ボスのまなざし

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月23日 23時30分]
ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)ことイェルーン・ファン・アーケン(Jeroen van Aken/1450-1516)の絵画に関するドキュメンタリー映画が日本で公開された。この三連祭壇画〈快楽の園〉(悦楽の園:Tuin der lusten)については、石牟礼道子も触れていた。
 
 《ニ十世紀の終焉がわたしに憑いていた。わたしだけでなく、地表の上のも
  のたち、魚や鳥にも、果物や野菜たちにさえそれが憑いていた。あのヒ
  エロニムス・ボッスが生きていたとしたら、憑いているものが悪霊である
  か神であるか描きわけることだったろう。》 (石牟礼道子 『苦海浄土』第
  二部「神々の村」第四章「花ぐるま」/『石牟礼道子全集 不知火』第二
  巻 藤原書店:刊 2004)
 腐ったまなざし (1)
 《地獄を描いたとみられるパネルの中央あたりに、「樹男」と呼ばれている
  不思議な顔があります。(略) 私の関心はなかんずくその樹男のまなざ
  しにあります。ロンドンの出版社から出たその画集の顔の目は、この世
  の成り立ちを凝視しているうちに、ついに彼の目そのものが、この世の
  虚無をあらわしてしまう、そんなまなざしなのです。》 (石牟礼道子 「高
  群逸枝のまなざし」/高群逸枝『恋愛論』講談社文庫版 解説 1975)
 
〈快楽の園〉の樹男(tree-man)のまなざしに高群逸枝のまなざしを置き換えてみた石牟礼道子のまなざしを、臼井隆一郎のまなざしはヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンのまなざしを取り入れたヴィルヘルム・フレンガーのまなざしで解き明かしている(臼井隆一郎 『「苦海浄土」論 同態復讐法の彼方』 藤原書店:刊 2014)。だが、私のまなざしは何か別のものをみている。ヒエロニムス・ボスのまなざしは、どこへ向けられていたのか? その妻アレイト・ファン・デ・メールフェンネの信仰に、彼のまなざしはどれほど影響されていたのか? 帰属した結社は正統なのか異端なのか? するとそこへ、映画の予告編が「美術界最大の問題作を通して奇想の画家の素顔に迫る」と言っている…本当か? 観てみよう。
 
『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』 (El Bosco El Jardín de los sueños) 観賞後記
 
 腐ったまなざし (2)
映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』は、‘まなざし’どころか‘目を覆う’べき愚作だ。プラド美術館による「全面協力!」どころか、同美術館の宣伝フィルムでしかない。著名な画家・漫画家・作家・歌手などが演者としてゾロゾロ登場するが、薄っぺらな感想を無責任にたれ流すだけで何の足しにもなっていない。ボス研究の美術史家ラインダー・ファルケンブルグもわけのわからない妄言をブツブツ言うだけで、《奇想の画家の素顔に迫る》どころか何一つ‘謎’の解き明かしがない。仮にテレビ向け特集番組をBBCやNHKに作らせたとしても、その方が百倍マシであろう。ホセ・ルイス・ロペス=リナレス監督の撮影そのものが《この世の虚無をあらわしてしまう》、そんな映画なのである。
 
ヒエロニムス・ボスの〈快楽の園〉にキリスト教の異端を嗅ぎ取ったヴィルヘルム・フレンガーのまなざしは、 澁澤龍彦から石牟礼道子を経て臼井隆一郎へと連綿たるものだ。しかし、私はまなざしを‘外’へ向けたい。三連祭壇画で観照されるのは、《憑いているものが悪霊であるか神であるか描きわける》内面3枚のパネルではなくて、パネルを閉じた時に現れる両翼外面に描かれた図像である。映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』では、内面3枚の絵から人や獣など動物の類を全て消し去って見せていたが、そんな演出をしなくても外面に天地創造3日目が描かれていて植物はあっても動物はいない。善も悪もなく失楽も官能もない無人の世界、それこそが《この世の虚無をあらわしてしまう》ボスのまなざしの観照であろう。
 
 腐ったまなざし (3) 腐ったまなざし (4)
映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』は、「この世は 地獄か? 天国か?」という実にバカげた惹句が付されていた。こんな腐った‘まなざし’の映画を観るのであれば、セルティック・フロストの‘Into The Pandemonium’とディープ・パープルの‘素晴らしきアートロックの世界’(Deep Purple)とパールズ・ビフォア・スワインの‘One nation underground’を聴きながら、山尾悠子の『夢の棲む街/遠近法』(三一書房:刊 1982)とカルロス・フエンテスの『テラ・ノストラ』(本田誠二:訳/水声社:刊 2016)を読んでいた方がずっと好い。
 
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おもかさま

ジャンル:ライフ / テーマ:ひとりごと / カテゴリ:あ・論廻 [2018年02月18日 23時30分]
アラビアンモカにアビシニアンモカ、ムニールモカにハラールモカ、保登(ほと)モカに吉城(よしき)モカ…モカにもいろいろあるが、「おもかさま」こと吉田モカ(旧姓:菅原/1875-1953)こそが史上‘最狂’のモカである。その「おもかさま」の孫である「みっちん」こと石牟礼道子は、2018年2月10日に死んだ。
 おもかさま (1)
 
 《石牟礼道子は、幼少時から狂女の祖母と心を通い合わせ、しかもその祖
  母との間で魂が「入れ替わった」血統書付きの狂女である。》 (臼井隆一
  郎 『「苦海浄土」論 同態復讐法の彼方』 藤原書店:刊 2014)
 
 《二〇一五年一月のある日、道子が「ハハハ」と愉快そうに笑った。夕方に
  なると目がかすむ道子のために私は『「苦海浄土」論』を大きな声で読み
  上げていた。本の後半の〈血統書付きの狂女〉という言葉にくすぐられる
  ように道子は反応したのだ。》 (米本浩二 『評伝 石牟礼道子 渚に立つ
  ひと』 新潮社:刊 2017)
 
目には目を、歯には歯を、狂った世間には狂った女を…水俣病闘争の同態復讐で血債の返済を求める狂女となった石牟礼道子は、1927年3月11日に生まれた。
 おもかさま (2)
 
 《世間では何かあるのかとテレビをつけましたら津波の映像。そして津波な
  のに都市が燃えていた。(略) 息もせずに、それをみんなで見つめて、な
  んという日だろうと思っていると、「今日は石牟礼さんの誕生日ですよ」と
  言われた。(略) また水俣のように、人々の潜在意識には残るけれども、
  口には出さない状況になると思いましたね。(略) 「また棄てるのか」と思
  いました。この国は塵芥のように人間を棄てる。》 (石牟礼道子:談 「上
  野千鶴子のニッポンが変わる、女が変える」/『婦人公論』2013年5月
  7日号 中央公論新社:刊)
 
 毒死列島身悶えしつつ野辺の花 (石牟礼道子/季刊『環』vol.46 2011)
 
石牟礼道子は84歳の誕生日に発した東日本大震災を詠じた句を、2013年秋に皇后美智子へ出した手紙の文末に添えた。この後、同年10月27日に美智子は天皇明仁と共に熊本県を訪れて水俣病胎児性患者と対面したが、さて、次代皇后雅子は新たな元号の時代に水俣を訪れるだろうか? それとも、雅子の祖父でありチッソ(旧:日本窒素肥料/現:JNC)の社長だった江頭豊(1908-2006)のように《また棄てるのか》? いずれにしても、昭和の黎明から平成の終焉までの計33,730日のうち33,210日を生きた石牟礼道子が、《塵芥のように人間を棄てる》社会を視ることはもうない。
 おもかさま (3)
 
 《安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば生者たちの欺瞞の
  ために使われる。》 (石牟礼道子 『苦海浄土 わが水俣病』 講談社:刊
  1969)
 
 《石牟礼道子は水俣病闘争のジャンヌ・ダルクと言われた。しかし、本書は、
  石牟礼道子を海と大地を殺すチッソの「母親殺し」(オレステイア)に呼び
  出されて登場すべく登場する復讐の女神(エリーニュース)と呼びたいの
  である。(略) 近代資本主義社会は日々、母親殺しの殺人現場である。
  ギリシア悲劇に倣えば、復讐の女神エリーニュースが登場してしかるべ
  き時である。》 (臼井隆一郎 前掲書)
 
 《「未来に何かをやりに行くのではなくて、過去に忘れたものを取りに行け」
  ということが石牟礼さんのとても大きなメッセージではないかなというふう
  に思うんです》(若松英輔:談/『100分de名著』58 「苦海浄土」 第3回
  「いのちと歴史」/NHK Eテレ 2016年9月16日放送)
 
 《黒砂糖はこの頃使います。コーヒーに黒砂糖入れたらおいしかったですも
  ん。それ以来です。たんに甘いだけじゃないですね。いろんな栄養が含ま
  れていますから》 (石牟礼道子:談 2016年9月/米本浩二 前掲書)
 
 おもかさま (4)
‘昭和’の石牟礼道子は血統書付きの狂女であり復讐の女神であるが、‘平成’の石牟礼道子は救済の聖女あるいは恩寵の女神へ変化(へんげ)した…そう私には感じられる。少なくとも『苦海浄土』三部作が完結した後の最期まで10年ほどは、《コーヒーに黒砂糖入れたらおいしかったですもん》という村媼となり、やや詰まらないし気に入らない。それでも、《過去に忘れたものを取りに行け》という若松英輔の言葉に同感の思いを強くして、《たんに甘いだけじゃない》黒砂糖入りのモカコーヒーを飲みながら狂った資本主義社会への復讐を私は画策する。「おもかさま」の如く、いつの日かわれ狂うべし。
 
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コーヒーにドーナツ、黒いニットのタイツ。

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2018 [2018年02月12日 01時00分]
日が少しだけ長くなった冬の午後のひととき、コーヒーを飲みながらコーヒーの世界について片岡義男の文を読んで楽しむ、ということを僕は思いついた。10日ほど前、『週刊朝日』2月9日号(朝日新聞出版:刊 2018)で片岡義男による『珈琲の世界史』(旦部幸博:著/講談社:刊 2017)の書評を読んだ。その書評は「モカを飲んだらその歴史も知ろう」と題されていたが、いま僕が飲んでいるコーヒーはタンザニアの深煎りだ。たいそう結構だが、さて何を読もうか。『豆大福と珈琲』(朝日新聞出版:刊 2016)を読み返すのもいいだろうし、『珈琲が呼ぶ』(光文社:刊 2018)を読み進めるのも悪くない。読み逃していた『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』(光文社:刊 2016)という本のことを、僕はふと思い出した。その本を鷹来公民館の図書室で借り出して、自宅に戻って読み始めた。
 コーヒーにドーナツ、黒いニットのタイツ。 (1)
 
『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』は、片岡義男が小説家になる前を描いた1960年から1973年までの自伝小説であり、コーヒー小説でも音楽小説でもあった。どのストーリーも、当時のレコードのスリーヴが添えられていて名調子といえる。片岡義男はコーヒーで調子に乗っているな、と僕は思った。午後の2杯目のコーヒーは、グァテマラとパナマのブレンドを淹れた。借り出した本はソフトカバーが透明なフィルムで覆われていて外せないので、ドーナツ盤の枚数が増えてコーヒーの量が減っている洒落たデザインの表紙を見ることができなかった。僕が飲んでいるコーヒーは、カップの中で少しずつ減っていった。
 
 《交差点で信号を待っているとき、都電が走っとらんことに気づいた。そうか、
  都電がなくなったのだ、だからなにか変なのだ、と気づいた。おもての靖
  国通りだよ。レールやポイントはそのままだけど、もう都電は走っとらん。
  昨夜、花電車になった最後の運行を、昨日も偶然に会ったきみといっしょ
  に見届けたよな。あそこでひとつの時代が終わった。今日は次の時代が
  とっくに始まっている。》 (片岡義男 「今日のコーヒーは、ひときわ苦いな」
  /月刊『Free&Easy』2015年12月号 掲載に加筆/『コーヒーにドー
  ナツ盤、黒いニットのタイ。』 pp.260-261)
 コーヒーにドーナツ、黒いニットのタイツ。 (2)
「今日のコーヒーは、ひときわ苦いな」という篇は、神保町のラドリオかミロンガであろう喫茶店で片岡義男が先輩の漫画家とコーヒーを飲みながら過ぎゆく‘時代’を語り合う話だ。だが、なにかが変だ、と僕は思った。神保町の靖国通りから《都電がなくなった》のは1970年3月26日が《最後の運行》だったので、この話は1970年3月27日に生じたことになる。ところが、この話は『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』の‘1968’年の章立てに収められている。話の中にも、《一九六八年、俺はとっくに三十を越えている》という先輩のことばがあった。だからなにか変なのだ、と気づいた。どこで《ひとつの時代が終わった》のか、《次の時代がとっくに始まっている》今日とはいつのことなのか。時代を捉え違えたコーヒーはひときわ苦いな、と僕は思った。
 
 コーヒーにドーナツ、黒いニットのタイツ。 (3)
『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』には、片岡義男が飲んだコーヒーと聴いた音楽が膨大に横たわっていた。僕の自宅にコーヒーはあるが、ドーナツ盤も黒いニットのタイも今はない。だから、この本を公民館で借り出した帰りに寄り道してドーナツを買ってきた。黒いニットのタイは用意しなかったが、入れ替わりで外出する妻は黒いニットのタイツを穿いていた。コーヒーにドーナツ、黒いニットのタイツ。このドーナツには、ブルンジとブラジルとコスタリカを配合した深煎りブレンドが似合うだろう。さあ、午後の3杯目のコーヒーを淹れよう。
 
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君よ憤怒の皮を被れ

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月10日 01時30分]
夜に新宿で駅の東口側から角筈ガードを潜ると刑事に追われているんじゃないか、西口側へ抜けると旧青梅街道を馬が集団で駆けてくるんじゃないか、そういう気分になったことは何度もある。だが、追っていた下川辰平(1928-2004)も追われていた高倉健(1931-2014)も死んでもういない。そして、原田芳雄(1940-2011)も大滝秀治(1925-2012)も死んでもういない。駆けてきた馬に乗った気分でスキャットを口ずさみながら新宿西口を南下したくても、沢田靖司(1939-2017)も昨年4月18日に死んでもういない……《男にはね、死に向かって飛ぶことが必要な時もあるんだ》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 君よ憤怒の皮を被れ (1) 君よ憤怒の皮を被れ (2)
 
  ダーヤラーダヤララダヤララー ダーヤラーダヤラダダヤララー
  ダヤラーヤラダーヤラダーヤラー ダヤラーヤラダーダヤラーァー ♪
 
『マンハント』(追捕) 観賞後記
 
 君よ憤怒の皮を被れ (3)
このリメイク映画は、始まってスグに主役のドゥ・チウ(チャン・ハンユー:演)が「孤独の逃亡」(杜丘之歌/『君よ憤怒の河を渉れ』主題歌/青山八郎:作曲)を口ずさみ、敵役のレイン(ハ・ジウォン:演)とドーン(アンジェルス・ウー:演)とも『君よ憤怒の河を渉れ』の台詞を話題にする。直後にレインとドーンが服をはためかせて背中合わせに拳銃をぶっ放してヤクザを皆殺しにする待ってましたの‘ジョン・ウー・アクション’、そのBGMは「孤独の逃亡」。ジョン・ウー監督、よくやった! 泣けてくるぜ! …ん? チョット待て? 『マンハント』の杜丘(ドゥ・チウ)は「濡れ衣を着せられて逃げる杜丘(もりおか/高倉健:演)と追う矢村(原田芳雄:演)と助ける真由美(中野良子:演)」という映画を熟知している上で、同名の矢村(福山雅治:演)や真由美(チー・ウェイ:演)と一緒に逃亡劇を再現していくのか? オカシイだろ、ジョン・ウー! 《なぜだ、なぜなんだ》……《あなたが好きだから》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 
 君よ憤怒の皮を被れ (4)
大映を倒産させた永田ラッパ雅一が製作(新・大映と永田プロ)で佐藤純彌と高倉健が東映を外れて初に監督と主演で配給は松竹という映画『君よ憤怒(ふんど)の河を渉れ』(1976)は、整合の欠片も無い無茶苦茶な痛快娯楽作品だった。そのリメイク映画(実際は西村寿行の原作小説『君よ憤怒(ふんぬ)の河を渉れ』の映画化権再取得)である中国映画『マンハント』(追捕/2017)は、ある意味で旧作の続編のようだ。意味もなく武闘に強すぎる中国人弁護士、湯川学比古清十郎にしかみえない捜査一課係長、中国(大陸本国も香港も台湾も含めて)へも日本へもウケを狙った八方美人の演出、整合の欠片も無い無茶苦茶な痛快娯楽作品に仕上がっていた……《見たまえ、あの青い空を。歩いていくんだ。君はあの青い空に溶け込むことができる》(『君よ憤怒の河を渉れ』)。
 
 君よ憤怒の皮を被れ (5)
映画『マンハント』は、オール日本ロケの中国映画でもスケール感は弱いし、アクションはともあれ情感で追い込みまくって爆発させる‘ジョン・ウー節’も中途半端だが、何故だか‘憤怒’しきれない愛嬌のある作品だ。ちなみに、女優陣は全員どヘタクソだが愛嬌がある。ここを「マンハント」じゃなくて「ウィミンハント」して、「追捕」じゃなくて旧作の「追補」版と捉えて、「君よ憤怒の皮を被れ」と勝手に改題しておこう。
 
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怒りは笑いを来す

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2018年02月07日 01時30分]
エビング広告社のレッド・ウェルビー(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ:演)は、“A Good Man Is Hard To Find”(善人はなかなかいない)を読んでいた。
 怒りは笑いを来す (1)
 
 《犯罪のほうは問題じゃないんだ、人殺しでも、タイヤをはずして盗んでも、
  なにをしようとね。どうせおそかれ早かれ、自分のしたことは忘れてしま
  って、ただ罰を受けるだけになるんだ。》 (フラナリー・オコナー 「善人
  はなかなかいない」/『善人はなかなかいない』 横山貞子:訳/筑摩書
  房:刊 1998)
ミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド:演)は、後悔の自責をすり替えて他人を攻める気狂(きちが)いクソババアである。STILL NO ARRESTS?…
 
 《もし、イエスが言ったとおりのことをやらなかったとすれば、おれたちとし
  ては、残されたわずかな時間を、せいぜいしたいほうだいやって楽しむ
  しかないだろう──》 (フラナリー・オコナー 「善人はなかなかいない」
  /前掲書) 
ビル・ウィロビー(ウディ・ハレルソン:演)は、身勝手な善良を演じて独りよがりに自滅していく末成(うらな)りグズ保安官である。HOW COME, CHIEF WILLOUGBY?…
 
 《人生に疑問をもたずに一生すごす人もいれば、なぜ人生がこうなのか、
  わけを知りたがる人もいるもんだ。》 (フラナリー・オコナー 「善人はな
  かなかいない」/前掲書)
ジェイソン・ディクソン(サム・ロックウェル:演)は、求めるべき正義も判らない劣等と愚鈍の鼻摘(はなつま)みバカ巡査である。RAPED WHILE DYING…
 
 怒りは笑いを来す (2)
ミルドレッドとウィロビーとディクソンの人生は‘ebbing’(漸次的下降中)である。だから、3つの看板広告が掲げられた田舎町は‘Ebbing’(エビング)だったのかもしれない…
 
『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri) 観賞後記
 
 《私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受けいれ
  る準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭
  は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実と
  は、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。》
  (フラナリー・オコナー 「自作について」/『秘義と習俗』 上杉明:訳/春
  秋社:刊 1999)
 
 怒りは笑いを来す (3)
このフラナリー・オコナーの言は、映画『スリー・ビルボード』をつくったマーティン・マクドナー(脚本・監督・製作)の企図と読み換えてもよいだろう。その企図を舞台演劇の劇作家らしい脚本に載せたマーティン・マクドナー、馬小屋自殺や鹿遭遇や兎スリッパ問答などの‘エビング’な俗っぽい演出には興を殺がれたが、結果として傑作。
 
 怒りは笑いを来す (4)
この『スリー・ビルボード』という作品では、‘anger begets anger’(怒りは怒りを来す)という真実だけが《われわれが立ち戻るべきなにか》を示している。ウィロビーは末成りのまま死に、ディクソンは鼻摘みのまま暴力の対象を人種から犯罪へすり替え、ミルドレッドは気狂いのまま孤軍奮闘から共闘へ移る。それらは皮相な手段の変更であって、‘改心’などでは全くない。また、救済だの啓示だの恩寵だのと言っても、それらは神の意志そのものではなくて、人間の欲を投影したいわば3つの看板広告でしかない。‘神の恩寵’は神のものであり、‘怒りは怒りを来(きた)す’という真実は人のものであり、この二つに繫がりはない。神は無責任であるが、人間はさらに無責任なのだ。「善人はなかなかいない」という意味はそういうことであり、ブラックコメディ映画『スリー・ビルボード』の効き目もそこにある。怒りは笑いを来す。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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