて南米アマゾンへ移り住んだ。それから18年、捕獲された不思議な生きもの(ギルマン/ダグ・ジョーンズ:演)がアメリカのボルティモアの政府機関へ運ばれてきた。そのオッカム航空宇宙研究センターには、魔法で甦ったオフェリアとヴィダルもいた。オフェリアは声も失って熟女の清掃員イライザ(サリー・ホーキンス:演)となり、ヴィダルはストリックランド大佐(マイケル・シャノン:演)として機関を総ていた。ストリックランドの魔の手がギルマンとイライザに迫る。王女イライザはギルマンと共に魔法の王国へ帰ることができるのか?──切なくも愛おしい愛の物語。
 よそ者への愛 (1) よそ者への愛 (2)
 
『シェイプ・オブ・ウォーター』(The Shape of Water) 観賞後記
 
映画『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)は、ギレルモ・デル・トロ(監督・脚本・製作)による『パンズ・ラビリンス』(2006)の続編(?)だった。童話「人魚姫」(ハンス・クリスチャン・アンデルセン/1936)を何もかも逆に設定し直して、映画『大アマゾンの半魚人』(ジャック・アーノルド監督/1954)を元に、映画『スプラッシュ』(ロン・ハワード監督/1984)を焼き直して、小説『美女と野獣』(ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ/1740)のような異類婚姻譚に仕立てたもので、それ以上でもそれ以下でもない、《切なくも愛おしい愛の物語》として退屈な凡作である。
 よそ者への愛 (3) よそ者への愛 (5)
 
 《曖昧で新鮮味のない考え方かもしれないが、愛こそが、恐怖や憎悪によっ
  て堕落したあらゆるものに効く解毒剤だ。しかし、僕たちは感情を恐れる
  時代に生きている。愛についての発言が愚かで浅はかだと思われるリス
  クを避けたいがため、僕たちはその本質について口にするのをためらっ
  てしまうのだ(ただし、愛を語るのが愚かで浅はかだとするのが、既存理
  念に対して懐疑的、嘲笑的な態度をとるシニシズムだと解釈するなら、そ
  れはそれで洗練された思考だと言えなくもないのだが)。(略) 僕は信じ
  ている。僕たちは互いに愛し合うことができる一方、“違っている”ことや
  “よそ者”であることを恥ずべき存在だとする者たちと距離を置くこともで
  きるのだ、と。でっち上げのイデオロギーに感化されずやり過ごせるので
  あれば、最後には敵などいなくなるだろう。僕はつまり、僕以外と常に合
  わせ鏡にある。“よそ者”はいつだって僕たちなんだ。》 (ギレルモ・デル・
  トロ 序文「創造されるべき形」/『ギレルモ・デル・トロのシェイプ・オブ・
  ウォーター 混沌の時代に贈るおとぎ話』 ジーナ・マッキンタイヤー:著 阿
  部清美:訳 DU BOOKS:刊 2018)
 
 よそ者への愛 (4)
ギレルモ・デル・トロが映画『シェイプ・オブ・ウォーター』へ込めた、その熱い‘愛’は私にも捉えられた。ただし、《曖昧で新鮮味のない》作品に対して《懐疑的、嘲笑的な態度をとる》ことを私は躊躇しない。《“違っている”ことや“よそ者”であることを恥ずべき存在だとする者たちと距離を置くこと》は、‘愛’なのか? でっち上げの‘愛’に感化されずやり過ごせるのであれば、私は『シェイプ・オブ・ウォーター』を観に行かなかっただろう。私は信じている。‘愛’ばかりでっち上げすぎると‘粋’(いき)じゃなくなるのだ、と。《“よそ者”はいつだって僕たちなんだ》と言うギレルモ・デル・トロよ、私はいつだって“よそ者”への愛に対しても“よそ者”なんだ。本当に《切なくも愛おしい愛の物語》とは、そういうものだろう。
 
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ボスのまなざし

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月23日 23時30分]
ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)ことイェルーン・ファン・アーケン(Jeroen van Aken/1450-1516)の絵画に関するドキュメンタリー映画が日本で公開された。この三連祭壇画〈快楽の園〉(悦楽の園:Tuin der lusten)については、石牟礼道子も触れていた。
 
 《ニ十世紀の終焉がわたしに憑いていた。わたしだけでなく、地表の上のも
  のたち、魚や鳥にも、果物や野菜たちにさえそれが憑いていた。あのヒ
  エロニムス・ボッスが生きていたとしたら、憑いているものが悪霊である
  か神であるか描きわけることだったろう。》 (石牟礼道子 『苦海浄土』第
  二部「神々の村」第四章「花ぐるま」/『石牟礼道子全集 不知火』第二
  巻 藤原書店:刊 2004)
 腐ったまなざし (1)
 《地獄を描いたとみられるパネルの中央あたりに、「樹男」と呼ばれている
  不思議な顔があります。(略) 私の関心はなかんずくその樹男のまなざ
  しにあります。ロンドンの出版社から出たその画集の顔の目は、この世
  の成り立ちを凝視しているうちに、ついに彼の目そのものが、この世の
  虚無をあらわしてしまう、そんなまなざしなのです。》 (石牟礼道子 「高
  群逸枝のまなざし」/高群逸枝『恋愛論』講談社文庫版 解説 1975)
 
〈快楽の園〉の樹男(tree-man)のまなざしに高群逸枝のまなざしを置き換えてみた石牟礼道子のまなざしを、臼井隆一郎のまなざしはヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンのまなざしを取り入れたヴィルヘルム・フレンガーのまなざしで解き明かしている(臼井隆一郎 『「苦海浄土」論 同態復讐法の彼方』 藤原書店:刊 2014)。だが、私のまなざしは何か別のものをみている。ヒエロニムス・ボスのまなざしは、どこへ向けられていたのか? その妻アレイト・ファン・デ・メールフェンネの信仰に、彼のまなざしはどれほど影響されていたのか? 帰属した結社は正統なのか異端なのか? するとそこへ、映画の予告編が「美術界最大の問題作を通して奇想の画家の素顔に迫る」と言っている…本当か? 観てみよう。
 
『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』 (El Bosco El Jardín de los sueños) 観賞後記
 
 腐ったまなざし (2)
映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』は、‘まなざし’どころか‘目を覆う’べき愚作だ。プラド美術館による「全面協力!」どころか、同美術館の宣伝フィルムでしかない。著名な画家・漫画家・作家・歌手などが演者としてゾロゾロ登場するが、薄っぺらな感想を無責任にたれ流すだけで何の足しにもなっていない。ボス研究の美術史家ラインダー・ファルケンブルグもわけのわからない妄言をブツブツ言うだけで、《奇想の画家の素顔に迫る》どころか何一つ‘謎’の解き明かしがない。仮にテレビ向け特集番組をBBCやNHKに作らせたとしても、その方が百倍マシであろう。ホセ・ルイス・ロペス=リナレス監督の撮影そのものが《この世の虚無をあらわしてしまう》、そんな映画なのである。
 
ヒエロニムス・ボスの〈快楽の園〉にキリスト教の異端を嗅ぎ取ったヴィルヘルム・フレンガーのまなざしは、 澁澤龍彦から石牟礼道子を経て臼井隆一郎へと連綿たるものだ。しかし、私はまなざしを‘外’へ向けたい。三連祭壇画で観照されるのは、《憑いているものが悪霊であるか神であるか描きわける》内面3枚のパネルではなくて、パネルを閉じた時に現れる両翼外面に描かれた図像である。映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』では、内面3枚の絵から人や獣など動物の類を全て消し去って見せていたが、そんな演出をしなくても外面に天地創造3日目が描かれていて植物はあっても動物はいない。善も悪もなく失楽も官能もない無人の世界、それこそが《この世の虚無をあらわしてしまう》ボスのまなざしの観照であろう。
 
 腐ったまなざし (3) 腐ったまなざし (4)
映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』は、「この世は 地獄か? 天国か?」という実にバカげた惹句が付されていた。こんな腐った‘まなざし’の映画を観るのであれば、セルティック・フロストの‘Into The Pandemonium’とディープ・パープルの‘素晴らしきアートロックの世界’(Deep Purple)とパールズ・ビフォア・スワインの‘One nation underground’を聴きながら、山尾悠子の『夢の棲む街/遠近法』(三一書房:刊 1982)とカルロス・フエンテスの『テラ・ノストラ』(本田誠二:訳/水声社:刊 2016)を読んでいた方がずっと好い。
 
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君よ憤怒の皮を被れ

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月10日 01時30分]
夜に新宿で駅の東口側から角筈ガードを潜ると刑事に追われているんじゃないか、西口側へ抜けると旧青梅街道を馬が集団で駆けてくるんじゃないか、そういう気分になったことは何度もある。だが、追っていた下川辰平(1928-2004)も追われていた高倉健(1931-2014)も死んでもういない。そして、原田芳雄(1940-2011)も大滝秀治(1925-2012)も死んでもういない。駆けてきた馬に乗った気分でスキャットを口ずさみながら新宿西口を南下したくても、沢田靖司(1939-2017)も昨年4月18日に死んでもういない……《男にはね、死に向かって飛ぶことが必要な時もあるんだ》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 君よ憤怒の皮を被れ (1) 君よ憤怒の皮を被れ (2)
 
  ダーヤラーダヤララダヤララー ダーヤラーダヤラダダヤララー
  ダヤラーヤラダーヤラダーヤラー ダヤラーヤラダーダヤラーァー ♪
 
『マンハント』(追捕) 観賞後記
 
 君よ憤怒の皮を被れ (3)
このリメイク映画は、始まってスグに主役のドゥ・チウ(チャン・ハンユー:演)が「孤独の逃亡」(杜丘之歌/『君よ憤怒の河を渉れ』主題歌/青山八郎:作曲)を口ずさみ、敵役のレイン(ハ・ジウォン:演)とドーン(アンジェルス・ウー:演)とも『君よ憤怒の河を渉れ』の台詞を話題にする。直後にレインとドーンが服をはためかせて背中合わせに拳銃をぶっ放してヤクザを皆殺しにする待ってましたの‘ジョン・ウー・アクション’、そのBGMは「孤独の逃亡」。ジョン・ウー監督、よくやった! 泣けてくるぜ! …ん? チョット待て? 『マンハント』の杜丘(ドゥ・チウ)は「濡れ衣を着せられて逃げる杜丘(もりおか/高倉健:演)と追う矢村(原田芳雄:演)と助ける真由美(中野良子:演)」という映画を熟知している上で、同名の矢村(福山雅治:演)や真由美(チー・ウェイ:演)と一緒に逃亡劇を再現していくのか? オカシイだろ、ジョン・ウー! 《なぜだ、なぜなんだ》……《あなたが好きだから》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 
 君よ憤怒の皮を被れ (4)
大映を倒産させた永田ラッパ雅一が製作(新・大映と永田プロ)で佐藤純彌と高倉健が東映を外れて初に監督と主演で配給は松竹という映画『君よ憤怒(ふんど)の河を渉れ』(1976)は、整合の欠片も無い無茶苦茶な痛快娯楽作品だった。そのリメイク映画(実際は西村寿行の原作小説『君よ憤怒(ふんぬ)の河を渉れ』の映画化権再取得)である中国映画『マンハント』(追捕/2017)は、ある意味で旧作の続編のようだ。意味もなく武闘に強すぎる中国人弁護士、湯川学比古清十郎にしかみえない捜査一課係長、中国(大陸本国も香港も台湾も含めて)へも日本へもウケを狙った八方美人の演出、整合の欠片も無い無茶苦茶な痛快娯楽作品に仕上がっていた……《見たまえ、あの青い空を。歩いていくんだ。君はあの青い空に溶け込むことができる》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 
 君よ憤怒の皮を被れ (5)
映画『マンハント』は、オール日本ロケの中国映画でもスケール感は弱いし、アクションはともあれ情感で追い込みまくって爆発させる‘ジョン・ウー節’も中途半端だが、何故だか‘憤怒’しきれない愛嬌のある作品だ。ちなみに、女優陣は全員どヘタクソだが愛嬌がある。ここを「マンハント」じゃなくて「ウィミンハント」して、「追捕」じゃなくて旧作の「追補」版と捉えて、「君よ憤怒の皮を被れ」と勝手に改題しておこう。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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