料理人に至高なし

ジャンル:グルメ / テーマ:海外レストラン / カテゴリ:食の記 [2018年08月13日 05時30分]
料理の《味に「究極」などというのは、実はあり得ない》と、辻󠄀静雄は言っていた(『料理に「究極」なし』 文藝春秋:刊 1994)。《「究極の食事」(パーフェクト・ミール)という考えそのものがばかげている》と、アンソニー・ボーデインも言っていた(『世界を食いつくせ! キッチン・コンフィデンシャル・ワールド・エディション』 野中邦子:訳 新潮社:刊 2003)。だが、私の記憶が確かならば、料理の世界には‘法王’とか‘神様’とか呼ばれる料理人がいた。では、彼らは「究極」の存在なのか? はて、料理人に「至高」はあるのか?
 
 料理人に至高なし (1)
ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)は、畔柳潤より285日早い1926年2月11日に生まれて、アーシュラ・K・ル=グウィンより2日早い2018年1月20日に死んだ。
 《ポール・ボキューズを紹介するとなると、非常にスケールの大きな人間の
  姿を描くことになる。フェルナン・ポワンの影響であろうか? 確かに師と
  同じように、彼は調理場から離れる。ただし、料理人の白衣を身につけ
  たままだ。彼の望みは、料理人がその苦労にふさわしい報いを客から
  受け取ることである。》 (エドモン・ネランク/『フランス料理の歴史』 ジャ
  ン=ピエール・プーランと共著 山内秀文:訳 KADOKAWA:刊 2017)
 料理人に至高なし (2) 料理人に至高なし (3)
「ポール・ボキューズ。料理人としての私にとって最初のヒーロー。とても寛容で偉大な偉大なシェフ。彼と過ごした時間は名誉であり夢の実現。安らかに眠れ」と、アンソニー・ボーデインはツイートした。ポール・ボキューズが創設した国際料理コンクール「ボキューズ・ドール」の初の大会委員長を1987年に務めて2017年には名誉会長となったジョエル・ロブションは、リヨンのサン・ジャン大聖堂で行われたボキューズの葬儀に参列した。
 
 料理人に至高なし (4)
ジョエル・ロブション(Joël Robuchon)は、ジャン・ドラヴェーヌより丸26年遅い1945年4月7日に生まれて、アラン・サンドランスより407日遅い2018年8月6日に死んだ。
 《彼の魂の父であり良き仲間、その歩みを導いた人物の名前は、ここまで
  伏せておいた。メートル・キュイジニエ・ドゥ・フランスのジャン・ドラヴェー
  ヌである。キャリアを重ねるにつれて、ロビュションは、技術の向上と美
  意識の進化のためには調理工程の管理が必要であることを痛感する。
  こうして確立したロビュション・スタイルが、彼の料理創造のいたるところ
  に浸透している。》 (エドモン・ネランク/前掲『フランス料理の歴史』)
 料理人に至高なし (5)
2010年にテレビ番組「アンソニー世界を喰らう」(No Reservations)の100回記念でエリック・リペール(リパート)と共にパリを訪れたアンソニー・ボーデインは、ジョエル・ロブションとムフタール通りのカフェ「ル・パピヨン」で会食した。「師匠ジョエル・ロブションの死にショックを受け、とても悲しい。厳格で几帳面で要求も多い、驚くべき才能に恵まれたシェフの王。安らかに眠れ」と、エリック・リペールはツイートした。
 
 料理人に至高なし (6)
アンソニー・ボーデイン(Anthony Bourdain)は、アラン・デュカスより80日早くてアラン・パッサールより40日早い1956年6月25日に生まれて、ポール・ボキューズより139日遅くてジョエル・ロブションより59日早い2018年6月8日に死んだ。
 《コックはみんなセンチメンタルな道化だ。とどのつまり、料理についても同
  じことがいえるのかもしれない。(略) この世に道理があるならば、私は
  少なくとも二回は死んでいたはずだ。(略) 「人生をもっと楽しめばよかっ
  た! もっと気楽に生きて、好きなことをすればよかった……」 こんな後
  悔だけは、私にはない。(略) 私が悔いるのはもっと情けないもので、人
  を傷つけたこと、人の期待を裏切ったこと、時間や金を無駄に費し、恵
  まれた立場を十分に活かさなかったことだ。私はいまもここにいる。自
  分でもそのことに驚いている。毎日そう感じる。》 (アンソニー・ボーデイ
  ン 『キッチン・コンフィデンシャル』 野中邦子:訳 新潮社:刊 2001)
 料理人に至高なし (7)
この世の道理にしたがえば、アンソニー・ボーデインは一回だけ死んだ。テレビ番組「アンソニー世界を駆ける」(Parts Unknown)のロケでエリック・リペールと共にアルザス地方を訪れたボーデインは、泊まっていたホテル「ル・シャンバール」の部屋で首を吊って自殺したのである。「ル・シャンバール」はミシュランガイド2つ星のレストランでもあり、オーナーシェフのオリヴィエ・ナスティは「料理人で著述家で司会者で先駆者であったアンソニー・ボーデインに大きな敬意を表し、彼の家族と彼に夢見た世界中の人々に哀悼の意を表します」とフェイスブックに掲げた。
 
料理に「究極」はない。それはセンチメンタルな道化だ。とどのつまり、料理人についても同じことがいえる。至高の料理人という考えそのものがばかげている。死んだ料理人は料理をつくらない、そのことを驚くにあたらない。料理人には志向や思考や嗜好がある者もいるのだろうが、料理人に「至高」はあり得ないのだ。
 
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珈琲どんとせい

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年08月10日 01時00分]
長谷川利行(1891-1940)は、「砂糖の甘いコーヒーは温かい」と言い、「アルコールは芸術である」とも言った(「鶏のやうな感想」/『みづゑ』三三八 1933)。さて、コーヒーは芸術であるのか否か? 私は「長谷川利行展 -藝術に生き、雑踏に死す-」を観てから‘チェリオ’気分が抜けないが、利行はコーヒーを飲んでも‘チェリオ’(乾杯)を叫んでいたのだろうか? …どんとせい!
 
 珈琲どんとせい (1)
長谷川利行が描いた油彩画「カフェ・パウリスタ」(1928)は、「第3回一九三〇年協会展」に出品された後に、谷中初音町の下宿先に利行が家賃代わりに置いていったとされている。それから79年後、下宿屋の経営者の子息である福井龍太郎によってテレビ番組「開運! なんでも鑑定団」(テレビ東京系/2009年2月24日放送)に出品され、永井龍之介の鑑定で1800万円の評価額が付された。そして、東京国立近代美術館が2009年度に1200万円で購入して修復された。利行が制作してから90年を経て、この油彩画「カフェ・パウリスタ」を私は「長谷川利行展」で観たが、描かれたカフェーパウリスタが銀座なのか浅草なのか神田なのか、どの喫店かは判らなかった…どんとせい!
 
 《そのとき注目されるのが、女給以外に人物が描かれていない点だ。これ
  は、カフェ・パウリスタが人気店だったことを考えると、実に奇妙な事態
  である。(略) なおカフェ・パウリスタは、女性ではなく少年が給仕するこ
  とで有名であったから、本作に女給が描かれていることを訝しく思う向
  きもあるかもしれない。しかし、カフェ・パウリスタに女給が全くいなかっ
  たというわけではなかった。酒井眞人は1929年に刊行された『カフェ
  通』において、「浅草のパウリスタが、いつの間にかウェイトレスを置い
  て、俄にカフェらしく盛り返して来たのも、鳥渡近頃の面白い現象であ
  る」と述べており、当時の競争の激しいカフェ業界において女給の存在
  はやはり不可欠であったことがわかる。本作は、その酒井の記述より
  一年ほど前になるし、何店を描いたかは不明ではあるけれども、美術
  (史)の立場からすれば、そうした実証性を云々するよりも、先述した
  「静けさ」の問題を考えることの方がずっと重要であるのは言うまでも
  ない。》 (保坂健二朗 「長谷川利行作《カフェ・パウリスタ》の調査報告
  ─来歴、「価格」、主題、修復、成分分析、X線透過写真について」/
  『東京国立近代美術館 研究紀要』第15号 2011)
 
 《珈琲を運ぶ給仕に、従来の女給ではなく、少年たちを採用したことも斬
  新だった。(略) 端正な美少年たちによる接客サービスは大正時代の
  日本人を驚かせた。》 (長谷川泰三 『日本で最初の喫茶店「ブラジル
  移民の父」がはじめた カフエーパウリスタ物語』 文園社:刊 2008)

珈琲狂の立場からすれば、長谷川利行の「カフェ・パウリスタ」に《女給以外に人物が描かれていない点》よりも、《女給が描かれていること》の問題を考えることの方がずっと重要であるのは言うまでもない。カフェーパウリスタについては、若い男性が給仕することで《大正時代の日本人を驚かせた》のかもしれないが、それ以前の‘明治期’と以後の‘昭和期’には女給も接客したのである。カフェーパウリスタの喫店第1号とみられる大阪の箕面店は、1911(明治44)年6月25日に開業した。この箕面店では、開店広告(『大阪朝日新聞』 1911年6月24日)や催事コーヒー券(「山林こども博覧会」 1911年10月)に女給の姿が描かれている…どんとせい!
 珈琲どんとせい (2)
 
 《明治44(1911)年7月10日の『菓子新報』にも「大阪だより」の欄で大谷
  生によるカフエーパウリスタ箕面店について次のような投稿がみえる。
   彼の設備は、実に小気味良く行き届いて居る、嫌味なくして清楚に、
   艶ならずして瀟洒に、若し夫れ山を下って、其の汗が玉をなすの時、
   楼に上り、欄に倚り、颯々たる涼風に吹かれ、其南面の景を眺望し
   つゝ、一椀のコーヒを喫すれば、魂は倏ち風塵里を去って楽園に逍
   遥するであろう、殊に之に侍するの女は、穢れに染まぬ素人の処女
   なるに於いてをやである (後略)》 (中牧弘允 「旧カフエーパウリスタ
  箕面店が提起する問題」/『JICA横浜 海外移住資料館 研究紀要』
  第8号 2014)
 
‘明治期’のカフェーパウリスタ箕面喫店には、女給が侍していた。次に、長谷川利行が描いた‘昭和期’のカフェーパウリスタに、《女給が描かれていること》の問題を考える。ここで注目されるのが、先の酒井眞人による《浅草のパウリスタが、いつの間にかウェイトレスを置いて、俄にカフェらしく盛り返して来た》という記述である。盛り返す前には頓挫や衰微があったわけで、それは‘大正期’のカフェーパウリスタに始まっていた…どんとせい!
 
 《一般に「大正パウリスタ」は、関東大震災と無償珈琲の打ち切りにより経
  営破綻を来したように言われていますが、実はそうではありません。大
  正八年六月のヴェルサイユ条約締結後、日本の景気も徐々に反動不
  況期に入っていきますが…(略) 大正一〇年に入り業容の縮小で不況
  を凌ぐしかないと判断した経営陣は、閉店しては肝心の珈琲の販売に
  支障が出るので、喫茶店の営業権を譲渡することとし、売上、利益とも
  順調に推移していた神田と浅草、それに発祥の地銀座の三店を手放
  すことになります。》 (岡本秀徳 「「大正パウリスタ」の終焉」/星田宏司・
  岡本秀徳 『「銀ブラ」の語源を正す カフエーパウリスタと「銀ブラ」』 いな
  ほ書房:刊 2014)
 
こうして、1910(明治43)年2月に水野龍らによって設立されたカフェーパウリスタ(当初は合資会社、1913年10月より株式会社)は、1924(大正13)年までに全ての直営喫店を失ってカフェ経営から手を引いた。1928(昭和3)年に長谷川利行によって描かれたのが何処の喫店であれ、それは‘大正期’とは運営の母体も方針も異なるカフェーパウリスタの姿であり、《本作に女給が描かれていることを訝しく思う》理由は何もないのである…どんとせい!
 
  オリエンタルの女給美くし 青年の夢に対する アダバナだ──
  三橋亭のウエトレスは 蛇にみえない伸びやかさだ
  エプロンの白さは 彼女の感情のブルモサだ
  なんと云ふ感情のよさだ 間違つたら御免なさい
  (長谷川利行 「キヤフェーを讃ふ」/『中央美術』昭和四年二月号 1929)
 
 珈琲どんとせい (3) 珈琲どんとせい (4) 珈琲どんとせい (5)
長谷川利行が訪れたカフェは、「パウリスタ」以外でも「オリエント」や「三橋亭」や「リリオム」や「モナミ」や「タイガー」など多数ある。その中には利行が油彩画で描いた店もあるが、さて、利行はコーヒーを飲みながら描いたのだろうか、それとも酒か? 利行はコーヒーを飲んでも‘チェリオ’(乾杯)を叫んでいたのだろうか? そもそも、長谷川利行にとって、コーヒーは芸術であるのか否か? …どんとせい!
 
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バカボンのパパよりバカなリコウ

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2018年08月05日 23時30分]
長谷川利行(はせかわ としゆき:1891-1940)は名を‘リコウ’とも呼ばれるが、バカなのかリコウなのか、わからない。時に‘天才画家’とも‘日本のゴッホ’とも称される利行だが、バカと天才は紙一重である。私は気が違うのでファン・ゴッホを好かないが、長谷川利行はファン・ゴッホではない。その長谷川利行の絵画展が、福島と東京(府中)を経て愛知(碧南)へ巡回してきた。監修者の原田光は、《長谷川利行は何者か。おもしろい。》と言う(「傑作、幻の作、大作、出現 近年の再発見作品をめぐって」/『美術の窓』2018年4月号 生活の友社:刊)。…ぶらり、いこう。
 バカなリコウ (1) バカなリコウ (2)
 
碧南市制70周年記念事業 開館10周年記念
「長谷川利行展 -藝術に生き、雑踏に死す-」 (碧南市藤井達吉現代美術館)
 
酷暑だからか意外と人が疎らな昼下がりの館内、2階から1階へ、3つの期(上京-1929/1930-1935/1936-死)に分けられた約130点の作品を順に観る。「夏の遊園地」(1928)や「地下鉄ストアー」(1932)や「ノアノアの少女」(1937)に魅入られた。だが、各期での関心はやはり、以前の長谷川利行展には並ばなかった《近年の再発見作品》の3点に向く。「カフェ・パウリスタ」(1928)と「水泳場」(1932)と「白い背景の人物」(1937)…どんとせい!
 
 バカなリコウ (3)
 《「カフェ・パウリスタ」を、初期室内画の傑作だと思う。(略) ざっと描いて
  あるのだが、そのざっとが動きを誘ってくる。だんだん見えてくる。昭和
  のカフェが見えてくる。このいわば室内空間画といった絵は、いつまで
  眺めても、飽きない。》 (原田光 「傑作、幻の作、大作、出現 近年の再
  発見作品をめぐって」/前掲 『美術の窓』2018年4月号) 
 バカなリコウ (4)
 《「水泳場」は、山谷のドヤにいたときの傑作。(略) 貧窮の影の底をさま
  よっていたといって、人は利行に思いを寄せるが、この絵の、何という
  明るさよ、ほがらかさよ、幸福感さえ漂わせている。利行って、そういう
  やつだという他ない。うかがい知れない。》 (原田光 前掲稿) 
 バカなリコウ (5)
 《まったくどうでもいいような題名の「白い背景の人物」。(略) 線の暴走に
  目鼻をつけて、それだけで、女たちだ、男がひとり。どう見ても、しかし、
  利行は線そのものを見せようとしている。強さ、勢い、変化。線とは何だ、
  と。もう、現代美術なのだ。》 (原田光 前掲稿)
 
 バカなリコウ (6) バカなリコウ (7)
今般の碧南での展示は、2つの「カフェ・パウリスタ」(1928/1929)、2つの「カフェ・オリエント」(1935/1936)、それぞれを並べてあって好感。「カフェ・オリエント内のスタンド」(1928)が出品されていないのは残念。館を出て100m西へ。開店12日目の石川八郎治商店(九重味淋)で、みりんソフトクリームを買い食い。50m戻り、痛いほどの陽射しを避けて木蔭のベンチで煙草を喫する。
 
 妄念の新らたまりぬる林間にしばし憩ひて吸う煙草かな
 (長谷川利行 『長谷川木葦集』 1919)
 
美術館向かいの大浜まちかどサロン2階で、「長谷川利行展」の記念講演を聴く。「街がアトリエ」と題した原田光の講話。「水泳場」はドンゴロスに描いてあるそうな。クソジジイ木村定三が利行生存中に新宿の個展で観て買った作品はイイなどと、ご当地ヨイショも含めて晩年(第3期)の作品を主に解説。もっとも、そのクソジジイ木村定三自身は、《私は生前の長谷川利行を知らない。私と利行作品の最初の出会いは、高崎正男が昭和17年と思うが、名古屋の丸善で彼の遺作展を開いた時で、初めて見る利行の画に感動し数点の作品を求めた》(「長谷川利行の芸術」/図録『放浪の鬼才 日本のゴッホ 長谷川利行展』 1979)と記していたけどなぁ…。原田光曰く、ピンボケの「新宿風景」(1938)などは、街を描いているというより歩いている、と。焦点が合っていないまま歩き去ってしまう、風のように過ぎ去ってしまう、それは利行の‘人生’そのもの(?)とまで言いたくない、と騙った。いや、そのものだろう(笑)…チェリオ!
 
 確信が出来ないのです確信することはおそろしい固執だからです。
 (長谷川利行 『長谷川木葦集』 1919)
 
 バカなリコウ (8) バカなリコウ (9)
《長谷川利行は何者か》…今般の「長谷川利行展」を観ても、それはわからなかった。ただ、長谷川利行が飲んだくれで嘘つきで傲慢で見栄っ張りなゴロツキ画家であったことは、確信ができた。《おそろしい固執だから》こそ、確信ができる。利行の画業も人生も、「ぶらり、いこう」であると同時に「無頼(ぶらい)、利行(りこう)」だったのだ。つまりは、「バカボンのパパよりバカなリコウ」…これでいいのだ!
 
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子ども珈琲電話相談 3

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年08月01日 01時00分]
夏休み子ども珈琲電話相談」は、小中学生のみなさんの珈琲に対する疑問や興味にこたえる番組です。りっぱな(?)質問でなくてもかまいません。ふと、頭に浮かんだ謎、素朴な質問でも大丈夫です。ぜひ、夏休み中のお子さんとご一緒にお楽しみください。
 子ども珈琲電話相談
 
【難敵】
「お名前と学年を教えてください」 「切多(きれた)呉馬(くれま)です。小学3年生です」 「呉馬くんの質問はどういうことかな」 「えっと、カフェインレスのコーヒーはなぜ美味しくないのに値段が高いのですか?」 「はい。呉馬くんはカフェインレスをインスタントコーヒーで飲んだのかな」 「えっと、インスタントは飲みません。僕はスペシャルティグレードの生豆で脱カフェイン処理をしたものを自分で焙煎して、その豆の状態や特徴に合わせて淹れ方を変えて飲んでみました」 「すごいですね。では、中森先生に訊きますね」 「中森です。どんな方法で処理したコーヒーを飲んだのかな」 「水で処理したものと二酸化炭素で処理したものです。でも、どれも不味かった」 「う~ん。これはね、難しい問題ですね。まず値段が高くなる理由を説明しましょう」 「余分な手間がかかるからですか」 「あ、もうわかっていますね。その通りです。あと、普通のコーヒーほどには売れないから割高になっちゃうんですね」 「だって不味いもん」 「呉馬くん、どうしてカフェインレスは不味いんだろう」 「脱カフェインの処理をする前に豆を蒸したり、処理する溶剤の温度を上げたり、処理をした後の乾燥温度が高かったりして、その熱でコーヒーがダメになるからだと思います」 「よく勉強されていますね。でも昔より美味しいと先生は思うけどな」 「脱カフェイン処理した方が美味しくなるコーヒーがあるんですか」 「え? いや、そうじゃないけれど…呉馬くんは不味いコーヒーを飲みたくないんだね」 「はい」 「でも、世の中には大した根拠もなくカフェインは取らない方がいいという人がいっぱいいるんだよ。そうすると、コーヒー売れないよね」 「最後は金目(かねめ)でしょ」 「そう、大人の事情だね。わかりますか」 「えっと、はい…」 「じゃ、さよなら~」 「さよなら…」
 
【瞬殺】
「お名前と学年を教えてください」 「降井(ふるい)小奈(こな)です。小学1年生です」 「訊きたいことはどういうことかな」 「えっと、サードウェイブの次のフォースウェイブコーヒーって何ですか?」 「はい。小奈さんはフォースウェイブと言われているコーヒーを飲んだのかな」 「飲みません」 「えっ?」 「えっと、コーヒーは日本型の喫茶店でもコンビニでも飲まないし、コールドブリューもカフェインレスも飲みません。私が選んだ生豆を父が焙煎してバリスタの兄に淹れてもらって家飲みはしているけれど…」 「は、はい。では、居藤先生に訊きますね」 「居藤です。小奈さんはコーヒーの歴史に第一、第二、第三、第四と呼ぶべき‘波’があると思いますか」 「わかりません」 「ウソ、許せないウソです。わかりましたか」 「えっと、はい…」 「じゃ、さよなら~」 「さよなら…」
 
【拒絶】
「お名前と学年を教えてください」 「陶田(すえた)亜呂真(あろま)です。小学6年生です」 「質問はどういうことですか」 「えっと、日本初の缶コーヒーは誰がつくったのですか?」 「はい。亜呂真くんはどうしてこの疑問を思いついたのですか」 「缶コーヒーのことを調べていたら、最初に缶コーヒーをつくったのはポッカレモンとか上島珈琲とか外山食品とか明治製菓とか色んな説があって、よくわからなくなってしまいました」 「なかなか難しそうな問題ですね。では、神野先生に訊きますね」 「えっ? 中森先生か居藤先生で…」 「亜呂真くんの質問は、自称コーヒーの地域文化研究者である神野先生がお答えします」 「我が輩がコーヒー郷土史家の神野じゃ。世界初の缶コーヒーは三浦義…」 「さよなら…」 「あっ、亜呂真くん、亜呂真く~ん」 (ツーッ、ツーッ…) 「え~と、切れましたね。さぁ、今日もたくさんの質問ありがとうございました」
 
お楽しみいただけましたか? 《生み出してくれる人がなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することは出来やしない。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。これは、何も、食物とか衣服とかという品物ばがりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心な人なんだ》(『君たちはどう生きるか』 岩波文庫)と吉野源三郎氏は不粋に下劣な垂訓をしました。でも、珈琲を味わったり楽しんだり、珈琲にどう生きるかを考える、そこに子どもか大人かは関係ありませんし、生産者か消費者かも関係ありません。夏休みも珈琲に生きるだけです。
 
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蕎麦に居るね 32

ジャンル:グルメ / テーマ:蕎麦 / カテゴリ:食の記 [2018年07月30日 05時30分]
蕎麦の業界もコーヒーの業界と同様に、次第に‘アヤシイ’ことになっている。そんな時には、通りがかった蕎麦屋へふらりと寄って、その‘アヤシイ’ところを味わってみる。
 
2018年7月12日
 蕎麦に居るね32 (1) 蕎麦に居るね32 (2)
「そば処 吉野家」掛川パーキングエリア上り店で、「かき揚げエビ天重(小)と冷しかけそばセット」を食す。
近頃は「黒い吉野家」が増えているようだが、飯屋とも呑み屋ともカフェともハッキリしない構えに惹かれはしない。98日ぶりに「青い吉野家」へ寄れば、《安定の味わい》が崩れている。蕎麦の締めが弱くてぬるい麺、油が鈍くて臭い天重…ボーっと出してんじゃねーよ! 《ドトールコーヒーショップのような蕎麦屋》という以前の評は何としよう?
 
2018年7月13日
 蕎麦に居るね32 (3) 蕎麦に居るね32 (4) 蕎麦に居るね32 (5)
「砂場」で、「もり」を食す。
他用の式宴へ参加する前に、南千住の「砂場」で小腹を満たす。硬過ぎず柔過ぎずの麺に辛過ぎず甘過ぎずの汁、フツーに美味い。昼前なので客は私一人、トロンとした蕎麦湯と煙草を喫しながら、東京スタジアムと博物館明治村の繫がりなどを店主(長岡孝嗣氏)へ説いて過ごす。野暮じゃない庸俗の蕎麦屋は、他の老舗で味わい難い好さ。
 
2018年7月14日
 蕎麦に居るね32 (6) 蕎麦に居るね32 (7)
「蕎麦きり みよた」八重洲地下店で、「冷し鴨茄子そば」を食す。
南青山の「蕎麦きり みよた」へは開業65日目に訪ねて以来、通りがかっても行列が長過ぎて寄っていない。今般に八重洲の地下街をブラついていると、「みよた」が出店していた(2018年6月20日)ので寄った。色物じみた「冷し鴨茄子そば」の仕立てに文句はないが、麺から星が減じて風味も変わった? これならば、同じ三ツ和の「小諸そば」で充分。
 
2018年7月15日
 蕎麦に居るね32 (8) 蕎麦に居るね32 (9) 蕎麦に居るね32 (10)
「そば処 よし田」で、「天せいろ」を食す。
移転再開した銀座の「よし田」へは行っていないし、名古屋の「よし田」は中日ビルの取り壊しを前に閉店した(2017年12月31日)。静岡県島田市へ帰省中、生家より400mの「よし田」へ。「天せいろ」は、汁が蕎麦と天ぷらの共用で気に入らないが、効いた出汁が細切りの麺に上品な感じで合って…昔の大衆食堂的な「よしだや」じゃない!(笑)
 
2018年7月28日
 蕎麦に居るね32 (11) 蕎麦に居るね32 (12)
「そば処 よし田」で、「冷したぬき」(大盛)を食す。
再び帰省中に島田の「よし田」へ。昼食に冷たい「たぬき」の大盛り。冷たい甘汁は予想以上に甘くなくて、細切りの麺に上品な感じで合って…昔の大衆食堂的な「よしだや」じゃない!(笑) 勘定の時に訊いてみると、島田市内の製粉所は閉めてしまったそうだが、この(私にとって幼少期の記憶とは異なる)‘新たな’(?)「よし田」、新たに‘使える’店だ。
 
チェーン店であってもブレる、系譜や系列で括ってもモノが違う…コーヒー屋も蕎麦屋も、老舗でも新興でも、姿勢でも技能でも、概ねが新自由主義的に‘アヤシイ’ことになっている。そんな時には、通りがかったコーヒー屋や蕎麦屋へふらりと寄って、その‘アヤシイ’ところを味わってみる。その‘アヤシイ’ところが、酷く腹立たしくて不味いこともあるし、妙に面白くて美味しいこともある。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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