珈琲まんぱい

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2019 [2019年03月27日 01時00分]
2019年3月24日、岐阜県美濃加茂市の「太田宿中山道会館」を訪ねた。岡本一平(1886-1948)が死ぬまでの約2年を居した家(旧:古井町の岸清二宅の離れ)、この一部を再現した「糸遊庵」を久しぶりに観る。建物に添うように置かれた碑には岡本一平による漫俳(まんぱい)2句、「木曽川と枕を並べ晝寝かな」と「秋晴れや映画の景色行くここち」がある。
 珈琲まんぱい (1) 珈琲まんぱい (2)
 
 《新聞の日曜附録の一ページに大掃除を題材にした漫画がいろいろ出てい
  る中に岡本一平氏のがある。(略) ほかにも数々の漫画があるが、どうも
  ただ表面だけふざけていて中味の何もないのが多いようである。一平氏
  のには、多くの場合にそうであるように、おかしみの底に人情味が流れて
  いて噛みしめるとあわれがにじみ出す。(略) ただ一枚の漫画でもこうい
  うのを朝食時に見ると、その日一日ぐらいは自分の心情の上に何かしら
  よい効果を残すように思われる。》 (寺田寅彦 「漫画」 1935/『栃の実』
  小山書店:刊 1936)
 
寺田寅彦(1878-1935)は岡本一平の漫画を好評したが、最晩年の岡本一平が漫俳を提唱したことや詠んだ句については泉下でどう評しただろうか…そんなことを考えながら、会館の企画展示「岡本一平 新しい五・七・五 漫俳展」を観た。岡本一平は62歳で死ぬまでその前年に生まれた赤ん坊(四女みやこ)をあやしていたのだろうか…そんなことを思いながら、講演「岐阜にやってきた岡本一平 新しい5・7・5「漫俳」の誕生」(黒野こうき:講師)を聴いた。
 
 風流は六十二にして子守歌  (岡本一平)
 
 老いてなお壮ん野暮ったい珈琲  (鳥目散帰山人)
 
 珈琲まんぱい (3) 珈琲まんぱい (4)
「太田宿中山道会館」の屋外では「イットココトゴト 顔が見えるものづくりフェア Vol.3」が催されていた。好い天気だがテントや商品を吹き飛ばしそうな強風の中、喫茶出店していた「coffee Camouflage」(カモフラージュ/西部さおり)でコーヒー(エチオピア・ゲイシャ)を買って、「コクウ珈琲」の豆売り出店(小川友美)で遊ぶ。
 
 春の日や蛙あつち向きこつち向き  (岡本一平)
 
 向き向きに珈琲おどる春の風  (鳥目散帰山人)
 
 珈琲まんぱい (5) 珈琲まんぱい (6)
春光眩しい木曽川の景を楽しんでから、「コクウ珈琲」(篠田康雄)へ移ってコーヒー(ネル淹てのマンデリン)を飲みながら、店置きの雑誌にコーヒーエッセイを見つけて読む。
 
 《ところが不思議なもので、いい加減な淹れ方をしているはずが毎回どこか
  似通った味になる。もちろん焙煎度合いが浅煎りとか深煎りとか、どの店
  で買ってきた豆かで香味は変わるのだけど、飲めば「うちのコーヒー」の
  味だと感じる。(略) それも含めて「うちのコーヒー」の味。おいしいコーヒー
  の方が好きではあるのだが、まずいコーヒーはまずいコーヒーで、何とい
  うか、愛おしい。》 (旦部幸博 「「うちのコーヒー」の味」/『暮しの手帖』第
  4世紀99号 2019年4・5月号 暮しの手帖社:刊)
 
自分で淹れたコーヒーを、もう何万杯も飲んでいる。焙煎度合いが浅煎りとか深煎りとか、誰が焼いたコーヒーかで香味は変わる。そして不思議なもので、同じ豆を同じ器具で淹れて、豆の状態や季節に応じて抽出を無意識のうちに微調整しているはずが、毎回毎回違った味になる。「今日のはちょっと苦めだったかな?」と妻に訊ねると「別に…」との返事。ふと、「沢尻エリカかよ」と突っこみたくなった。それも含めて「うちのコーヒー」の味。まずいコーヒーはまずいコーヒーで仕方がないが、それを愛おしいなどと思ったことは微塵もない。いや、おいしいコーヒーの方が好きではあるのだが、それを愛おしむよりももっとおいしいコーヒーを求めるのだ…そんなことを想いながら、コーヒーで満杯の珈琲漫俳をひねった。句になっていない「珈琲まんぱい」は、《どうもただ表面だけふざけていて中味の何もない》苦にするものだ。
 
 むかしむかし砂糖ありけり草の餅  (岡本一平)
 
 むかむかし菓子を珈琲で呑みこむ  (鳥目散帰山人)
 
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忘れ草をもう一度

ジャンル:映画 / テーマ:映画感想 / カテゴリ:観の記:映面 [2019年03月25日 23時30分]
 ♪ ふいに聞いた 噂によれば 町はそろそろ 春のようです
  君のいない 広い荒野は いつも 今でも 冬というのに
  君の町は 晴れていますか 花の種は 育ちましたか
  僕はここで 生きてゆきます 未練なジジイになりました
  忘れ草を もう一度 そだててよ あの人の思い出を 抱きしめて
  忘れ草を もう一度 はこんでよ あの人の 夢にとどけ ♪
 
 忘れ草をもう一度 (1)
「あんた、「運び屋」したら人生終わりやで!」(税関ポスター)…うるせえ! このクソアマ! デイリリー(忘れ草)を愛でた「運び屋」レオ・シャープまでも《あんた》呼ばわりするならば、テメェら許されざる者だ。ハリー・キャラハンならば‘Go ahead, Make my day.’と言って銃を向けるだろう。だが、オレは黙ってクソアマのツラに穴を空けてから家に戻って赤ん坊のように眠るね。…何ぃ? アメリカ白人の夢想を描いた映画『グラン・トリノ』(2008)を最後に俳優引退の宣言をしたクリント・イーストウッドが、主演(兼製作・監督)で戻ってきたぁ? …あんた、「運び屋」したら人生終わりやで!
 
 忘れ草をもう一度 (2)
『運び屋』(The Mule) 観賞後記
 
 《アメリカの「歴史」をイーストウッドはかつて一度だって「終わり」から見ようと
  しなかったことを、私は改めてそこに痛感した。そうか、うっかりしていたと
  思った。腰の座った、揺るぎない「思考」がそこにあったと言ってもよい。そ
  れが生きている者だけとの交通によるものだったのかが危うかった。この
  映画の速度を呼吸するに必要なものを、「生」の文脈において求めるには、
  あまりに映画の被っていた空気が緩慢だったからである。そしてそれが緩
  慢だと感じるのは、いわば私が「映画」を忘れることに慣れてしまっている
  からである。「映画」を忘れることが、あたかも「現在」の必然であるかのよ
  うな私たちの意識を、イーストウッドの新作が静かに振り返らせていると言
  い換えてもよい。忘れることを知るのは思いだすからである。》 (稲川方人
  「ハデスの国の群像」/『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン No.24 映画の21
  世紀Ⅷ クリント・イーストウッドの肖像』 勁草書房 1998)
 
クリント・イーストウッドの監督作品『真夜中のサバナ』(1997)を観た稲川方人の評は、そのまま今般に『運び屋』を観た私の評とする。『運び屋』(2018)に関するインタビューで「学ぶことに年齢は関係ない」と、『グラン・トリノ』の時と同じことを言っているイーストウッド。少なくとも10年、いや20年、いやいや半世紀ほど前から、クリント・イーストウッドは《揺るぎない「思考」》の個人主義者として変わっていない。『真昼の死闘』(1970)の舞台であるメキシコと『グラン・トリノ』の舞台であるデトロイトの間を行ったり来たりした『運び屋』のアール・ストーン(イーストウッド:演)のように、イーストウッドは年齢に関係なく全く学んでいない。そして、「クリント・イーストウッド、ジジイなのにスゲェ」と《あたかも「現在」の必然であるかのような私たちの意識》もまた、年齢に関係なく《うっかりして》全く学んでいないのである。それを《イーストウッドの新作が静かに振り返らせている》、何せ“The Mule”(=頑固者)だから。映画『運び屋』は、‘Waffle House’でアール・ストーンとコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー:演)が朝食を摂りながら語り合うシーンが好かった。《忘れることを知るのは思いだすからである》、何せデイリリー(忘れ草)を愛でた「運び屋」だから。
 忘れ草をもう一度 (3)
 
 ♪ 春や夏や秋が あるのは しあわせ行きの ヤクの客です
  君が乗せた 最後のチャリが 消えた荒野は 長い冬です
  君は今も 咲いていますか 誰のために 咲いていますか
  僕はムショで 生きてゆきます 未練なジジイになりました
  忘れ草を もう一度 そだててよ あの人の思い出を 抱きしめて
  忘れ草を もう一度 はこんでよ あの人の 夢にとどけ ♪
 
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法則の抽出

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2019 [2019年03月23日 01時00分]
【はじめに】
『コーヒー抽出の法則』(田口護・山田康一:著/NHK出版:刊)というコーヒー本が出た(2019年2月20日発行)。《この本で伝えることは、すべての抽出のベースとなる技術と、味をコントロールするための法則の基本である》(p.4)という…それでは、『コーヒー抽出の法則』を抽出してみよう。
 法則の抽出 (1)
 
【序章 抽出の前に】
『コーヒー抽出の法則』は、「café Bach」(カフェ・バッハ)とバッハグループを率いる田口護氏がNHK出版を版元とした2冊目の共著本である。1冊目は旦部幸博氏とタッグを組んだ『コーヒー おいしさの方程式』(2014)であり、取材と文は嶋中労氏が担当した。今般の2冊目の共著者はカフェ・バッハ内の山田康一氏であり、取材と文は太田美由紀氏が担当した。この『コーヒー抽出の法則』にも旦部幸博氏が‘科学監修’として参じてはいるが、実践の技術者と理論の科学者が‘嶋中節(ぶし)’に乗って火花を散らした『コーヒー おいしさの方程式』とは語調も文体も全く異なる。『コーヒー抽出の法則』は、取り上げる分野を主に抽出と限っただけではなく、‘読み物’として静穏かつ詰屈なものになっている。
 
【第1章 抽出の仕組み】
『コーヒー抽出の法則』は、《この一冊を何度も読み返し、理解を深め、自分のものにすることができれば、コーヒーの味を極めることもそう遠い話ではない。それは、あなたがコーヒーの抽出の経験がなく、一からはじめるとしても、である》(p.108)と謳う。だが、田口護氏による版元違いの旧著『カフェ・バッハ ペーパードリップの抽出技術』(田口護:著/旭屋出版:刊 2015)のカバーには《コーヒーの抽出を、これから始める人のために》と記されていた。では、コーヒーの抽出を学ぶ者はどちらから読めば好いのか? 総じて言えば、どちらでも好い。2冊の本は、判型も価格も、そして「カフェ・バッハ流の抽出技術を概括する教本」としての精度にも、大きな差がないからである。
 
【第2章 味を決める法則】
私は、旦部幸博氏が著した『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』(講談社:刊 2016)を楽しめる向きにはNHK出版の『コーヒー抽出の法則』を推し、科学による解き明かしを嫌って文章より写真を見て楽しむ向きには旭屋出版の『カフェ・バッハ ペーパードリップの抽出技術』を薦めておこう。但し、『コーヒー抽出の法則』と『カフェ・バッハ ペーパードリップの抽出技術』とでは、三洋産業のスリーフォーというペーパードリッパーで淹れる「カフェ・バッハ流の抽出技術を概括する教本」として大差ないのであって、カフェ・バッハとは違う器具や異なる技術を用いる場合には留意しておくべき点がある。
 
 法則の抽出 (2)
【第3章 様々な器具での抽出】
例えば、コーノ(珈琲サイフオン)の名門やハリオ(HARIO)のV60などの一つ穴円錐型ドリッパーでコーヒーを淹れたい者は、「抽出器具と味の関係」の適性を説く図が2冊の本で全く異なって示されていることを承知されたい。どちらが正しいのか? それが問題なのではない。《すべての抽出のベースとなる技術と、味をコントロールするための法則の基本》が三洋産業のスリーフォードリッパーで淹れることを基準にしている限り、違う器具や異なる技術を用いる場合の言及で確度や精度が鈍ることは当然である。つまり、『コーヒー抽出の法則』に示された「味を決める法則」はカフェ・バッハ流の抽出技術に拠ったものであり、その信奉と選択の是非は読み手に委ねられているのである。
 
 法則の抽出 (3)
【おわりに】
『コーヒー抽出の法則』は、《私が目指すのは、半生をかけて私が手にした技術や法則をもってあの世に行くことではない》(p.5)という田口護氏が、《あの世に行く》前に山田康一氏を共著者として「カフェ・バッハ」の承継を掲げたコーヒー本である。《私が目指した当初の目的は達成されただろうか》(p.109)、今はまだ判らない。なぜならば、『コーヒー抽出の法則』では山田康一氏の声がまだ聴こえてこないからである。今の私が解せるところは、《この本で伝えることは、すべての抽出のベースとなる技術と、味をコントロールするための法則の基本である》(p.4)という表現を、「この本が伝えることは、蓋然性の高い抽出のベースとなる‘法則’と、味をコントロールするための‘技術’の基本である」と正すことにある。そのように『コーヒー抽出の法則』を抽出してみた。
 
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朧月夜

ジャンル:学問・文化・芸術 / テーマ:art・芸術・美術 / カテゴリ:観の記:美面 [2019年03月20日 05時00分]
【解れと解れ】
2019年3月17日の昼下がり、ギャラリーLaura(ラウラ/愛知県日進市)で伊藤千帆氏の「歪み(ひずみ)と歪み(ゆがみ)」を観た。
 
 朧月夜 (1) 朧月夜 (2)
先(せん)だって先(さき)だって観た「ひずみ、反響する声」、今般の「歪み(ひずみ)と歪み(ゆがみ)」、大きさは違(ちが)うが、ラテックスと枝は違(たが)わない。ゴムのカーテンは鈍(のろ)い呪(のろ)いのようで、滑(ぬめ)って弾(はじ)いて捩(もじ)って支(ささ)えて覆(おお)って包(くる)んでいる。木の枝は鈍(にぶ)い呪(まじな)いのようで、滑(すべ)って弾(ひ)いて捩(ねじ)って支(つか)えて覆(くつがえ)って包(つつ)んでいる。放(はな)った時空で解(ほぐ)れているのか、放(ほう)った時空が解(ほつ)れているのか、惚(とぼ)けて惚(ほう)けて観た。
 朧月夜 (3) 朧月夜 (4)
 
 
【起源と根源】
2019年3月17日の夕暮れ、ギャラリー星月夜(ほしづきよ/愛知県犬山市)で金憲鎬(キムホノ)氏の「起源」を観た。
 
 朧月夜 (5)
 《今回“起源”というテーマは 食に携わる私たちにとって大切な土や種という
  いきもののはじまりを感じる作品を見てみたいとお伝えしました。その少し
  後、キムさんから届いた封書に一言、『“起源” わすれていて持っている、
  からだは忘れていない』と添えられていた。はじまりをからだは忘れていな
  い。キムホノさんの表現する“起源”。今展では絵と陶の2つで表現してい
  ただきました。》 (Web「星月夜」 exhibition 金憲鎬展“起源”)
 朧月夜 (6)
 《人間が無意識に求めている根源的なものが、そこにあるかどうかだと思う
  んです。無意識のうちに必ず感じていると思うんですよ。そういうものが残
  る。だから、大坊珈琲店はそういう根源があったんですよ。人間の根源が
  そこにあったんですよ。》 (キムホノ:談/『大坊珈琲の時間』 自由空間:
  刊 2015)
 
金憲鎬(キムホノ)氏の作品に氏自身が《無意識に求めている根源的なもの》を感じる。私のからだは「起源」を感じない。星月夜で催されていた「大坊珈琲の時間」には参加しなかったが、催事の合間に私が焼いたコーヒー豆を大坊勝次氏へ渡した。
 
 
【朧月夜】
2019年3月17日の宵のうち、コクウ珈琲(岐阜県美濃加茂市)でコーヒー(タンザニアとエチオピア)を喫した。
 
 朧月夜 (7)
篠田康雄氏・小川友美氏と談じながら、観てきた2つの作品展と渡したコーヒーのことを考えていた。歪み(ゆがみ)と歪み(ひずみ)は、解れ(ほぐれ)と解れ(ほつれ)だ。根源と起源の違いは、欲の有無だ。ラウラには解(ほぐ)れた欲が足りず、星月夜には解(ほつ)れた欲が溢れていた。大坊勝次氏へ贈ったブレンドコーヒー、名付けて「朧月夜」(おぼろづきよ)。帰途に空を見上げると余寒の星月夜、だが春には朧月夜が好ましい。
 
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喫むこと考えること

ジャンル:グルメ / テーマ:コーヒー / カテゴリ:珈琲の記:2019 [2019年03月15日 01時00分]
コーヒーについて考えるに、これまでもワインの本やカカオ・チョコレートの本や紅茶の本や分子調理の本や居酒屋の本などから捉えてきたが、今般は「食べること」に関する散文の本で考えて…まぁ、『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民』(中田英樹:著 有志舎:刊 2013)の書評が収載されていたから読み始めたのだけれども。
 喫むこと考えること
 
『食べること考えること』(散文の時間)
(藤原辰史:著/共和国:刊 2014)
 
 《グァテマラ共和国は、北西にメキシコ、東にベリーズ、南東にホンジュラスお
  よびエル・サルバドルと隣接する、中南米の国である。(略) この資源小国
  が、ドイツという大消費地を得てドイツから資本を誘導することで世界的な
  コーヒー産地に変わっていくという、開発の側からすると成功譚とされやす
  い物語を、ひとりの先住民の眼を通して解体し、組み立て直す作業が本書
  の内容である(ドイツの第一次世界大戦の敗戦が、グァテマラの開発独裁
  の没落に連動したという史実は興味深い)。その先住民とは、パナハッチェ
  ル出身の青年、ホァン・デ・ディオス・ロサーレスである。(略) 彼は、シカゴ
  大学の人類学者たちがイメージする近代資本主義世界を調査地に投影で
  きない。(略) これを中田は、「躓き」と表現する。そして「躓き」にこそ、今後
  の他者理解の可能性の一端をつかもうとしているのである。(略) そして、
  読後の読者は、二つの「いま」に向かって石を投げざるをえない。世界的
  規模で邁進する開発の波に乗ってしか他者を理解できない「いま」と、そし
  て、「近代的所有概念」を前提にしてしかモノにアクセスできない「いま」で
  ある。もちろん、その石は、ロサーレスが躓いた「石」であるとともに、自分
  たちが躓いてきた石でなくてはならないのである。》 (藤原辰史 書評 中田
  英樹『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民』/『季刊 ピープルズ・プラ
  ン』62号 2013.8/「躓きの石こそ投じよ」付題 『食べること考えること』
  収載)
 
中田英樹氏による『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民』と藤原辰史氏による書評との読後は、私はコーヒー界の《二つの「いま」に向かって石を投げざるをえない》。高値と珍奇を前提にしてしか価値をアピールできない「スペシャルティコーヒー」の「いま」と、そして、誤謬だらけの情報の波に乗ってしか他者を理解できない「サードウェイブコーヒー」の「いま」である。もちろん、その石は、エルナ・クヌッセン氏トリシュ・ロスギブ氏らが自ら躓いた「石」でもある。しかし、昨2018年6月16日に96歳で死去したエルナ・クヌッセン氏の‘提唱’を解体して組み立て直す作業は未だに進んでいない(特に、日本のコーヒー界でクヌッセン氏の訃報すら周知されないという状況は興味深い)。コーヒーに関する業界や学究の世界では、他者理解の可能性の一端すらつかもうとしていないのである。
 
 《食べものとは何か。この問いに答えることは、じつは難しい。たとえば、天丼。
  ぷりぷりのエビや新鮮な野菜がサクサクの衣に包まれていて、炊きたての
  白米の上に乗っている。しかし、これは、殻を引きはがし、頭と足をむしり
  取ったエビの死骸と、サツマイモやシイタケ、小麦、稲の一部あるいは全部
  をむしり取って生命を断ち切ったものの集合体である。たとえば、ハンバー
  グ。切り分けるととろっと肉汁が出てくる。しかし、これは、屠殺した牛や豚
  の死肉を細かく刻んだ肉片に、バラバラに切り分けたタマネギの葉っぱの
  肥大した根元、鶏が産んだ無精卵の中身、そして、小麦の実の死骸を焼い
  て乾燥したものを加え、捏ねて、熱で変質させたものである。(略) 要する
  に、食べものとは、叩いたり刻んだり炙ったりした生きものの死骸の塊なの
  である。》 (藤原辰史 「「食べもの」という幻影」/『世界思想』40号 2013.
  4/『食べること考えること』収載)
 
ところで、そもそも、コーヒーとはなんだろう? 「コーヒーは生鮮食品だ」と、田口護氏や一宮唯雄氏らが言っている。「コーヒーはフルーツだ」と、坂本孝文氏や川島良彰氏らが言っている。コーヒーとは何か。この問いに答えることは、じつは易しい。たとえば、淹れたてのコーヒー。フワフワと上がる湯気と共に芳ばしい香りが漂い、コクリと飲めば独特の味わいが口中に拡がる。しかし、これは、コーヒーノキの果実をむしり取って生命を断ち切ったものから種子を取り出し、これを乾かして熱を加えて砕き、水を溶媒として煮溶かしたものである。要するに、コーヒーとは、干したり焼いたり潰したりした生きものの死骸を溶かした液体なのである。「コーヒーは死骸だ」と、私は言おう。
 
 《まず、二十世紀後半の「南」の諸国における農村の現状が読者に突きつけ
  られる。たとえば、タンザニア、コーヒーの木から豆を摘んで、果皮を砕き、
  干して乾燥させ出荷する女性が、安宿に泊まりながら出稼ぎをつづける夫
  に売上金のすべてをわたすが、夫はそれを飲食に使い、妻に暴力をふる
  う。(略) 農村の現状は厳しい。どうすればそれを打開できるのか。本書は、
  地主や大企業や国家を相手に世界各地で闘争を繰り広げる農民たちに
  希望を託す。(略) たとえば、冒頭のタンザニアの例。自宅で妻に暴力を
  ふるう夫は、搾取者であり被搾取者でもある。都市、農園、商社、先進国、
  さまざまなアクターがこの家族に交差する。》 (藤原辰史 書評 ヘンリー・
  バーンスタイン『食と農の政治経済学』/『図書新聞』3081号 2012.10
  /「古くて新しい「階級」とは?」付題 『食べること考えること』収載)
 
農業思想史・農業技術史の研究者である藤原辰史氏が著した『食べること考えること』は、正に「食べること」に関する散文をまとめた本である。その書評や論考は直截な表現に溢れていて、間接であってもコーヒーの実相に交差する。『食べること考えること』は、コーヒーを喫(の)むこと、コーヒーを考えることに繋がっている。コーヒーとはなんだろう? 私にとって「コーヒーは死骸だ」としても、いや、それだからこそ、その追究はじつに面白いのである。
 
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kisanjin

Author:kisanjin
鳥目散 帰山人
(とりめちる きさんじん)

無類の珈琲狂にて
名もカフェインより号す。
沈黙を破り
漫々と世を語らん。
ご笑読あれ。

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